追っ手

 右のすねの上を何かが這いまわる感触に脚を震わせ、目を開けようとして自分が仰向けに寝転がっていることに気づいた私は、身体を起こそうとして全身に鈍い痛みが走り、うめき声とともに大きく息を吐き出した。


 たしか、足を踏み外して斜面を転げ落ちたのだ。気を失っていたのかもしれないがわからない。今は意識もあるし自分が何者かも認識できる。では、どこか折れたり怪我をしたりはしていないだろうか。試しに四肢に力を入れてみるとどれも問題なく動く。バッグの中のビール瓶も無事なようだ。


 ひとまず上半身を起こそうと地面に両手をつくなり左肩に激しい痛みを感じ、折れてはいなくとも二度もぶつけたせいでくらいは入ったかもしれないと 私は顔をゆがめて己の運のなさに溜め息を吐き出した。


 右腕を使って身体を起こした私は、スマホはどこかと探そうとして左手に握られたままなのに気がついた。ライトを点けようと電源ボタンを押すと、中村からの『なんか動いてます』という抽象的なメッセージが画面に表示された。


 これはどのメールに対する返信なのだ。私は中村に合わせてカッポギ氏の話をしていたはずである。まだ薬物の影響が残っているのかもしれない。


 そういえば中村はカッポギ氏が死んだだの、そうかと思えば見かけただのと、意味の通らないことばかりを口走っていた。考えてみれば、本当にそんな人物がいるのかも怪しい。酩酊していた中村が創り出した想像上の友人の可能性もある。


 再び溜め息を吐いた私は、『何がどう動いていて、どういう状況に』と文字を打ったところで、自分が何者からか逃げようとしてこんな事態に陥ったのだと思い出した。


 もしや、あれは動画に映っていた黒い人物ではないのか。驚いて思わず逃げてしまったが、そんな必要はなかったのかもしれない。薪の燃えかすと見間違えた可能性もある。どちらにせよ、人であったならば村人だろうし関わらなくて正解だったはずだ。


 どうにか立ち上がった私は右足の裏に草葉の感触を直に受け、転落中にどこかへ飛んでいってしまったらしいスリッパを探そうと、ライトを点けて足元の地面を照らしてみた。


 地面を覆い隠すように雑草と枯葉が敷き詰められており、この中からたった一つのスリッパを見つけるのは骨だと思いつつ、右手側にライトを向けるとそこそこ急な勾配こうばいのついた斜面が照らし出された。ここを上れば焚き火の場所へ戻れるが、また黒い奴に出会でくわすことにもなってしまう。


 ともかく、スリッパがなければ山道はおろか、集落内を移動することだってままならない。盗みのようになるのが嫌でやらなかったが、こんなことになるならもうひと組スリッパを拝借してくればよかった。


 祈るような気持ちで周囲の地面や斜面を照らしていた私は、倒れていた場所から少し離れたところの灌木かんぼくの枝に、裏側を上に向けて引っかかっているスリッパを見つけた。白っぽい色をしていたおかげで助かった。


 スリッパを回収してからライトを消し、中村の位置を確認しようとアプリを開いてみると、私と赤丸との距離は最前に見たときとほとんど変わっていないように見えた。詳細が表示されない地図では、縮尺の距離で一キロメートルといわれてもまったく目安にならない。


 私はSMSを開き、先ほど書きかけていたメールに『おちいっているんですか?』と足して文章を完成させ、どうせまともな返事は来ないだろうと期待はせずに送信ボタンを押した。


 送信中の処理画面を見ていると、メッセージを受信したという通知が上部に現れ、こちらの返信も待たずに立て続けに今度は何だと思うやいなや、それがまたしても中村からの空メールであると気づいて私は少なからず苛立ちを覚えた。


 本文を作る前に指が滑って送信ボタンを押してしまった、という言い訳が通じるのは一度だけだ。中村には連続して二十件以上もの空メールを私に送りつけてきた前科がある。よほど不注意な人間でもそんなことは悪戯いたずらでしかするまい。


 さて、どうしたものか。斜面を上るという手もあるにはある。その際には黒い人物との接触はまぬがれない。それとも中村の居場所を目指してこのまま藪の中を突き進んでみるか。


 捜索アプリでは自分の向いている方角がわからず、方位磁石のアプリを開いて進むべき方向を確認することにした。


 スマホを水平に持って身体の向きを変えると斜面のほうがやや北西を指す。どうやら私は図らずとも南方へ向かって走っていたらしい。


 では北側に立っていたあの黒い人物は、私の背後から接近して薪をまわり込んでこちらの様子を窺っていたのだろうか。もちろん、さっきの広場が行き止まりでなければその限りではないが。


 とりあえず、南を目指して行けるところまで進んでみて、ダメになったら東へと方向を変え、中村の居場所へ向かって少しずつ軌道を修正していこう。もし私が宿にいないことがすでにバレていて追っ手が放たれていると仮定すると、元来た道を戻るのはみずから捕まりに行くのと同じようなものである。


 ライトを点けて光の強さを最弱に調整しなおした私は、前方の地面を照らすように構えたスマホを腰から下の位置に固定し、ところどころに生える低木よりも上に明かりが行かないよう注意しながら移動を再開した。

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