良い人

 たとえ黒い人物と揉めることになっても斜面を戻るべきだったと後悔しはじめたころ、いきなり藪を抜けたと同時に踏み出した右足がくうを掻き、やってしまったと私が思うが早いか次の瞬間には軽い浮遊感が身体を襲っていた。


 私は落下の衝撃に「ぐっ」と声を漏らし、右半身に刺さるゴツゴツとした感触は石かと、倒れた姿勢のままで顔のそばの地面を照らしてみた。粒の大きな荒い砂利が敷かれているのが見える。幸いたいした高さから落ちたわけではないようだが、突起物のせいで全身が酷く痛む。


 明かりを点けた上で注意していてもこれだ。集落内の移動でさえこんなにも難儀しているというのに、とてもではないが山を下るなど正気の沙汰ではない。


 ゆるゆると立ち上がり身体の埃を払って手足をライトで照らしてみた私は、あちこちについた切り傷や内出血で皮膚が変色しているのを目にし、深夜に山の中で自分は一体何をやっているのだと馬鹿馬鹿しい気分になってきた。


 はだけた浴衣を整えて周りに光を巡らすと、背後に大きな段差のようになった膝高の地面が見えた。この高さだったから助かったが、もし落ちた先が切り立った断崖の谷底だったら死んでいただろう。もう少し慎重に進まねばなるまい。


 ともかく、どうやらまともに歩けそうな道には出られたらしい。方位磁石のアプリで確認したところ、砂利道の一方は東南東とうなんとうへ向かって伸びているようだ。東へ戻りながら中村の居場所へ近づくにはちょうどいい。足裏への刺激が若干強い気もするが藪の中を進むよりかは幾分いくぶんマシである。


 歩き出す前に中村の位置を見ておこうと思い、スマホの画面に触ろうとして『たぶん引きずり』という半端なメッセージが奴から届いた。まるで意味がわからない。これでは私の送ったメールの『どう動いていて』に文字通り部分的に答えただけだ。


 私は『本当はふざけてるんですか?』と中村への文を作り、もしそうだった場合はどうしてやろうかと、満身創痍の痛みに顔を歪めながら送信ボタンを押した。村人たちの言動は尋常ではない気もするが、中村が冗談でやっている可能性もまだ拭いきれない。


 スマホの画面を捜索アプリに切り替えて中村の位置を確認する。まだ目的地までの道のりの半分も進んでいやしない。藪の中をずいぶん南へ下った気でいたが、歩くのに時間を取られたせいでそう錯覚しただけのようだ。


 思わず溜め息を漏らした私は、先ほどと同じようにスマホを低い位置に構えて地面を照らし、一歩踏み出すごとに突き刺さる石にひいひい声を上げながら砂利道を進みはじめた。




 わずらわしかった砂利道はすぐに終わり、土や雑草を踏みしめたときの柔らかな感触にわずかな安らぎを感じながら歩いていた私は、人の声ではなく水の流れる微かな音を聴いた気がして足を止めた。おそらく宿を出たところのすぐ東側を流れていたのと同じ川だろう。


 川がおかしな蛇行をしたり急なカーブを描いたりしているのでないのなら、およそ宿の裏手付近に戻ってきたことになる。


 もうだいぶ目的地に近づいたのではないかとアプリを見ると、奇妙なことに中村を表す赤丸がじりじりと動いていた。なぜ奴は移動しているのだ。そこへ向かうからじっとしていろと釘まで刺したというのに。


 話の通じない同僚に『動かないでください』と再度メールを送り、もう落ちるのは二度とごめんだと心で悪態をつきながら、私は水の音を頼りにどこに川があるのかと周囲に光を走らせた。


 音の通りが良いのか、それとも私の聴覚が鋭敏になっているのか、付近を探していると立ち止まった場所よりもだいぶ離れたところに川があり、低木の合間に人ひとりがようやく通れるといったような幅狭はばせまの石橋を見つけた。欄干も転落防止用の柵もない、板状に切り出した石を川岸に渡しただけの簡素な造りの橋だ。


 もしや、ここは個人が所有する土地の私道だったり農道だったりするのだろうか。その場合には再び道なき道へ突入する羽目になるかもしれない。だからといって今さら引き返す気もないのだが。


 足元を照らしながら慎重に橋を渡りはじめた私は、数歩も行かないうちにスマホの画面がひかり、今回は返信が早いなと思いメッセージを読もうと目を細めたものの、足場の不安定さを考えて内容の確認は対岸に着いてからすることにした。水辺のせいか、大量に飛んでいる藪蚊を追い払うのでそれどころではないのもある。


 時間をかけて橋を渡りきった私は足を止めてライトを消し、中村から届いたばかりのメールに目を通して顔をしかめた。


『さっきのメールは間違いです。僕は歩いています。村へ戻っています。道に迷った。あなた村にいますか? 村にいないのでしたら村へ戻りましょう。警察と村の人は良い人大丈夫です』


 これまでに送られてきたメールの雰囲気と明らかに違う。


 まず、ちょっと前に『村はヤバイ』とか『逃げないと殺される』などと言っていたはずなのに、今になって『村へ戻っています』『村へ戻りましょう』とはどういうことだ。その上で道に迷っているというのも変である。


 それだけではない。


 中村とは会社でもほとんど話したことはないのだが、どうやら奴は年功序列を重んじる古いタイプの体育会系らしく、向こうのほうが入社が先でありながらも普段は私をと呼んで慕ってくれているのだ。それが突然である。


 もっとも不可解なのは、人身売買をしていると断じていたはずの連中に対し、ここへきて『警察と村の人は良い人大丈夫です』と逆のことを言っている点である。打ち損じだとは思うが片言のような文のせいで気味が悪い。それに、最後の『大丈夫です』とは何に対する保証なのだ。


 一貫性のない中村の言動を奇妙に思いながら、『突然どうしたんですか? やっぱりふざけてるんですか? いい加減にしないと怒りますよ』と、私は少しばかり苛立ちをあらわにした文章でメールを返した。


 ライトをつけて歩き出そうとするとまたもや画面がひかり、『ふざけてません。なぜそう思う? 思いますか』と中村からのメッセージが表示された。返信がやけに早いが慌てて打ってでもいるのだろうか。文体も定まっていなければ、修正もせずに新しい文を書き足している。


 私は己の言動の矛盾に気がついていないらしい中村に、『自分が送ったメールを見たらわかるでしょう?』と半ば呆れた思いで返信したあと、何やら嫌な予感がして再び捜索アプリを開いてみた。


 宿を出てからもう何度目になるかわからない溜め息を吐き出した私は、画面内で未だに動き続けている赤丸をうつろな気分で眺め、ひょっとすると中村は薬物の副作用か何かで日本語を忘れてしまったのではないかと真剣に頭を悩ませた。

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