先客
「あら、どうなさいましだ?」
「いや、ちょっと、湯気を思いっきり吸い込んでしまって」
「だいじょぶですかぁ? てっきりお
あまり気分の良い香りとは言えないものの、
敷居を
「お
「え? あ、すいません」
暗くて見落としてしまっていたが、どうやら土間の部分はないようで、引き戸の背後がすぐホールだか廊下だかになっているらしい。
「靴は、どうすればいいですか?」
「ああ、そんな、置いどいでもだぁれも盗っだりしませんよぉ」
他に靴が置かれていないか調べようと思ったが見えない。
「それぢゃあ、わだぐしはこれで」
そう言って女将は私に提灯を押しつけると、身を
「あ、あの、女将さん」
提灯を前方へと突き出した私は、姿の見えない女将に向かって慌てて声を掛けた。今の一瞬で声の届かない場所まで行ってしまったとは考えられない。
「女将さん?」
「おりますよ」
思った以上に近いところから声がして私は身を
「その、マッチもお借りできますか?」
「ああ、うっがりしでましだわぁ」
「あとですね、帰りに着ていく服」
私が言い終わる前に「ぢゃあ、わだぐしはこれで」という女将の声がするなり、何かが左の太腿に当たった感触があって、続けて質量の軽い物体が床材の上に落ちたような音が聴こえた。
マッチ箱を投げつけられたのだろうか。さっきまでの女将の態度とは思えないほどに荒っぽい。
落ちていると思われるマッチ箱を探そうと、腰を屈めて周囲を提灯で照らしてみたところ、泥がついたようになった自分の登山靴とは別に、男性のものと
私の記憶が確かであれば、中村はビーチサンダルを履いていたはずである。こんな
板張りの床の上に落ちていたマッチ箱を拾った私は、立ち上がりながら「女将さん? まだいらっしゃいますか?」と前方の暗がりへ声を掛けてみたのだが、今度はしばらく待ってみても女将からの返事はなかった。
温泉へ入ったあとに着る服が欲しかったのだが、もしかしたら脱衣室に
入り口の引き戸を閉め、提灯を動かして周りを探ってみると、自分の立っている場所がホールではなく廊下の端であることがわかった。
提灯を左手に持ち、右手で壁に触れながら廊下を進む。数歩も行かぬうちに引き戸が左側に現れた。男女の別が書かれていやしないかと顔の高さまで提灯を掲げてみる。一文字『ゆ』とだけ
引き戸を開いた私は、先ほどよりも湿り気を多く含んだ空気に顔面を襲われて目を細め、無駄だとわかっていながらも右手を動かして湯気を払おうとした。
やはり照明は点いていないのかと左右に頭を振ると、左手前方の奥の辺りに、
他の明かりがあることに安堵の溜め息を吐き、提灯を宙に
私は磨りガラスの引き戸を開け、「中村さん、なんで先に行っちゃうんですか? 心配したじゃないですか」と声を掛けてから、中村の鼓膜が破れていることを思い出した。湯船に流れ落ちる水の音が聴こえるだけで、当然ながら同僚からの返事はない。
湯気に紛れて流れてきた冷気を肌に感じ、浴場が露天になっているらしいことがわかったが、乏しい明かりのせいで期待していたようなパノラマも温泉の造りも見えない。
ガラス戸から漏れていた明かりは、脱衣室の裏側にあたる右手の壁にかけられた一本の
声は聴こえなかったかもしれないが、私が浴場に入ってきたことは湯船に浸かっているであろう中村にも見えているはずである。どうして何の反応もしないのだ。反対側へ顔を向けているのだろうか。
早く中村の姿を確認したい衝動を抑えつつ、とりあえず私は松明の下にあるシャワーで身体の汚れを洗い流すことにした。耳の聴こえない相手にいくら話し掛けても無駄だ。中村がこちらに気づくまで待つか、もしくは直接奴に触れて私の存在を気づかせるしかない。
「こんばんは」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます