先客

 湯気ゆげらしき湿った空気とともに、消毒薬と硫黄が混ざったような強烈な匂いが顔面にかかり、私は思わず「うっ」と声を漏らして顔をそむけ、鼻でしていた呼吸を口だけのものへと変えて異臭を遮断しようと試みた。


「あら、どうなさいましだ?」


「いや、ちょっと、湯気を思いっきり吸い込んでしまって」


「だいじょぶですかぁ? てっきりお身体からだに合わないのかなど」


 あまり気分の良い香りとは言えないものの、一二三ひふみ氏に出された毒出し茶の匂いに比べたらまだ幾分マシである。たとえ薬効があると言われても積極的に吸引したい匂いではないが。


 敷居をまたごうとした私は、女将おかみの「あー、ちょ、おきゃぐさん駄ぁ目ですよぉ」という声で足の動きを止めた。


「お履物はきものそどで脱いでもらわねぇどぉ」


「え? あ、すいません」


 暗くて見落としてしまっていたが、どうやら土間の部分はないようで、引き戸の背後がすぐホールだか廊下だかになっているらしい。


「靴は、どうすればいいですか?」


「ああ、そんな、置いどいでもだぁれも盗っだりしませんよぉ」


 他に靴が置かれていないか調べようと思ったが見えない。


「それぢゃあ、わだぐしはこれで」


 そう言って女将は私に提灯を押しつけると、身をひるがえして微かな明かりの中から姿を消してしまった。


「あ、あの、女将さん」


 提灯を前方へと突き出した私は、姿の見えない女将に向かって慌てて声を掛けた。今の一瞬で声の届かない場所まで行ってしまったとは考えられない。


「女将さん?」


「おりますよ」


 思った以上に近いところから声がして私は身を強張こわばらせた。提灯の明かりが照らす範囲に女将の姿はないのに、あたかも耳元か背後でささやかれているような気がする。


「その、マッチもお借りできますか?」


「ああ、うっがりしでましだわぁ」


「あとですね、帰りに着ていく服」


 私が言い終わる前に「ぢゃあ、わだぐしはこれで」という女将の声がするなり、何かが左の太腿に当たった感触があって、続けて質量の軽い物体が床材の上に落ちたような音が聴こえた。


 マッチ箱を投げつけられたのだろうか。さっきまでの女将の態度とは思えないほどに荒っぽい。


 落ちていると思われるマッチ箱を探そうと、腰を屈めて周囲を提灯で照らしてみたところ、泥がついたようになった自分の登山靴とは別に、男性のものとおぼしきサイズのビーチサンダルが置かれているのを見つけた。


 私の記憶が確かであれば、中村はビーチサンダルを履いていたはずである。こんな巫山戯ふざけたものを履いて山に来ているのは奴ぐらいなものだろう。


 板張りの床の上に落ちていたマッチ箱を拾った私は、立ち上がりながら「女将さん? まだいらっしゃいますか?」と前方の暗がりへ声を掛けてみたのだが、今度はしばらく待ってみても女将からの返事はなかった。


 温泉へ入ったあとに着る服が欲しかったのだが、もしかしたら脱衣室に浴衣ゆかたの用意があるのだろうか。いくら外が真っ暗とはいえ全裸で宿へ帰るわけにもいくまい。夜目がきく赤鬼や女将に見つかって変態呼ばわりされるのがオチだ。


 入り口の引き戸を閉め、提灯を動かして周りを探ってみると、自分の立っている場所がホールではなく廊下の端であることがわかった。


 提灯を左手に持ち、右手で壁に触れながら廊下を進む。数歩も行かぬうちに引き戸が左側に現れた。男女の別が書かれていやしないかと顔の高さまで提灯を掲げてみる。一文字『ゆ』とだけえがかれた濃い色の暖簾のれんが見えた。おそらく紺色だと思われるこの暖簾の先が男湯だろう。


 引き戸を開いた私は、先ほどよりも湿り気を多く含んだ空気に顔面を襲われて目を細め、無駄だとわかっていながらも右手を動かして湯気を払おうとした。


 やはり照明は点いていないのかと左右に頭を振ると、左手前方の奥の辺りに、りガラスらしきものを通して揺れる、うっすらとした橙色の明かりが見えた。


 他の明かりがあることに安堵の溜め息を吐き、提灯を宙に彷徨さまよわせてからの脱衣籠と畳まれた浴衣を見つけた私は、人の心配をよそに暢気のんきに温泉を堪能していると思われる同僚の顔を拝んでやろうと、脱いだ衣服をバッグとともに籠の中へ適当に放って浴場へと向かった。


 私は磨りガラスの引き戸を開け、「中村さん、なんで先に行っちゃうんですか? 心配したじゃないですか」と声を掛けてから、中村の鼓膜が破れていることを思い出した。湯船に流れ落ちる水の音が聴こえるだけで、当然ながら同僚からの返事はない。


 湯気に紛れて流れてきた冷気を肌に感じ、浴場が露天になっているらしいことがわかったが、乏しい明かりのせいで期待していたようなパノラマも温泉の造りも見えない。


 ガラス戸から漏れていた明かりは、脱衣室の裏側にあたる右手の壁にかけられた一本の松明たいまつのもので、決して広いとは言いがたい石造りの床を、湯船のへりの辺りまでおぼろげに照らし出している。


 声は聴こえなかったかもしれないが、私が浴場に入ってきたことは湯船に浸かっているであろう中村にも見えているはずである。どうして何の反応もしないのだ。反対側へ顔を向けているのだろうか。


 早く中村の姿を確認したい衝動を抑えつつ、とりあえず私は松明の下にあるシャワーで身体の汚れを洗い流すことにした。耳の聴こえない相手にいくら話し掛けても無駄だ。中村がこちらに気づくまで待つか、もしくは直接奴に触れて私の存在を気づかせるしかない。


「こんばんは」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る