ママシロ

 鏡のない壁面を見つめながらシャワーを使っていた私は、背後で上がった声に思わず身体を震わせ、つい「わっ」と驚きの声を漏らしてしまっていた。いるとはわかっていても姿が見えない相手からの声は恐ろしい。


「ちょっ、やめてくれよな」


 ぞんざいな口ぶりで言ったのは中村に聴こえないとわかっていたからなのだが、「すいませんでした」という謝罪の言葉が返ってきて私は再び驚かされた。相手が中村であれば会話が成立するのはおかしい。


「いや、あの、こちらこそ、すいません」


 身体を湯船のほうへ向けて慌てて相手に謝った私は、「知り合いが入っているものとばかり思ったもので、つい」と言い訳の言葉を続けた。


「構いませんよ。観光ですか?」


 観光というわけでもないのだが、疲れているのもあって見ず知らずの相手に詳しい説明をする気にもなれず、私はただ「ええ、まあ、そんなところです」と当たり障りのない答えを返して湯船へと近づいていった。


 ビーチサンダルで山に来るような人間が二人もいるものだろうか。そのような人間に一日で二度も遭遇するものだろうか。などと考えていた私は、自分がそうしなかったことで見落としていたが、宿で履き替えた可能性もあることに気がついた。どちらかといえば、登山靴のまま温泉に来ている私のほうが変である。


「お祭りを見に来たんですか?」


 湯船に片足を浸けたところでさらに話を振られ、「いえ、僕はたまたまで」と答えて何か固形の物体が爪先つまさきに触れた感覚があり、ぎょっとした私は入れかけた足を床へと戻して墨汁をたたえたような漆黒の水面みなもに目を凝らした。


「植物らしいですよ。臭み消しとかいう」


 挙動からこちらの疑問を察したのか、湯船の奥から男の声が聴こえ、私は「ああ、なるほど」と答えて適温よりかは少しばかり熱めに感じる湯に片足を入れ、様子を見ながら肩の下までゆっくりと身体を沈めていった。そういえば先ほど女将が温泉に入れると言っていたのを聴いたばかりである。


「どうですか、かむらた山は?」


「え? いや、さっき着いたばかりなので、まだなんとも」


 男の口ぶりからすると何度か『かむらた山』へ来ているといった感じである。声からでは若いかどうかもわからない。相手の顔を確認したいのはやまやまだが、暗闇の中で裸の見知らぬ男のもとへ擦り寄っていくのもぞっとしない。そのうち目が慣れて見えるようになるだろう。


「そうですか。実はわたしも着いたばかりでして。でも、自然も多くて空気も美味しいし、人も親切で穏やかだし、都会とは違ってゆったりとした時間が流れているし、良いところだとは思うんですが」


 人も親切で穏やかという部分は賛同しかねるものの、他はたしかに男の言う通りである。それよりも私は男が言い淀んだ先が気になり、「思うんですが、というのは?」と言葉の続きをうながした。


「ええ、というのも。あ、わたし、ママシロと申します」


「え? すいません、もう一度よろしいですか?」


「ママシロです。真実のシンに、失礼ですが、踊り字はご存知ですか?」


 よくわからないことを二つも続けて言われ、私は無知であることを恥じつつ「いえ、申し訳ないのですが」と言葉尻を濁して歯切れの悪い答えを返した。


「例えば、次々とか数々とか漢字で書いたときの、二つ目の文字のことを踊り字といいまして」


「ああ、わかります」


「ええ、それに白色のシロで真々白と申します」


 私も真々白氏に名乗り返してから、ずいぶんと変わった苗字だななどと妙なところに感心していた。もしやカッポギ氏なのではないか、とも疑っていたのだが違った。


「それでですね、良いところだとは思うんですが。なんと言いますか、こう、良くいえば独特の雰囲気があるというか」


 真々白氏の言うように、かむらた山には言葉にしがたい不思議な空気が漂っているように思える。何かがおかしいとは感じるのだが、何が変だとは明確な指摘ができない。


「真々白さんは、かむらた山には何度か来られてるんですか?」


「いえ、今回が初めてです」


 知ったような口ぶりは数日前から滞在しているから、ということだろうか。かぢな駅から出ているバスは私が乗ってきたのが本日の一本目だったはずだ。


「失礼ですが、何日ほど滞在されてるんですか?」


「え? 先ほども申しましたが、わたしも本日、夕方ごろに着いたばかりですよ」


 湯船に浸かっているというのに、私はなぜか背筋に冷たいものを浴びせられたような気がした。自分の中にある事実と辻褄つじつまが合わないせいで聴き逃していたらしい。では、この姿の見えない男は一体いつ、どこからやって来たのだ。


「来る途中、ネットで調べたんですけど、何の情報も出ませんし」


「あの、すいません。厚かましい質問だとは思うんですが、ここまでどうやって来られたんですか?」


「わたしですか? くらなしがわ駅でタクシーを拾いまして、漁火いさりびという地名の登山口から歩いて来たんです」


 謎が解けてほっとした。なるほど、漁火という地名は記憶に新しい。かむらたの一つ手前の停留所の名前だ。山の中にある地名にしては変わっているなと思ったのを覚えている。ならば、私も漁火から登ったほうが早く着いたのではないだろうか。


「長距離だったんですが、ずいぶん負けてもらいましてね」


 私の興味はすでに真々白氏の交通手段の話題からがれていた。謎が解明されてしまえばそれまでの価値しかない。


「そういえば、聞きましたか?」


 反応がないことに気づいたのか、真々白氏が誘うような話の振り方をしてきたので、私は「何をですか?」と乗ってみることにした。


「マガツヨミヤヒコの伝承ですよ」


 マガツという単語にも聞き覚えがある。たしか、シュウちゃんがきじさばいているときに言っていた、守り神だか何だかの名前ではなかったか。


 あまり興味をかれはしなかったが、耳を傾けるだけなら疲れることもあるまいと思った私は、「いえ、どんな伝承なんですか?」と軽い気持ちで真々白氏に問い返していた。

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