女将

「申しおぐれましだげどぉ、わだぐし、民宿みだま屋の女将おがみをやらせでいだだいでますぅ、ヤスゴと申しますぅ。安全な子どもど書いで安子やすごですぅ。よろしぐお願いいだしますぅ」


 提灯を片手に先に立って歩いていた女性は、急に思い出したように自己紹介をはじめた。相変わらず顔は見えないままだが、先ほどの赤鬼とのやり取りから考えても、彼女が十代や二十代ということはあるまい。


「こちらこそ、今晩はお世話になります」


「いーえー。おきゃぐ様のお世話をするのがぁ、わぁだぐしどもの仕事しごどですがらぁ」


 かぢな駅で降りてからというもの、まともに会話が成立した人間に会った覚えがないせいか、接客業であれば常識の範囲内であるはずの女将の態度が、私には節度をわきまえた非常に品格あるもののように思えはじめていた。赤鬼から聞けなかったことを訊ねるなら今ではないか。


「あの、いくつかお訊ねしてもよろしいですか?」


「え? えぇ、構いませんよ」


 訊ねたいことは山ほどあるのだが、何はともあれまずは中村のことだ。見ていないかなどの直接的な表現は避けたほうがいいかもしれない。変に勘繰かんぐられるのも面倒だ。


「明日、お祭りがあるって聞いたんですけど、やはり沢山たくさんのかたが」


 見に来られてるんですかと続けようとした私は、先ほどの静まり返った暗い館内を思い出して言葉を飲み込み、「今も準備をなさってるんですか?」と咄嗟に質問の着地点を変えた。もし多くの客がいるのなら、宿の中があれほど静かなわけがない。


「ああ、おきゃぐさんもおまづり見にいらっしゃっだんですか?」


「いえ、僕は見に来たというか、たまたま日程が重なったというか」


「ああ、そうでしだねぇ」


 女将に伝えた覚えがないので言い方が少し気になりはしたものの、宿の予約もせずに飛び込みで現れた私のような人間は、祭りが目的の来訪者などではないと察しがついたのだろう。


「女は家にいますげどねぇ。男衆おどごしゅそどでがぢゃがぢゃやっでますわぁ」


 そう言う割に道中で遭遇したのはシュウちゃんと呼ばれていた男と赤鬼の二人だけだ。やぐらの周りに人影が見えたが、あれが女将の言う男衆だったのだろうか。赤鬼が私の相手をしている暇がないと言っていたのは、宿泊客への対応に追われているからではなく、祭りの準備に忙殺されているという意味だったようだ。


「来るときにですね、火の見櫓のようなものが燃えてるのを見たんですけど。あれは、お祭りのもよおしの一つですか?」


 準備中の事故で燃えていたわけでもあるまい。


「ご覧になられましだぁ? さぞがしおっぎな火なんでしょうねぇ」


「え? 女将さんは、ご覧になられたことないんですか?」


「ええ。わだぐしはおきゃぐ様のお世話がございますんでぇ、いっづもうぢにおりますがらぁ。見だこどないんですよねぇ」


 私が到着したときに女将が宿にいたことを考えると、やはり誰かしら宿泊客がいるのであろう。ならば中村がいる可能性もあるのではないか。


「その、どれくらい多くのかたがお祭りを見に来られてるんですか?」


「うぢにですか? おきゃぐさん入れで、十六名のかだがいらっしゃっでますよ」


 みたま屋の大きさも祭りの規模もわからないので何とも言いがたいが、十六という人数は決して多い部類には入らないように思う。果たしてその内訳に中村とカッポギ氏の両名は含まれているのだろうか。


「あの、僕の少し前に到着されたかたっていますか?」


「お客さんのすごし前ですか? ええ、いらっしゃいましだよぉ。お知り合いのかだですか?」


 私は曖昧あいまいに「ええ、まあ」と答え、「もしかしたら、ですけどね」と付け加え、女将の出方でかたうかがった。人当たりが良いからといって、何でもかんでも喋ってしまわないよう気をつけねば。かむらた山の人間を全面的に信用するのは危険な気がする。


「そういえば、今頃ちょうど温泉に浸がってっど思いますよ」


 ならばここで女将に訊ねなくとも、温泉にいると思われる本人を確認すれば済む話だ。私の少し前に到着している時点で、それが中村であることはほぼ確定したも同然である。山で最後に遭遇した外の人間が奴なのだから間違いない。


 宿からずいぶん離れた場所に温泉があるのだななどと考えていると、また例の消毒薬のような香りが強く漂いはじめたことに気づき、女将に話を振ってもらえるよう私はわざとらしく鼻を鳴らして匂いを嗅いでみた。


「あら、風邪でも引がれたんですか?」


「いや、そうではなくてですね」


 知る必要はないと赤鬼に言われたこともあり、この匂いが質問してはならないタブーなのかとも思い、私は一瞬ではあるが訊ねるのを躊躇ためらって言葉を濁した。


「匂いが」


「匂い? 匂いが、どうなさいましだ?」


 女性にしては珍しく、女将はあまり勘の良いほうではないらしい。


「その、なんだか変わった匂いがしませんか?」


「ああ、くさしのこどですか? そのあだりの山にたぐさんえでましでねぇ。むがしっがら温泉に入れだり、料理に使つがったりしで臭みをとるんですわぁ」


「ドクダミのような薬草、ということですか?」


 女将は「いーえー。ただの雑草ですよぉ」と言うと歩みを止めたらしく、「その辺にも生えで、ああ、ほら、そご」と提灯の位置を下げて道端の一隅いちぐうを照らした。


 薄明かりのなかに花のついていない水仙のような植物がぼんやりと見える。高さは私のすねなかばくらいまでしかない。女将の言うようにただの雑草なのだろう。その辺に生えている草の葉っぱと何が違うのか私には見分けがつかない。


「あれ? でも、こんな匂い、山ではしてなかったような」


 再び動き出した提灯に合わせて歩きはじめた私は、今しがた耳にした女将のセリフに引っかかりを覚え、浮かんできた疑問を吟味ぎんみせずにそのまま口に出していた。


 形状では見分けがつかなくとも、これほどの強烈な香りがしていれば、匂いを嗅いだだけでこの植物が近くに生えているとわかる。たしか、私がこの消毒臭に気がついたのは山を抜けたあとではなかったか。


「ああ、生えでんのわぁ、そんなに強い香りしないんですよぉ」


「じゃあ、この匂いは?」


 返答を待っていると、見つめていた提灯の明かりに建物の一部らしきものが照らし出され、「こぢらがうぢの温泉でございますぅ」という女将の声と引き戸が開かれる音が聴こえてきた。

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