私は切断された舌を投げ捨てて血液がついた手のひらをジーパンで拭いながら、ついさっきも雉の生首を触ったばかりだというのに、落ちているものに安易に手を出した己の注意力の低さと学習能力のなさに嫌気がさしていた。


 どうして今日はこうもやたらと血腥ちなまぐさいものを目にするのだろうか。雉の首は別にしても、やぶのなかに落ちていた眼球やこの切り取られた舌はなんなのだ。誰かが呪いの儀式でもおこなっているとしか思えない。悪戯いたずらにしてはたちが悪すぎる。


 立ち上がって尻についた土を払い落とした私は、なぜか目の前にそびえ立つ巨木が急に近寄ってはいけない恐しい存在のように感じられ、さっさと中村のもとへ戻ろうと思いつつも大木を見つめたまま脚が固まったようになって動けずにいた。


 辺りに充満する蝉の鳴き声がいつの間にやら油蝉あぶらぜみの騒々しいものからうれいを帯びたひぐらしのそれへと変わっている。スマホで時間を確認してみるととっくに五時半を過ぎてもうすぐ六時になろうとしていた。


 中村には悪いがカッポギ氏の捜索はこの辺で打ち切らせてもらおう。いくらなんでもスマホのライトだけを頼りに明かりのない山道で人探しをするなど無謀である。それに今はあの気の毒な男が歩けるようになっているかの方が問題だ。


 私は通ってきたときよりも闇が濃くなったような気のするトンネル内を歩いているうちに、ではカッポギ氏はどこへ行ってしまったのかという疑問について考えを巡らせはじめていた。


 仮に、中村がカッポギ氏を見たのが猿に襲われる直前だとして、奴の叫び声が聴こえなくなったのが三叉路さんさろに差し掛かる手前、となるとその時カッポギ氏はまだ先ほどの巨木が立つ場所にいたはずである。


 ならば、私が沼を調べているあいだに行き違いになってしまったとしか考えられない。あの大木の周りを囲む高い崖を道具なしの自力で登れる者は限られるだろう。たとえカッポギ氏がトンネルから引き返してきていても、鼓膜を破られてうつぶせに寝かされていた中村では気がつかなくても当然だ。


 鉄扉てっぴ格子こうしを数えられるところまで出口に近づいた私は、暗さの増した外へ目を凝らしてみて中村の姿がないことに気がついた。動けないのも厄介だが、自由に歩きまわられるのは災難に近い。


 トンネルから出て辺りを見まわしてみても、やはり中村の姿はどこにも見当たらなかった。置いていくなとあれほどわめいていたくせに身勝手な奴だ。動くにしても私を追って来るべきだろう。


 中村の名前を叫ぼうとして無駄だと思いなおし、私は吸い込んだ空気を溜め息に変えて吐き出してから山道を三叉路へ向かって歩きだした。


 分岐点へ戻る道のりで中村に行き合わなかったらもう放っておこう。本格的に日も暮れてきてしまったし、正直なところ狂人の相手をするのにも疲れた。スマホの充電だって限りがある。残りのバッテリーをライトに使うためにも中村との筆談による余計な電力消費は避けたい。


 小径こみちを隠していた藪を抜けたところで、口内に広がる血の味とともに何やら異物感を感じた私は、舌で押し出したそれを綺麗な方の左手の指で摘み上げてみた。暗くて色まではよくわからないが薄い皮のように見える。


 そんなことを考えていると口内の上顎の部分に火傷やけどをしたときのような痛みが走った。どうやらこれは口蓋こうがいからがれ落ちた粘膜らしい。熱いものなど何も口にしていないのにどういうことなのか。


 気になって口のなかを舌で撫でまわしているうちに、またもや何かが剥がれた感触があり、続いて新たな血の味がしてその場に唾を吐き捨てた。舌で触れた頬の内側がざらざらする。もしや、一二三氏に出された茶が身体に合わず、それで口内が炎症でも起こしてしまっているのかもしれない。




 三叉路まで戻ってきた私は念のために沼へ立ち寄るべきだろうかとも迷ったが、歩いているあいだにもじわじわと暗くなってきている状況から、もうすでに時間的な余裕は残されていないと判断して先を急ぐことにした。


 狂人の考えや行動など凡人に読めるはずもないのだから、中村を見捨てる形になるのは仕方のないことだと己に言い訳をはじめた私は、そういえば奴がキジ刺しを食べたがっていたのを思い出した。


 となると、迷惑だとわかっていても雉をさばいていた男の家に立ち寄らねばなるまい。通り道でもあるわけだし、それくらいの手間と時間ならいても問題はないだろう。


 西日すらもほとんど差し込まない山道は、まるで知らぬまに腐敗してゆく屍肉しにくのように刻一刻とその様相を変化させており、ついさっき通ったはずの景色にはもう見覚えがなく、道を間違えているはずもないのに先へ進めば進むほど不安な気持ちが募ってきていた。


 ようやく右手前方に男の家が見えてきたものの明かりが灯っている様子はない。もう電灯を点けてもいい頃合いである。雉の処理が終わって明日の祭りの準備にでも出かけているのだろうか。


 裏庭にまわってみると一二三ひふみ宅のように雨戸が引かれ、雉肉はもちろんのことしたたる血液を受けるのに使っていた金盥かなだらいもふたつともなくなっていた。言うまでもなく中村もいない。


 誰もいない場所に突っ立っていても時間の無駄である。家のどこからも明かりが漏れていないことを確認した私は、山道へ戻ろうとしてどこにも電線が見当たらないことに気がついた。今の日本で電気を使わずに暮らしている人などそうはいないだろう。家庭用の発電機でもあるに違いない。


 他人の家の電力供給源などを心配している場合ではない。目下のところ私が気にするべきは己のスマホのバッテリー残量である。中村さえいれば奴が持つ二台のスマホを予備のライトとして使えたのだが、今さらそんなことを言っても何も解決しない。


 木立の隙間からわずかに見えていた残光も失われ、生い繁る雑草や樹木の輪郭が闇に溶けて曖昧あいまいとなったのを合図に、私はスマホのライトを点けてすっかり見えなくなってしまった己の足元へと光の輪を向けた。

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