秋の虫たち

 ようやく分岐点である四叉路しさろに戻ってきた私は、残されている右手の小径こみちへと踏み入る前に、他の岐路きろを軽く覗いて中村を探そうとも思ったのだが、すぐに無意味で無駄な行為だと気がついてやめた。


 都会の夜とは違って立ちめている闇の濃度が高く、足元を照らす光を正面へ向けるとたちまち暗がりに飲まれてしまう。とてもスマホのライトごときでは太刀打たちうちができない。これでは人の捜索など無理である。


 いつの間にやら鳴りを潜めたひぐらしに代わり、辺りに満ちはじめた気の早い秋の虫たちの涼しげなを聴いているうちに、私にはなぜかそれが凶事をしらせる不穏ふおんな警告音のように思えてきていた。


 私は分岐点の中心に立ち、ライトで周囲をぐるりと照らして誰もいないことを確認し、後ろ髪を引かれるような気がしつつも残っていた最後の枝道えだみちへと足を向けた。




 山頂へと続いているはずなのに下ってばかりの山道に違和感を覚えつつ、頼りない光量で足元を照らしながら進んでいると、右手の急斜面をまわりこんだところで緩やかな上りへと変わった。


 新月なのか頭上を覆う枝葉や木立のあいだからは月明かりすらもさしてはおらず、まるでライトが照らしだしている場所以外は闇と同化してしまっているかのようにさえ思えてくる。


 ライトの光が届く範囲が限られているせいで速く歩けないのがもどかしいが、急いだとしても危険が増すだけで良いことなどないだろう。もし足を踏みはずしたりして崖から落ちようものなら終わりである。時間はかかっても慎重に進むしかない。


 今にもバッテリーが尽きてしまうのではないかという不安と戦いながら、おぼろげに地面を照らす光の輪を見ていた私は、ふと中村はライトも点けずにこの暗闇のなかをどうやって移動しているのだという疑問が浮かび、何かを見落としているような落ち着かない気分になってきた。


 立ち止まって一度ライトを消し、光の残像に目が慣れてから背後を振り返り、視界のどこかに明かりがチラついていないかを確認する。


 しかし、どちらへ顔を向けてみても見えるのはすみを塗りたくったような闇ばかりで、試しにまばたきを何度かしてみると、目を開けているのか閉じているのかわからなくなってきてしまった。


 正面へ向きなおり再びライトを点けて歩き出そうとした私は、遠くの前方が薄ぼんやりと明るくなっているのが見えたような気がして、スマホをせて暗闇のなかを覗き込むように目を凝らしてみた。


 見間違いではない。薄いだいだい色のもやのようなものが闇の一部に浮かんでいる。坂を上っているときは足元ばかり見ていたせいで気がつかなかったらしい。山火事や超常現象のたぐいでないのなら、あれが人工的な明かりであることはほぼ確実である。


 はやる気持ちを抑えて坂道を上りきると、まだずいぶんと距離がありはするものの、眼下の開けた場所にいくつかの民家が寄り集まっているのが見えた。どうやら数ヶ所で何かを燃やしているらしく、そこから立ち上る煙に光源が反射して明るくなっているようだ。


 集落があるなどとは聞いていないが、おそらく目的の宿『みだまや』もあそこにあるに違いない。もしかしたら中村は陽が落ちる前に集落へ辿り着いたのではないだろうか。鼓膜が破れていようが薬物に冒されていようが、体力のある中村が私よりも速く歩けることはすでに証明済みである。


 スマホの画面を確認するとバッテリー残量が二十パーセントを切ったことを知らせるメッセージが出ていた。集落までは無理でも近くまでバッテリーがってくれればそれでいい。あとは空を照らしている明かりを頼りに歩けばなんとかなるだろう。




 右へ左へ何度も蛇行を繰り返しながら山道を下っていると、それまで土がむき出しとなっていた道が唐突に途切れ、代わりにアスファルトで舗装された道路が現れた。舗装はされているが幅自体は歩いてきた山道と変わらず、かろうじて人と擦れ違えるほどの広さしかない。


 少し前から何かが焼ける匂いが次第に強くなってきており、もうまもなく集落に出るのではないかなどと考えていた矢先、とうとうスマホのバッテリーが尽きてライトの光が消えてしまい、黒い沼にでも浸かっているかのように腰から下がまったく見えなくなってしまった。


 幸い密生する木立のあいだから微かに漏れてくる集落の明かりのおかげで、どうにか前に進めるには進めるのだが、足元が見えない不安から自然と歩幅がせばまって歩く速度が落ちていた。


 地面がアスファルトに変わったからといって油断はならない。都会の道路でさえきちんと整備されていない場所があるのだ。こんな辺鄙へんぴな山奥ではなおさら注意が必要である。


 暗闇に目が慣れてきたところで正面に平屋をかたどった影が見えてきた。留守なのか明かりは灯っていない。さすがにこの六畳一間しかなさそうな仮設住宅サイズの建物が『みだまや』ということはないだろう。たとえどれほど小さな民宿であっても部屋がひとつだけというのは考えられない。


 道路は平屋の手前で右へと大きくカーブを描きながら下っており、道なりに歩いているうちに明かりを背にした民家らしき影がちらほらと増えてきた。それらのどの窓にも明かりは灯っておらず、やはり先ほどの家と同じように人がいる様子もない。古びてはいるが廃墟というわけでもなさそうだ。


 数軒の平屋をやり過ごすと道が少しずつ平坦になりはじめ、今度は左へと曲がるカーブを辿っていると二階建ての家屋の大きな影が前方に浮かび上った。建物の背後からはひときわ明るい橙色の光が漏れているのが見える。


 光が揺らめいているので火がかれているらしい。辺りには肉の焼けるこうばしい匂いに混じり、ハーブなのか強烈な消毒薬のような香りも漂っている。おそらく、この周辺の住民たちで明日の祭りの準備でもしているのだろう。もしくはその前夜祭が行われているのかもしれない。


 私は右手前方の二階建てに近づきながら、やっと明るい場所に出られるという安堵の思いが胸に満ちていくのと同時に、奇妙な違和感のようなものが湧き上がってくる気がしていた。


 祭りの準備をしているにせよ宴会が開かれているにせよ、どうして何の物音も人々の声も聴こえてこないのだ。

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