一二三

 腕の中でもがき暴れる小動物に顎をのせた少年は、口から「シー! シー!」と空気が漏れているような音を出し、ウサギをどうにかなだめて落ち着かせようとしているようだった。


「だいじょぶだぁ。もう怖ぐねぇがんな」


 そう言って少年は顎を動かしてウサギの丸まった背中を器用に撫ではじめた。悲痛の叫びも上げられず、ただジタバタと足掻あがくことでしか苦痛を表現できないウサギを見ているうちに、私はそんな彼ら小動物のことが不憫ふびんに思えてきて悲しい気分になった。


 私はが何なのか訊ねようとも思ったが、ウサギのことでショックを受けているであろう少年に対し、これ以上あれやこれやと質問を浴びせ続けるのは何だか訊問じんもんでもしているようで気乗りがしなかった。


 ウサギの目玉は赤いという本当かどうかも不確かな私の知識から推測するに、赤目あかめなまってにごった形なのではないだろうか。それならば少年の言っていたこととも辻褄つじつまが合う。


 私は少年に「ウサギのことは残念だったね」となぐさめの言葉を掛けてから、どうしても訊いておかなければならないことがあるのを思い出した。


「それで、宿ぉ、じゃなくて、かむらた山の頂上へは」


「そんな格好かっこでだいじょぶけ?」


 言葉をさえぎられて突然そんなことを言われた私は、反射的に自分の身体を見下ろして己の服装を確認した。長袖のネルシャツに安物のジーパン、それから二年は履いている登山用の丈夫な靴。あと頭には日差しを避けるための帽子も被っている。


 先ほど藪の中を歩いたときに湿地でもあったのか、靴やジーパンの裾に点々とした泥の飛沫が付着してはいるが、どこも破けたり穴が空いたりしている様子はない。


 これが冬場であれば大丈夫ではないだろう。バスの中でこさか氏に指摘された通り山を舐めた軽装だ。だが今は真夏である。それに、途中ですれ違った女性の登山者も私と似たような服装をしていたではないか。


「なにかまずいところがあるかな?」


 両腕を開いたおどけたポーズで訊ねてみても、少年は能面のような感情の読めない顔のまま、ただ私の目をジッと見返してくるだけだった。


「あ、頂上って本当に頂上へ行きたいんじゃないんだよ」


 説明不足だったかもしれないと気がついた私は、「ホテル、民宿、泊まるところ。えー、何って言えばわかるかな」と少年の知っていそうな宿泊施設を指す言葉を探し、頭をひねりながら連想ゲームのような独り言を口にしていた。


「みだまや」


 言った単語のどれかが伝わったらしく、少し間を置いてから少年が口を開いた。車掌が山には宿泊施設はひとつしかないと言っていたせいで訊き忘れていたが、どうやらそれが私の目指す宿の名前らしい。名前から想像するにおそらく民宿や旅館といったおもむきの施設だろう。


「その、みだまやへはどっちへ行けばいいか、おにいさんに教えてくれるかな?」


 教えたくとも両手がウサギでふさがっていて指を差せないらしく、少年は身体ごと向きを変えることで私に進むべき方向を伝えてくれようとした。私の感覚では少年の示す方向とは逆が頂上だと思っていたので、訊ねておかなければ元来た道を戻るはめになるところだった。


 私は少年が正面を向いている方向を指差しながら「こっち?」と念を押し、返事を待たずに「ありがとう」と再び礼を言って歩きだした。気になることはまだ沢山あるのだが、すべての疑問を今ここでこの少年にぶつけるのはこくというものだ。


 目下のところ優先すべきは一刻も早く宿へ向かい、灰色に変わってしまっている顔面の症状を緩和できる薬なり解毒げどく剤なりを手に入れることである。「一二三」氏の茶のおかげで抑えられているのか、あれから毒の症状が進行したような感覚はない。


 数歩も行かずに立ち止まった私は、少年を振り返って「さっきの藪の中にある家、そこに住んでる男の人、知ってるかい?」と訊ねてみた。もしかしたらあのとき、私の靴を裏庭へ運んだのはこの少年なのではないか。


「ひふみさん」


 よく聴き取れなかったので「え?」と訊き返すと、少年はもう一度「ひふみさん」と同じ言葉を繰り返したようだった。はじめはあの男の下の名前かとも思ったが、家の表札に『一二三』と書かれてあったのを思い出した私は、それがとも読めることに気がついた。


一二三ひふみさん、か」


 気になっていたことのひとつが副次的に解決したものの、私が本当に確認したいことはそれではない。


「その、きみもさっき、一二三さんの家にいたかい?」


 私の問いに少年は即座に首を横に振ると、もう用は済んだとばかりにきびすを返し、ふもとの方へ向かって歩いていってしまった。


 どうしてこのではこうも一方的に話を切り上げる人が多いのだろうか。これはもう共通した特徴を表す国民性のような、いわば地域民性とでも呼ぶべきものなのかもしれない。


 歩き去る少年の背中へ「ありがとう」と三度目の礼を言い、身体の向きを変えて足を踏み出そうとしたところで、駄賃がわりに菓子でもあげようかと私は背後を振り返った。


 ところが、つい今しがたまでいた少年の姿はそこにはなく、彼が抱えていたはずの目のない大きなウサギが地面の上にぽつねんと取り残されているだけだった。

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