少年の姿が消えて少し驚きはしたが何のことはない。左手には急な斜面があり、右手には先ほど出てきたやぶが広がっている。となると、少年が藪の中へ戻ったことは明らかである。では、あれほど大事そうに抱えていたウサギを置き去りにした理由は何だ。


 立ち止まっていても仕方がないと思い、そのどうでもいい疑念については歩きながら考えることにして、私はあわれなウサギに一瞥いちべつをくれてから身体の向きを変えた。


 まず考えられるのは、あのウサギは少年のペットなどではなく、たまたま怪我をしているところをどこかで見つけて一時的に介抱していた場合だ。少々冷たいようにも思えるが、もしそうであれば野生に返しただけのことである。


 私の頭にはもうひとつ、あまり好ましくない考えが浮かんでいた。藪の中で見つけた眼球が一対いっついだけではなかったことから、被害に遭ったウサギがまだどこかに複数おり、それらを運び出すためにやむをえず置いていった可能性である。


 どちらにせよ、少年がウサギを置いて姿を消したことへの説明はつく。


 それからこれは疑念というか、どちらかといえば違和感に近いような気もするのだが、宿はこの方向で本当に合っているのだろうか。


 たしか一二三ひふみ氏と遭遇する直前まで、私は進行方向の右手に藪を見て歩いていた。ならば、先へ進むには藪がなければおかしいではないか。左手に藪を見ながら歩いている今は、どう考えても来た道を戻っているようにしか思えない。


 半信半疑のまま歩いているとさらに困ったことになった。宿まで一本道だと思っていたルートが二手どころか三方向に分かれてしまっている。そこらに道標が倒れていやしないかと探したが見つからない。


 順当に考えていずれか一本がへと通じており、私の歩いてきた道を含め残り三本が別な登山道の入り口や一二三氏の家へと続いているのだろう。


 人は右脳の働きによって左側へ注意を向けているもので、こうして道に迷ったときなどは無意識に左を選ぶものらしい。どうやら私もご多分に洩れず、その本能だか心理学だかにのっとって左側の道にかれているようだ。


 迷っていても仕方がない。とりあえず左の道から行ってみて、あまりにも下りが続くようだったり、一二三宅のような民家などで行き止まりだったりしたら戻ってこよう。




 はじめ上りだった山道はすぐに長く緩やかな下り坂になってしまい、そろそろ引き返した方がいいのかもしれないと思いはじめた頃、カーブを曲がるなり唐突に急勾配こうばいの上りへと変わった。


 急な坂道を前にし、いささか疲れを感じてもいた私は、行き止まりではないが戻ってもいいんじゃないかという思いに駆られた。選んだときは左のような気がしたものの、今はこんな道の先に宿があるようにはとても思えない。そもそも、さっきの分岐点に宿の看板がないのは不親切ではないか。


 進むか戻るか迷っていると、尻尾を垂直にピンと立てたタマコが、しなやかな肢体を優雅にくねらせて私の背後からのっそりと現れた。


 私を追ってきたのかと思い、しゃがんで「ニャー」と呼び掛けてみたのだがどうやら違ったようで、こちらを振り返りもせずにのしのしと歩いていってしまった。


 一二三氏の様子だとタマコは彼のペットではなく、よく遊びにくる近所の飼い猫といった感じであった。とてもあの近くに他の民家があるようには思えなかったが、タマコが野良猫というのも考えられない。それとも、この坂道の先に彼女の住処すみかがあるのだろうか。


 引き返す方へ心が傾きかかっていた私は考えを改め、タマコの後について坂道を上ってみることにした。彼女がこの先にあるかもしれない宿の、つまりはの飼い猫の可能性だってまだあるのだ。


 特に似せる努力もせず、私はもう一度「ニャー」と猫の鳴き声を真似まねて立ち上がり、堂々と前を歩くタマコのピンと立った尻尾の先端の、ゆらゆらと揺らめく誘うような動きを見つめながらその後に続いた。




 上りはじめてみれば何のことはない。急勾配といえど大したことはなく、ものの数分でわりと広い平坦な場所へ出た。山道が続いているのはわかるが、周りが丈の高い雑草だらけで遠くまで先を見通すことができない。


 ハズレの道を引いてしまったのではないかという疑いが確信に変わりつつあった私は、先を行くタマコには悪いとは思いながらも、この辺りで引き返そうと足を止めて彼女の尻尾に注いでいた視線を上げた。


 すると、わずかだが前方の雑草と木立を透かして、黒っぽい色の人工物らしきものがあるのが見えた。ここからでは家屋かどうかすらも判然としない。


 それが何なのか確認しようと止めた歩みを再開させ、タマコの後に従って進んでいくと、木造の建築物と思われる輪郭が次第に山道の両側に見えてきた。どこか宿や民家のような造りとは異なっているようだが、なんであれ人がいれば道を訊ねてみよう。

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