百舌

 つかんでいた枝を放した私は、すぐにでも走ってこの場から逃げ出したい衝動を抑えつつも、地面に転がる眼球からは目を離さずに、一歩、二歩とよろけるように後ろへ下がった。


 犯人が何者なのか知りたくもないが、もしこれが「一二三」氏や地元民の仕業しわざであったとしたら、私はこのような異常かつ残虐な行為をする人間とは仲良くなれる気がしないし、そんな野蛮な連中の生活圏にいることすら不愉快に思う。


 もちろん、まだ誰かがやったと決めつけるのは早計だろう。この辺りに棲息する獣の仕業の可能性だって充分にある。たしか百舌もずとかいう鳥はとった獲物を枝などに突き刺して保存しておく習性があったはずだ。この目玉だって特定の獣のそういった習性かもしれないではないか。何にせよ気味が悪いことには変わりはないが。


 騒がしく飛び交う蝿たちを手で払い払い身体の向きを変え、黒いボールの落ちている箇所を避けて慎重に足を前へと運ぶ。


 眼球のそばを通り過ぎざまにふと、この雑草が倒れている場所は動物のなのではないかと思い至る。もしそうであれば近くに危険な獣が潜んでいるやもしれない。


 私は動きを止めて周囲の音に耳を澄ました。ループする蝉時雨をBGMに蝿のわんわんとハウリングするような羽音が重なり、ときおり吹く風に草葉が擦れ合ってさらさらと流れるような音を立てる。


 仄暗ほのぐらい空間に満ちる音が、今の私にはそれが自然の奏でる素晴らしい楽曲ではなく、これらの音をカモフラージュに忍び寄る猛獣の不穏な序曲のようにも聴こえていた。


 突然、ガサガサという藪を揺らす音が聴こえた気がした私は、音の出所を探すというよりも、相手を威嚇いかくする目的でライトの光を周りに走らせた。動物であれば光を警戒して襲ってはこないはずだ。


 すると音がやみ、ただ突風が吹いただけだったのだろうか、などと思っていると再びガサガサと鳴り出した。間違いなく何かがいる。


 擦過音は次第に近づいてきており、その歩みには一切の迷いが感じられない。


 おおかた「一二三」氏だったりするのではないかと楽観する一方で、実感がないだけで本当に生命の危機なのかもしれないという深刻な考えが、私の頭の片隅にじわりじわりと湧きはじめてもいた。


 今にもどこかの藪から飢えた獣が躍り出てくるのではないかと気を張っていた私は、背後でガサリと大きな音がして反射的に身体を反転させた。


 振り返りざまにスマホをそちらへ向けると、小学校の低学年ぐらいと思われる坊主頭の少年が顔を覗かせており、私の当てるライトの光に眩しそうに目を細めていた。私は咄嗟とっさにスマホを伏せて、「ごめん。大丈夫かい?」と少年に声を掛けた。


 無言でうなずいた少年は身体の向きを変えて藪の中へ戻っていこうとした。私はその背中に「ちょっと、きみ」と追いすがり、「登山道へ出るにはどっちかな?」と訊ねてみた。


 立ち止まった少年はチラッと一瞬だけ私の方を振り返りはしたものの、何か言葉を発したりどこかの方向を指差したりはせず、ただむっつりと押し黙ったままでまたすぐにガサガサと藪の中へ入っていってしまった。


 少年は何も教えてくれはしなかったが、少なくとも彼の後についていけばどこかしらには辿り着けるはずである。私は「ちょっと待って」と声を上げ、少年の消えた辺りの藪を掻き分けて身体を滑り込ませると、見失わないようにライトで照らしながらその背中を追った。




 邪魔な植物を掻き分ける作業で遅れがちになる私に対して、慣れた様子ですいすいと前へ進んでいってしまう少年にどうにか食らいつき、一体どこまで行くんだと思いはじめた頃にいきなりポンと山道に出た。


 ここが「一二三」氏と藪の中に入った場所と同じでないのは、あの忌々いまいましい毒の湧き水が見当たらないので間違いない。ともかく、これでまた宿へ向かうことができそうだ。


「ありがとう。助かったよ」


 私はスマホのライトを消してこちらに背を向けたままの少年に礼を言い、「もうひとつ訊きたいんだけど、いいかな?」と訊ねてみた。すると、さっき藪の中にいるときには気がつかなかったが、くるりと身体を回転させた少年の腕に白っぽいものが抱えられているのが見えた。


 はじめはニワトリか仔犬でも抱きかかえているのかと思ったら違った。ウサギである。実物を過去に見た記憶があまりないので定かではないのだが、少年の抱えるそれは私の想像するサイズよりも遥かに大きいように思えた。


「宿、じゃわからないか。山の頂上へ行くにはどっちかな?」


 同じ目線で話そうと両膝に両手をついて中腰になった私は、ウサギの閉じられたまぶたの隙間から赤黒い肉片がべろんとみ出しているのを目にし、唾液ではない苦い汁が口内でじゅわっと分泌されたような気がした。

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