バゲモン

「これ、これ何なんですか? 毒水って、毒って何の、何が? 毒消しもさっきちゃんと飲んで、飲んだのに」


 冷静を保てていると思っていた私は、状況を整理しようと言葉にしてみてうまく喋れないと気づき、考えている以上にパニックにおちいっていることをみずから認めざるをえなかった。


「ああ? ひどりでなぁに言っでんだぁ?」


「毒、毒! 毒がまわって灰色に!」


「そうだっつうの。さっぎがらそう言ってっぺよ」


 慌てる私とは逆に、男は落ち着き払った態度で「おがしなひどだなぁ」などと言い、「うっさぐてゆっぐりおぢゃも飲めねぇ」と呟いてグラスに半分以上残っていた茶を一気に飲み干した。


 これから身体に変調をもたらすであろう毒への恐怖もあってか、窮地に立たされている私を気遣ってもくれない男にだんだんと腹が立ってきてしまい、勢いあまって「毒、消えてないじゃないですか!」と怒鳴りつけてしまった。


 からのグラスを持った手を太腿ふとももに置いた男は、正面を向いたまま「あんだぁ、ひどの話、ちゃんと聞いでだか?」と一言ひとこと一言を明瞭にゆっくりと発声した。


「毒消し飲ん」


「冷でぇうぢにっつったのによぉ」


 男は私の言葉をさえぎってそうぼやくように言うと、ピッチャーを傾けて本日三杯目となる漆黒茶をグラスに満たしはじめた。


「何が違うっていうんですか。冷たくてもぬるくても、効き目なんて変わらないでしょう」


「あど、毒消しじゃねぇ。毒出しだ」


 それこそ一体何が違うというのか。やはり、この男が神経質だという私の読みは当たりだ。さっきから男がどうでもいいことばかりを指摘しているのは、きっと性格の合わない私への嫌がらせの意味も含んでいるのだろう。


 私が「これ、治りますよね?」と自分の顔を指差しながら男に訊ねると、感情のこもらない声で「知らね」と一蹴いっしゅうされてしまった。


「そんな」


 致死的な毒ではなくとも、後遺症が残ったり内臓機能の一部に損傷を受けたりする可能性がないとは言い切れない。心では毒への不安がもくもくと立ちのぼり、頭では男への怒りがふつふつと湧き上がりはじめていた私は、「何で知らないんですか!」と再び大声を出していた。


「知らないはずないでしょう。前にも見たことがあるんですよね? だから毒がまわってきたのがわかったんでしょう?」


 同じ毒を飲んだ私以外の人間をこの男が過去に見ているのは間違いない。本当にこの家に鏡がひとつもないのなら、毒の症状が出ても男には自分の顔を確認できないのだから。


 では、毒におかされたその誰かはどうなったのだ。


「知らね」


 男は正面を向いたままで私と目を合わせようとはせず、先ほどと同じ無責任な言葉を短く繰り返しただけだった。


 私はなか自棄やけになった気持ちでグラスを引っつかみ、たとえ手遅れでも飲まないよりはマシだろうと、ほとんど吐瀉としゃぶつのような匂いの茶を鼻をつまんで一息にあおった。


 顔面に貼りついた毒出しの草も口に放り込んだのだが、咀嚼そしゃくするごとににじみ出る汁が苦いとか辛いとかいった味覚を超越しており、脳が命令を下すよりも早く私は口内のすべてを地面へと吐き出していた。


 狂態を演じる私を気にする様子もなく、男はさっきと変わらず顔を正面に向けて石になったかのように動かない。隣でおお袈裟げさ嘔吐えずいたり激しく咳き込んだりしてみても同じだった。


 ハンカチを取り出して口元をぬぐい、ハアハアと荒い息を吐きながらからになったグラスを盆に戻した私は、「ごちそうさまでした」と男に茶の礼を言って「治るんですよね?」と詰め寄った。


 ぎりりと首だけをひねって私を見た男は、唐突に「んじゃあ、きぃづげで」と暗に立ち去るようにうながすと、不自然な動きで顔をまたぎりりと正面へ戻した。


 男の態度からバスの中での出来事を思い出し、これが拒絶の意思表示であり会話が終わったことを理解した私は、これ以上ここにいても意味はないと大人しく立ち上がって靴に足を入れた。


 振り返って「死にはしないんですよね?」と正面から男をとらえてみたが、急にボケてしまったかのようなうつろな表情をしており、瞳に映ってはいてもその眼は私を見てはいなかった。


 返事は期待できそうにもないので、今度は「ありがとうございました」ともろもろに対する礼を言い、軽く会釈をして家の表へまわり込もうと歩きだすと「ひどにはどぐだぁ」という男の呟く声が背後から聞こえてきた。


「何ですって?」


 そう言いながらもう一度振り返ってみると、私を見送るどころか盆を持って立ち上がりかけている男が見えた。私の気のせいか、もしくは男の独り言だったのかもしれない。


 正面のブナ林へと視線を戻した私は、いつの間にかタマコが裏庭から姿を消してしまっていることに気がついた。目の前の蜘蛛に興味を失ってしまうくらいだから、おそらくもっと良質な獲物でも見つけたのだろう。


「バゲモンがでっがんなぁ」


 今度こそ間違いなく男の声を耳にし、「バゲモンって」と身体を反転させたのだが、すでに縁側にもその奥の暗い居室にも男の姿は見当たらなかった。

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