靴を履いて縁側から裏庭に下り、驚かさないようタマコからもっとも離れた右側からまわり込んだ私は、草むらでゴソゴソとやっている彼女の前肢まえあしの部分が見える位置までゆっくりと距離を縮めていった。


 あまり近づきすぎないように注意しながら背伸びをして草むらを覗き込んでみると、毛の生えた太い脚たちを小さく折り畳み、猫から繰り出される前肢の攻撃にジッと耐えている様子の蜘蛛を見つけた。


 大きなアシダカはそこらじゅうにいると男が言っていたし、タマコが蜘蛛をかまっているのは珍しいからではなく、動くものに反応してしまう猫のハンターとしての本能からなのだろう。


 このままだと蜘蛛をもてあそんで最後に食べてしまう残酷な場面が容易に想像できたが、それでも私は左手に握りっぱなしとなっていたスマホを彼らに向かって構えた。画面の中では依然として撮影が続いており、見ると録画時間がちょうど五分を超えたところだった。


「ネズミでもいんのがぁ?」


 男の言葉に振り返って「さっきのクモです」と私が告げると、「ああ。どぐぁねぇから、だぁいじょぶだっぺ」とのんきなことを言い、空になっていた自分のグラスに真っ黒い茶をぎだした。


 墨汁茶の劇薬のような強烈な味と、吐き気をもよおさせる異臭を思い出した私は、男から目をらしてスマホの画面ではなく実際の小動物たちを見やった。


 タマコはさっきまでとは違ってちょっかいを出すのをやめており、まるでお気に入りの玩具おもちゃが壊れてしまって心配でもしているかのように、まったく動こうとしない蜘蛛に視線を注いだままジッとしていた。


 度が過ぎて殺してしまったのかもしれない、と私が思うや否や、何かを察知して頭を上げたタマコの隙を突き、瞬時に長い脚を広げて肢体を持ち上げた蜘蛛が行動に出た。


 脅威から逃れるためには対象から離れるのが普通だろう。ところが蜘蛛はそうはせず、逆にタマコの前肢まで接近し、ぶつかるギリギリで肢体の方向を変えると奥の草むらの中へそそくさと消えていった。


 私は何だか残念なようなホッとしたような気持ちで録画の停止ボタンをタップした。いくら猫好きな私でも巨大な蜘蛛をバリバリと食べるシーンなど見たくはない。


 男のもとへ引き返しながら、そういえばタマコの闖入ちんにゅうで命拾いした蛙はどうなっただろうと、水溜まりの周辺を見まわしてみたけれどすでに姿はなかった。あのサイズの蜘蛛には本当に驚かされたが、親子で二匹が重なった蛙も初めて目にした私にとっては充分に珍しいものだった。


「だいじょぶけぇ?」


 縁側の前まで戻ってきたところで男にそう訊ねられた。意味がわからなかったので「何がですか?」と訊き返すと、男が「どぐだよ、どぐぅ」と繰り返し「おぢゃあ飲まねぇがら、まぁっできぢまってらぁ」と呆れるように言った。


 そうは言われても身体にこれといった変調を感じていない私は、「大丈夫ですよ」と答えてさっきまで座っていた場所へ腰を下ろそうとした。


「おいっ!」


 突然の怒声に驚いた私は動きを止め、空気くうき椅子いすをするような姿勢のままで男の方へ顔を振り向けた。


「さっぎも土足厳禁だっつったっぺよ、ああ!」


「はぁ、でも、座って脱がないと靴下がよごれ」


「何度もおんなじごど言わせんじゃねぇっつうんだよ」


 どうやら男の逆鱗げきりんに触れてしまったらしい。私は大人しく土の上に戻って靴を脱ぎ、そばに揃えて置いてから縁側へ腰を下ろした。


 家の前で靴を脱いだときも感じたのだが、この男は見た目によらず潔癖けっぺきで神経質という厄介な性質たちなのではないだろうか。


 加えて老齢なのに感情の起伏が激しいのも男の情緒が不安定であることを思わせる。これでは身体が休まっても気が落ち着かない。無理にでも茶を飲み干してさっさとこの場を退散しよう。


「あの、お茶、いただきます」


「ああ? もうおせぇっつんだよ、ったぐぅ」


 これ以上あまり男を刺激するのはよろしくないと思った私は、言葉の意味は深く考えずにただ黙ってうなずき、呼吸を止めたままでグラスに口をつけた。なるべく舌で味わわないようにするため、グラスをグイッと傾けて直接喉へ真っ黒い液体を流し込む。


 気管支に入りそうになってゲホゲホせると、男は「なぁにやっでんだぁ、おめぇ?」と目を丸くして私を見つめてきた。私は咳をしながらかろうじて「気管支に」とだけ男に伝え、身体を揺らしてさらに大きく派手に咳き込んだ。


「いまさらあわでで飲んでもしょうがねぇっぺよ」


 ようやく咳がおさまってから「でも、毒が」と答えようとする私に、「ネズ公みてぇな顔色しでぇ」と男が指摘した。その言葉を聞いた瞬間に眩暈めまいを感じた私は、「そんなに酷い顔色してますか?」と男に訊ね「鏡、お借りできますか?」と重ねて訊ねた。


「鏡なんちゃねぇよぉ」


「え? 浴室とか洗面所のでいいんですけど」


「だがらぁ、ねぇって」


 鏡をひとつも置いていない家庭などあるものだろうか。他人の詮索せんさくをするよりも私は自分の顔色が気になり、スマホのアプリを起動して前面カメラでおのれの顔を画面に映してみた。


 はじめは光の加減でよくわからなかったが、スマホの角度を調整すると男が言った「ネズ公みてぇな顔色」の意味が理解できた。


 理解はできても、顔だけが遺影のようなモノクロに見えるのが明るさや角度のせいでなく、他人にもそう見えているという事実が私に変な汗をかかせた。男が「毒がまぁっできだ」と何度か言っていたのは、冗談ではなく私の顔色を見てのことだったようだ。


 土気色だったり青白かったりするならまだしも、見たこともない灰色に変化してしまった自分の顔を眺めているうちに、私は気分が少しずつ悪くなってくるのを感じた。

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