鼠
靴を履いて縁側から裏庭に下り、驚かさないようタマコからもっとも離れた右側からまわり込んだ私は、草むらでゴソゴソとやっている彼女の
あまり近づきすぎないように注意しながら背伸びをして草むらを覗き込んでみると、毛の生えた太い脚たちを小さく折り畳み、猫から繰り出される前肢の攻撃にジッと耐えている様子の蜘蛛を見つけた。
大きなアシダカはそこらじゅうにいると男が言っていたし、タマコが蜘蛛をかまっているのは珍しいからではなく、動くものに反応してしまう猫のハンターとしての本能からなのだろう。
このままだと蜘蛛を
「ネズミでもいんのがぁ?」
男の言葉に振り返って「さっきのクモです」と私が告げると、「ああ。
墨汁茶の劇薬のような強烈な味と、吐き気を
タマコはさっきまでとは違ってちょっかいを出すのをやめており、まるでお気に入りの
度が過ぎて殺してしまったのかもしれない、と私が思うや否や、何かを察知して頭を上げたタマコの隙を突き、瞬時に長い脚を広げて肢体を持ち上げた蜘蛛が行動に出た。
脅威から逃れるためには対象から離れるのが普通だろう。ところが蜘蛛はそうはせず、逆にタマコの前肢まで接近し、ぶつかるギリギリで肢体の方向を変えると奥の草むらの中へそそくさと消えていった。
私は何だか残念なようなホッとしたような気持ちで録画の停止ボタンをタップした。いくら猫好きな私でも巨大な蜘蛛をバリバリと食べるシーンなど見たくはない。
男のもとへ引き返しながら、そういえばタマコの
「だいじょぶけぇ?」
縁側の前まで戻ってきたところで男にそう訊ねられた。意味がわからなかったので「何がですか?」と訊き返すと、男が「
そうは言われても身体にこれといった変調を感じていない私は、「大丈夫ですよ」と答えてさっきまで座っていた場所へ腰を下ろそうとした。
「おいっ!」
突然の怒声に驚いた私は動きを止め、
「さっぎも土足厳禁だっつったっぺよ、ああ!」
「はぁ、でも、座って脱がないと靴下がよごれ」
「何度もおんなじごど言わせんじゃねぇっつうんだよ」
どうやら男の
家の前で靴を脱いだときも感じたのだが、この男は見た目によらず
加えて老齢なのに感情の起伏が激しいのも男の情緒が不安定であることを思わせる。これでは身体が休まっても気が落ち着かない。無理にでも茶を飲み干してさっさとこの場を退散しよう。
「あの、お茶、いただきます」
「ああ? もうおせぇっつんだよ、ったぐぅ」
これ以上あまり男を刺激するのはよろしくないと思った私は、言葉の意味は深く考えずにただ黙って
気管支に入りそうになってゲホゲホ
「いまさらあわでで飲んでもしょうがねぇっぺよ」
ようやく咳がおさまってから「でも、毒が」と答えようとする私に、「ネズ公みてぇな顔色しでぇ」と男が指摘した。その言葉を聞いた瞬間に
「鏡なんちゃねぇよぉ」
「え? 浴室とか洗面所のでいいんですけど」
「だがらぁ、ねぇって」
鏡をひとつも置いていない家庭などあるものだろうか。他人の
はじめは光の加減でよくわからなかったが、スマホの角度を調整すると男が言った「ネズ公みてぇな顔色」の意味が理解できた。
理解はできても、顔だけが遺影のようなモノクロに見えるのが明るさや角度のせいでなく、他人にもそう見えているという事実が私に変な汗をかかせた。男が「毒がまぁっできだ」と何度か言っていたのは、冗談ではなく私の顔色を見てのことだったようだ。
土気色だったり青白かったりするならまだしも、見たこともない灰色に変化してしまった自分の顔を眺めているうちに、私は気分が少しずつ悪くなってくるのを感じた。
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