タマコ
実物を確認しようとスマホから顔を上げた私は、先ほど何度か見かけたのと同じ猫らしい茶トラが尻をこちらに向け、立てた尻尾の先端をうねうねと左右に動かしているのを見つけた。
電光石火で横槍を入れたのはこいつで間違いない。まさかあの巨大な蜘蛛を一口で食べてしまったのだろうか。
よく見るために立ち上がると、茶の入ったピッチャーを持って戻ってきた男とぶつかりそうになり、「んだよ、あぶねぇな」と注意されてしまった。
「すいません」
「何だぁ? まぁたションベンか? あー、ハァッ、ハァッ!」
裏庭用にサンダルでも置いてあるのだろうと思い、男の指が差している方へ視線を移動させた私は、縁側を下りたところの地面に自分の靴が揃えてあるのを見つけ、心臓を
私が裏庭から視線を外したのは男に茶の質問をしたときと、今しがた言葉を交わしたほんの数秒のあいだだけ。それ以外は家に入ってからずっと裏庭を見ていた。その
そこそこの重量がある登山靴を見つめながら、無理矢理にでも何でもいいから自分が納得のゆく、どうにか整合性のある答えはないものかと考えを巡らせる。あるとすれば、これは私の靴ではなくて男のものである可能性だ。
「あ? くづねぇのが?」
靴が見つからなくて私がぼんやりしていると勘違いしたらしく、男は
何から訊ねればいいのかと考えていると、「あれ、タマゴ来でだんかぁ」と言って男が縁側に腰を下ろし、「腹ぁ減っでねぇがぁ」とこちらに尻を向けたままの茶トラに声を掛けた。
「あの、これ、この靴。これって僕のですか?」
男は「ああ?」としどろもどろの私を見上げ、「おれのぢゃあねぇよ」と面倒くさそうに言って視線を外した。もともとすべての可能性が低い中でも、もっともありうると思った考えが潰れてしまった。
「おぉい、ネズミでも見っけだのがぁ」
私が「いや、でも、さっき外で脱いで」と疑問を口にしかけると、猫に声を掛けていた男は「ごぢゃごぢゃうっせぇなぁ」と苛立たしげな調子で言い、「何が気にいんねぇんだよ、ああ?」とバスの中で遭遇したこさか氏のように下から険しい顔で睨みつけてきた。
ただ質問をしようとしただけなのに、引火しやすい紙が燃え上がるように一瞬で
「それは、ゆっくり頂こうと思ってですね」
「ぬるぐなっぢまぁっつってっぺよ」
「えっと、虫歯が、に、しみるので、ぬるい方がいいんです」
苦し
「この靴なんですけど、あの、誰がここへ持ってきてくれたんですか?」
男が持ってきたのでないことは確実だ。いくらスマホの画面に見入っていたからといって、目の前でそんな動作をされたら見逃すはずがない。
「子供らだっぺ」
「子供、ですか?」
小人や妖精などと言われるよりはよほど現実的な答えだが、忍者や暗殺者でもあるまいし、ただの子供が物音を立てずにこんなことをできるものだろうか。蝉の鳴き声がうるさくとも近くで物音がすれば私だってわかる。
すると男は「よぉぐ忍者ごっこやっでっがらなぁ」と、私の疑念を読んだかのように呟いた。それならたしかに、私に気づかれないように目的を達成する、という遊びとして成り立つ。おおかた縁側の下を
疑問が解決して気分が晴れた私は、先ほどまでの自分の慌てようが急におかしくなってきた。
「なぁに笑っでんだぁ? 気色わりぃ」
私は「いえ、子供は無邪気だなと思いまして」と誤魔化し、「あの猫、タマゴはこちらで飼われてるんですか?」と話題を変えた。
「ああ? タマゴぢゃねぐってタマゴだぁ」
「タマゴ、ですよね?」
「ちげぇよ、タマゴだっつうの」
そうか名前も
「つっでもよ、タマゴにゃあタマァついでねぇげどな」
そう言ってさらに男は「タマァねぇのにタマゴっつうのもよぉ、洒落が効いでっぺよぉ。なぁ?」とひとりで勝手に喋り、ついさっきの不機嫌そうな様子もどこへやら、これまでよりも大きな声を上げて豪快に笑いだした。
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