蜘蛛

「なんがぁ、おもしれぇもんでもあっだのけ?」


 そう言って男は縁側えんがわに盆を置くと、私の隣に二人分ほどの間隔をあけて腰を下ろし、さらに「ああ?」とおどすような調子で訊ねてきた。


 横向きにしたスマホを片手で構えた私は、動画の録画ボタンをタップしてから首だけをひねり、「ほら、これ、見てくださいよ」と画面に映る生き物を興奮気味に男へ示した。


「ああ? クモどカエルだっぺよ。ベづに珍しぐもねぇ」


 私は男の言葉にきょうをそがれたような気分にもなったが、「この辺にはよくいるんですか?」と実物と画面の蜘蛛を見比べて訊ね、「こんなに大きなクモ、初めて見ましたよ」と驚きを率直に伝えた。


「アシダカなんちゃあ、そごらじゅうによぉぐいるわ」


「そうなんですね。でも、こんなのは滅多に見れないんじゃないですか?」


「言われでみっど、まぁ、でっけぇほうだわなぁ。ヌシかなんがだっぺ」


 私が意図したのは捕食者と獲物が対峙している場面のことであったのに、男は蜘蛛のサイズが大きいことの方が気になったらしい。普段から大きな蜘蛛を見慣れているはずの男が一触即発のシーンをそっちのけで言うのだから相当である。


 どちらから仕掛けるともわからない、眼前の緊迫した場面から目を離せずにいる私とは対照的に、男の方はまるで興味がないようで「おぢゃあ、ぬるぐなっぢまぁよ」と茶の心配ばかりをしている。


 できれば一部始終を見届けてから手をつけたかったのだが、出されて勧められたものを放置するのも失礼だと思い、私はカメラのアングルを確認してから「ありがとうございます。いただきます」とグラスを手に取った。


 にらみ合いの行方ゆくえが気になってすぐに画面へと視線を戻した私は、グラスに口をつけようとして異様な匂いがすることに気がついた。


 思わず顔から遠ざけたグラスを見ると、中は墨汁ぼくじゅうのごとく真っ黒な液体で満たされており、ふちにはしおれた薬草らしきものが趣味の悪いフラワーアレンジメントのように何本も垂れ下がっていた。


「あの、失礼だとは思うんですけど」


「ああ?」


「このお茶、独特というか変わってるというか、なんだか不思議な香りですね」


「そうげ?」


 男は自分のグラスを手に取って匂いを嗅ぎ、何でもないように茶をゴクゴクと飲んで「はぁっ」と息をついた。茶の色が真っ黒なのは一緒なのだが、よく見ると男の方のグラスには萎れた草のトッピングがされていない。


「えっと、お訊ねしたいんですけど、この葉っぱは薬草とかハーブとかですか?」


「ああ? そりゃどぐ出しだぁ」


 私はハッとして自分が何をしに男の家までついてきたのかを思い出した。男の緊張感のない振る舞いのせいもあるが、どうも即効性の毒ではないと思い込んだせいで危機感が薄れてしまっていたらしい。


 クスリと言っていたので万能薬や特効薬のようなものを想像していたのだが、これではただの健康法や民間療法の域を出ていないように思われる。もし茶で治るような毒なのであれば、たとえ毒がまわって症状が出たとしても、おそらくは一時的な体調不良ぐらいで済むのではないだろうか。


 雑草の青臭さに雑巾ぞうきんの搾り汁を加えたような匂いに嘔吐えずきそうになりながらも、男が毒出しだという小松菜のような葉を唇でうまくけて茶を一口すすってみる。悪意を煮出したような凶悪な色のとおり、舌が焼けるような強烈な渋味とえぐみが襲ってきた。毒出しではなく毒だと言われた方が腑に落ちる。


 鼻から抜ける匂いの酷さと後味の悪さに、もう二度と持ち上げることはないかもしれないとグラスを置き、そういえば蜘蛛と蛙はどうなっただろうかとスマホの画面に目を移した。


 目を離しているあいだに大きな動きはなかったようで、録画時間が二分を超えた以外には画面に変わった様子はなく、両者による無言の睨み合いはまだ引き続いて行われていた。


「まぁだいっぺぇあっがら、遠慮しなぐでいいがんな」


 口をつけたのにほとんど減っていない私のグラスを見たのか、そう言って男は自分のグラスに入った墨汁茶を飲み干すと、「どれ、もんごと持っでぐっかなぁ」と立ち上がった。


 グラスになみなみとがれた透明度のない漆黒の液体を見ているうちに、私はなんだか男に一杯食わされているような気がしてきた。毒水も毒出しも男の作り話で、本当はただ、独り暮らしの寂しい老人の単なる暇潰しにつき合わされているだけなのではないか。


 たとえそうでも、味や香りはともかく茶でもてなしてもらっているうえに、日差しの当たらない涼しい場所で休ませてもらってもいるのだから、それを非難したり文句を言ったりするのは筋違いどころかただの狂人である。


 茶の味が絶望的に不味まずくても飲めば喉の渇きはうるおう。覚悟を決めてもう一口だけでも飲もうとグラスを手に取り、スマホに視線を戻したその刹那せつな、何かが素早い動きでサッと画面の左側に映り込んだ。今のは何だと思ったときにはもう蜘蛛の姿は消えてしまっていた。

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