運転手

 もうよほど次の停留所で降りて引き返してしまおうかとも思ったが、果たして駅へ向かうバスがまだあるだろうかと冷静に考えてみた。次の停留所で運転手の男に訊ねてみよう。いや、ここからなら声が届くかもしれない。


「あの、すいません。運転手さん」


 反応がないので少し声を上げてもう一度「すいません」と言うと、「お客さん」と運転手の男の不機嫌そうな声が返ってきた。


「今うんでんしでっがらぁ、なぁ。に話し掛げんなっつーの。じごっちまうべよ」


「すいません。でも、じゃあ、駅へ向かうバスがまだあるかだけでも教えてもらえませんか?」


「もうねぇよ」


 運転手の男はそう言って黙ってしまった。ならば、やはり近場の宿を教えてもらうしかない。


「もうひとついいですか。かむらた山の近くに民宿とかありませんか?」


「あぁん? 山んなかにあっぺよ」


「いや、それ、潰れてしまったらしくて」


「いづ? 適当なごど言っでんじゃねぇ。知っだがしやがっで」


 そう言い捨てて運転手の男はまた黙ってしまった。こさか氏と運転手の話が食い違っているのはどうしてなのか。都会ならまだしも、土地が広いだけで共同体は小さいであろう彼らが、地元の情報を共有していないのはちょっと考えられない。


 こんな辺鄙へんぴな場所で宿を経営しているくらいだから、きっと経営者も地域住民に違いなく、そうであれば知人か少なくとも顔見知りではあるはずだ。


 食い違っているといえば、あの車掌と服装もなんだかちぐはぐだったなぁと思い返し、それにさっきのこさか氏との会話もどこか噛み合っていなかったな、などと考えて自分が思い違いをしていることに気がついた。


 あのとき宿が潰れたのかという問いにこさか氏は答えておらず、話をらされた私が勝手にそう思い込んでしまっただけではなかったか。


 なんだ大丈夫じゃないかと私は胸をなでおろしたが、老婆の目を見つめたときに感じたものと似た、失念していることを失念しているような奇妙な感覚に襲われた。


 私はぼんやりと行き先表示器を見ていて何も出ていないことに気づき、注意されるのを承知で慌てて運転手に声を掛けた。


「あの、運転手さん、すいません」


「話し掛げんなっつーの! 日本語わがんねぇのが?」


「すいません。もうこれで最後なので、お願いします。その、行き先が表示される機械って、ボタン押さないと出ないタイプですか?」


 私の知る限りバスの行き先表示器には自動で次の停留所名が表示されるものと、乗客が降車ボタンを押したときにだけ表示が出るものとふたつのタイプがあるはずだった。


「あぁ? あぁ、押さねぇとわがんねぇ。調子よがったら出っぺよ」


 運転手の言葉を補足して察するに、どうやらこの表示器は後者のタイプの上に表示の有無は機械の調子次第ということらしい。次から次へと今日に限って一体どういうことなんだ、と私は内心で毒づいた。しかし、まだかむらた山が過ぎてしまったと決まったわけではない。


「運転手さん、かむらたって過ぎましたか?」


「あぁ? 降りんならボダン押さねぇとわがんねっぺよ」


 会話が成立していない気がするのは私の感覚の問題だろうか。それとも運転手の男が言葉足らずなのか。


「次がかむらたってことですか?」


 私がなおも問いかけると「ボダン押せっづーの!」と運転手の男が声を上げ、「しちめんどくせぇ」と悪態をついた。運転手の気をこれ以上らして事故を起こされては困ると思った私は、黙って左腕を上げて窓と窓のあいだにある降車ボタンを押した。


 先ほどと同じポーンという乾いた音が鳴っただけで今度は運転手のアナウンスはなかった。私は運転手の機嫌まで損ねてしまったのだろうかと居たたまれない気分になったが、行き先表示器のLEDが点灯していないことで何となく事態を察した。


 結局、表示が出ようが出まいがアナウンスするか否かは運転手の気分次第なのだろう。私は馬鹿げていると思いながらも、まさか運転手の機嫌と表示器の調子が連動しているのではあるまいなと疑った。


 私はいま一度「次がかむらたなんですか?」と運転手の男に訊ねようとしたが、もう怒鳴られるのはりだと思い止まった。次の停留所の看板を確認すれば済むことだ。


 大きな声で話していたので迷惑だっただろうかと右側の三人へ顔を向けると、誰かが面白いことでも言ったのかそれとも私の間抜けな言動を嘲笑しているのか、こさか氏の前に座る頭頂部の禿げた坊主頭の男が「ひひひ」と下卑げびた笑いを上げていた。


 私が自意識過剰な人間ではないとして、余所者よそものというだけでここまでの態度を取るのはかなり異常ではないだろうか。私は不愉快な気分を抑えつつ、どうせ次でバスを降りたら二度と会うことはないのだから我慢しようと自分に言い聞かせ、気を紛らわせるために窓の外を流れる緑多き景色へと視線を移した。

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