下山者

 まもなく「次ぃ、とまりますー」という運転手のアナウンスが流れてバスが速度を落とした。外の景色は漁火いさりびという停留所と何ら変ったところは見受けられず、幹の太い木立とその間隙かんげきを埋めるように背の高い雑草が鬱蒼うっそうと繁っている。


 バスが完全に停車してから席を立った私は、右側の三人を見ないようにして前方の降車口へと向かい、開いたドアのあいだから停留所の看板を探したが見つけることができなかった。運転手の男を見ると、顔は正面に向けたままで、白い手袋をはめた右手の人差し指を苛立たしげにトストスとハンドルへ打ちつけていた。


「ここがかむらた山ですか?」


 通算三度目となる同じ問いかけに、運転手の男は横目でジロリと私を睨みつけ「お客さんよぉ」と苦々しげに口を開いた。


「とし坊!」


 背後からの怒声に私が思わず振り向くと、禿げた坊主頭の男が歯を食いしばった険しい顔でこちらを睨んでいた。とし坊と呼ばれた運転手の男は舌打ちをして前へ向き直り、手元に並ぶ操作盤のスイッチを入れた。


「お降りのかだはとっとど降りでくださいー」

 

 運転手の男は明らかに私へ向けた言葉をわざわざ車内アナウンス用のマイクを使って言った。


 私は彼らの嫌がらせのような態度にうんざりしながらも、運転席の真横に設置されている運賃箱へ規定の料金と整理券を落とし、運転手の男へ会釈をしてバスのステップを降りた。


 バス内に漂っていた息苦しい雰囲気から解放された私は、バスが去るのを待ってから大きく伸びをして、山の澄んだ空気を肺いっぱいに取り込んだ。


 吹き抜けた風の涼しさにデイパックから長袖のシャツを取り出して羽織はおり、近くにあるはずの登山道の入り口を探そうとバスが走り去った方へ歩いていると、びたバス停看板が草むらのなかからわずかに顔をのぞかせているのを見つけた。


 しかし、停留所の名前もバスの到着時刻の表記も塗装がげてしまっていて読めない。もしかしたら登山道もバス停看板のように草むらにうもれてしまっているのだろうか。


 草の根を分けてまで探すようなことはしなかったが、バス停からずいぶんと離れた場所でようやく「遊歩道入口」と彫られた木製の立て札を見つけた。長いあいだ雨風あめかぜさらされてきたのだろう、立て札は半分以上が朽ちて崩れてしまっている。


 私は雑草を踏み倒してけものみちのような遊歩道へと分け入った。




 せみ時雨しぐれが降りそそぐなか、ほとんど日の光が届いていない仄暗ほのぐらい山道をのらりくらりと歩く。雑草が繁茂はんもしていたのは遊歩道の入り口あたりだけで、一応は人の往来があるらしく、しばらく歩くとむき出しとなった土が道を作っていた。


 この道に沿って歩いていればそのうち宿に着くだろうなどと安易に考えながらも、私はどこか釈然としない何かがずっと胸に引っ掛かっている気がしていた。原因は何だろうかともやもやしていると、向かいから人が歩いてくるのが木立のあいだから見えた。


 私と同じような長袖シャツにジーパンという登山者然とした服装をしている。帽子を目深まぶかに被っていて顔はよく見えないが、体型や小柄な背格好からしておそらく女性だろう。


 すれ違いざまに「こんにちは」と言って軽く会釈をしたのだが、相手は挨拶どころか目すらも合わせてはくれず、私を完全に無視してさっさと後方へ歩き去ってしまった。


 心得や細かなルールを知りもしないにわか登山者の私であっても、山で会ったら誰でもお互いに挨拶を交わすというのは、せめてものマナーだと思っていただけに少しだけ不快な気分にさせられた。


 地元の人たちから余所者よそもの扱いされるのはまだしも、自分と同じく山を楽しみに来たのであろう者からも無視をされると流石さすがこたえるものがある。まさか男ということを警戒されたのだろうか。


 私は足を止めて軽く溜め息をつき、「まぁ、いろんな人がいるさ」と心の中で自分をなぐさめ、なんとなく女性が歩き去った方を振り返った。女性の歩みは走ったのかと思うほど速く、緩やかなスロープを下っていくその後ろ姿は、すでに遠くのカーブを曲がって見えなくなろうとしていた。


 大自然の中にいると細かいことを気にするのが馬鹿らしくなってくる。


 深呼吸をゆっくりと二回繰り返して気を落ち着けた私は、歩き出そうとしたところで何かが足元をすり抜ける感覚にギョッとして身体を強張こわばらせた。


 固まったまま視線だけを下へ向けると茶色のトラ猫が私を見上げていた。美しいとは言えないまでも、野良や野生ではないことがわかる程度には毛並みが整えられている。この辺りにある民家の飼い猫か、そうでなければ目的の宿の猫でもう近い場所まで来ているのかもしれない。

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