内緒のピクニック

硝子

とある休日の昼下がりのことだった。

あたしは先生と“内緒のピクニック”の約束をしていた。

天気すらもまるでわからない程に鬱々と茂った、暗い暗い森で。不気味にとぐろを巻きながら、どこまでも巨大に育ち続けるのをやめない木々たちの栄養は、この場所に迷い込んだ人々の恐怖や焦燥なんだと思う。


それにしても先生は、どうしてこんな場所を選んだんだろう。ピクニックという言葉のイメージからはとても想像できないような、悪趣味な場所。確かにもともとどこか普通とは“ズレた”感覚を持ち合わせた人だったし、あたしはそこに強烈に惹かれていたのだけれど、まるで磁石がそこにあるかのように、先生の周りには不思議な磁場が回っている。


全く信じられない。デートにこんな場所を選ぶなんて。


自分が嫌いだった。だから多分道に迷った。それでも泣かずに歩いた。今近くに先生はいないから泣いたって意味はないんだし、そうすることしか思いつかなかったから。

ぎゃあぎゃあ。何かが啼いている。ぎゃあぎゃあ。

あたしはとっても疲れている。身体は勿論、心も。自分自身をまじまじと見下ろせば、何故だか上から下まで泥だらけで、せっかく着てきたお気に入りのブランドのワンピースもボロボロだ。プリントされたマリア像が、冷たい瞳でこちらを見ている。

そしてふと気がついた。

靴が片方ない。


あたしがその時に右足に履いていたのは、どうしてだか、いつも学校でかかとを踏んで突っかけている、指定のださい上履きで、左足はというと、やっぱり裸足だった。

でも確信はある。あたしは今日両足に“上履きを履いていた”という絶対的な、確信。先生とのデートの為に、クラシカルなワンピースで全身完全武装していながらも、足元はだっさい上履きを、あたしは絶対に、履いていた。

–どこかで落としたのだろうか。


「靴を落としておいて、それに気づかず歩き続けていたなんて、まるで子供みたいだね。」

先生はいつもの憎たらしいによによした顔で、あたしを見上げてきた。

何処かで見たことがあるような一昔前のキャラクターがプリントされたレジャーシートにあぐらをかいて座り、のんびり林檎を齧っている。ボロボロのあたしを置いて、自分だけ一足先にピクニック気分、というわけだ。

本当はあたしがいるはずだった先生の隣にはぶさいくな顔のりすがちょこんといて、ほっぺをもりもり膨らませている。

「うるさい黙れ。」

先生の言動はいつもあたしの神経を逆撫でする。その度にあたしはこうして汚い言葉を吐く。そうしないと、先生の顔を正面から見ることができない。


全てを見透かしたような視線、によによ笑い、眼鏡、ださすぎるジャージ、意味わかんないりす、齧りかけの林檎…。それら全部が頭の中でぐるぐる回って、爆発を起こしそうになる。両眼にじわりと涙が滲んだ。


あたしはどうして先生と“内緒のピクニック”なんかをしようとして、浮かれていたんだろう。

あたしはどうして先生のことがこんなに好きなんだろう。デートにこんなジャージを平気で着てくるような人。女の子を暗い暗い森に、ひとりぼっちにするような人。

あたしは。

あたしはどうして。あたしは。先生は。ジャージは。林檎は。りすは…。


先生はあたしを不思議そうにずっと見ていたけれど、やがてびっくりするほど柔らかに優しく微笑んで、けろりとこんなことを言う。

「靴、一緒に探そうか。何色?どんなの?」

この人は本当にひどい。

ここで、せめてその手を握ることができるあたしでいられたら、よかったのに。しかしあたしはその貴重な優しさにもまた、腹を立ててしまった。りすを蹴っ飛ばしてやりたくなる。気づけばこう口走っている。

「あか」

先生はあたしの右足に残された、明らかに“白い”上履きを見た。

白い、上履き。

そして先生はあのによによ顔で

「そっか。じゃあ探そうか。君の赤い靴。」

と立ち上がった。

悔しかった。


無いねえ無いねえ、と言いながら、きょろきょろと歩く先生の後ろを片足裸足でぺたぺたとついていくと、やがてそれは現れた。

古い井戸だった。

あたしはどうしようもなくいらいらしていた。先生のかっこいいはずの大きな背中からは、びろんと伸びきった白い下着が出ていたし、だいたい赤い靴なんて、初めからあるはずないのだ。先生もそれはわかっているはずなのに。

先生なんか、大嫌いだ。そう思った。大嫌いだ。

大嘘つきの、あたしなんか。

あたしを大嘘つきにする、先生なんか。


あたしの中のあたしが、ほとんどすらすらと恐ろしいことを喋り出したのは、井戸の手前まで来た時だ。

「ここに落としちゃったんだと思う。」

「どれどれ。」

2人でその穴をのぞくと、そこにあったのは水よりももっと何か、深く、恐ろしく、絶望的な得体の知らない液体だった。気味の悪い粘りと、どこまでも永遠に続きそうな空虚から、何故だか目が離せない。でも思う。この感じ、あたしはよく知っているのではなかったか。

あたしの心は天秤だ。シーソーだ。もっと言えばジェットコースターだ。いつでも無防備でむき出しのそれは、先生によって、そしてなによりあたし自身によって、揺さぶられ、抉られ、壊されていく。

「あ、赤いのが見えた。」

あたしはその言葉にほとんど泣きそうになって、自分が大嫌いで、先生が本当は大好きで、もう何もかも分からなくなって、気づけばこう叫んでいた。

「だったら早く取ってよ!」

あたしの声が森にこだまする。金属と金属が擦れ合うみたいなその声に共鳴するように何かが啼いて、飛び立っていった。

ぎゃあぎゃあ。

先生はあたしの頭にぽんと大きな手を乗せると、

「よっこらせ。」

というなんともジジくさいかけ声と共に、その恐ろしい井戸に飛び込んでしまった。


勿論、先生は戻ってこなかった。

よっこらせ。

それが先生の最期の言葉になってしまった。あたしは膝から頽れた。

あたしはただ、大嫌いで、大好きなだけだったのに。

ふと横を見ると、先ほどのりすが白いゴムの塊を大切そうに抱えて齧っている。それは一層深くなった森の暗闇に、ぼんやりと白く浮かび上がっていた。

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内緒のピクニック 硝子 @garasu

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