第3話 ラクシュミー神は、海から不死の飲料アムリタを取り出す
遠くに妻の後ろ姿を見つけた。誰かと喋っていた。現地の人間ではなく、背の高い日本人の男だった。その顔には見覚えがあった。最初は思い出せなかったが、近づいていくうちにはっきりした。
中学時代の友人だ。しかし、まだそうと決まったわけではない。よく似た他人かもしれない。
私はその友人を忘れられない。なぜなら、中学時代ずっと、そいつに対してある複雑な感情を抱き続けていたからだ。私とそいつとは特別仲がよかった。一緒に遊び、悪いことも一緒にやった。だが、いつもあいつのほうが一枚上手だった。計画的で、思い切りがよく、人を引きつける何かがあった。年上の奥さんにセックスを教わったのも、あいつが先だった。私は、あいつに紹介してもらったその奥さんで筆下ろしした。私が好きになった女の子は、みな、結局、私でなくあいつとつきあった。私は、あいつがこの世からいなくなってくれればいいと思っていた。そと同時に、あいつに強烈に憧れてもいた。
今、その男は、遠くで、妻の背中を愛撫している。あいつと妻とは、何のつながりもない。学校も違うし、結婚してから紹介したこともない。けれど、現に、私の見ているところで、妻はあいつにしなだれかかるようにしている。腰にはランダの面がぶらさがっていた。その面のギョロっとした目が、こちらをあざ笑っているような気がした。
私は、嫉妬を感じて走り出した。が、誰かに二の腕をつかまれ、立ち止まった。小柄な日本人の女がいた。
「私よ」いきなりその女は言った。
私は唐突な言葉に驚いて、その女の顔をまじまじと見た。
「私よ、私」
女は平気で続ける。私は記憶の底から、また、何かが湧き起こってくるのを感じた。彼女は…、そうだ憶えている、小学校の頃よく一緒に帰った子だ。こんな所で、こんな時に会うなんて…
「ね、行こう」
私に会った事に驚きもせず彼女は言った。つかんだ腕を引っ張る力に促されて、私は広場の出口に向かって踏み出した。彼女は一度振り返り、唇をかみしめながら、あいつと抱き合っている妻を見た。嫉妬の表情がありありと浮かんでいた。この子とあいつの間に、きっと何かあるのだろう。
広場から離れると、花の香りのする濃い闇に包まれた。彼女は私の腕を引いて、癇癪をおこしたようにずんずん歩いていった。
やがて目が慣れると、道の傍らにかかしのようなものが立っているのがわかった。かかしの顔は、雨曝しになったランダの面だった。月明りの中で、水田の稲の葉が、静かに光っていた。山間の狭い土地に作られた水田の風景は、小学校の夏休みに必ず遊びに行った郷里の景色を思い出させた。私は、何の不安もなく、毎日が刺激に満ちていた少年時代を思い出しながら、不思議な興奮とともに、妙に安心した気分になっていた。
彼女は歩きながら、私に体をよせた。明らかに私を誘っていた。彼女の体はあの頃と違って成熟していた。そして、熱帯の夜が私の気を変にさせた。
私は歩きながら彼女の腰を抱き、それを予想していたように、彼女は身をあずけて来た。彼女の腰の丸みは、私の手によく馴染んだ。私は場所を探した。彼女も、抱かれる場所を探していた。
道の左手に雑木林があった。ここなら充分な闇と、彼女をもたせかける木があるだろう。そう思い、奥に二、三歩入ると、闇の中からこちらを睨み返す二つの目があった。ぎょっとした。しばらく睨み合っていると、がさごそと音がして、二つの目は消えた。林の中に放し飼いにしてある牛だったのだ。牛は、まるで私らの目的を見抜いているかのように、ニヤリと笑った気がした。
しかたなくさらに歩くと、寺院があった。寺といってもバリの寺は、石の像と藁葺き屋根の建物があるだけで誰も住んでいない。私は、奇怪なレリーフに装飾された石門の陰に彼女を連れて行き、小さな石の祭壇らしきものに彼女を乗せた。
キスをして、Tシャツの下に手を滑りこませた時、遠くにエンジン音が聞えた。顔を起こして道の方を見ると、一つのヘッドライトが近づいて来た。そのオートバイは石門の正面に止まり、降りた男は門前に何か花のようなものを供え、わけのわからない言葉でぶつぶつと祈り始めた。祈りはいつまでも終わらなかった。まるで二人の行為を邪魔するようだった。
私たちはあきらめてその場所を離れた。
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