第2話 蛇の大王アンタボガは世界の初めにいて、瞑想で神々を作った
翌朝になると妻の熱は嘘のように引いていた。ホテルのダイニングで、妻は、朝食を異常にたくさん食べた。まだ熱の名残があるか、目つきは虚ろだった。
部屋に戻ると妻はベッドに仰向けになり、腹にランダの面を乗せてじっとしていた。今度は動かしたりせず、乗せておくだけだったが、天井の一点を見詰め続ける妻の様子は変だった。話しかけても、生返事しか返ってこない。
私は、自分のベッドに横になり、暇つぶしに観光ガイドで「ランダ」のことを調べた。
ランダ。それは、女性の姿をした悪の神。バリ島の宗教では、善と悪、二つの神が共存している。善が悪を完全に滅ぼすことはなく、悪が善に勝利することもない。善と悪の絶え間ない戦いが、この世を形づくっている。だから、人々は、乳房もあらわに男を迷わせるという悪の神「ランダ」に、善の神と同じだけの敬意を払っているというのだ。
午後になり、妻に付き添っている必要もなかったので、ひとりで散歩に出た。妻は「いってらっしゃい」と言ったが、どこか上の空だった。
庭園風に整えられたホテルの敷地から道路に一歩出ると、瞬く間に大勢の物売りに取り囲まれた。彼らは、日本人と見るとすぐに寄って来る。相手にせずに歩いて行くが、行く手をさえぎっていろいろな物を目の前に突き出してくる。木彫りの仏像、黒檀の箸、キーホルダー、イアリング、偽ローレックス、竹の笛…。
一つの光るものが太陽を反射して私の目を射た。
「トゥルース、トゥルース…」
それを持った老人が繰り返して言った。
「ミラー オブ トゥルース…」
ラの音とルの音がひどく巻き舌なので、最初は何か分からなかったが、何度か聞いているうちに、Mirror of truthだろうと察しがついた。
真実の鏡、ということになる。
私は苦笑した。老人が持っているのは鏡とはほど遠い、お粗末なブリキの円盤だったからだ。
私は、昨日回ったみやげもの屋でも感じた落胆、つまり、宗教的な雰囲気とは裏腹の、俗っぽい商売根性をあからさまに見せつけられた時の落胆を、この時も感じた。
村の中にある小さな寺院をいくつか見たあと、ふと思いついて、昨日ランダの面を買った店を探してみた。けれど見つけられず、あの客引きの幼女もいなかった。
きょろきょろしている私が目立ったのだろう、人の善さそうなひょろ長い男が寄って来て、「何を探しているのか」と聞いた。
彼はタクシーの運転手だった。白タクではなく、政府の正式な許可を受けていて、値段はちょっと高いがなんといってもクーラーが付いている、と彼は売り込んだ。
「タクシーを探しているんじゃないのか?」
「ちがう」
そう言うと、今度は顔を寄せて囁くように「女か?」と言った。
世界のどんな場所にも売春婦はいるというが、本当らしい。
「興味ない」
「じゃあ男か?」
「私はゲイじゃない…。妻が待っているホテルまで連れてってくれ」
それを聞いた男は、納得して車を発進させた。
バリの道路は、意外にも、ほとんど舗装されている。が、補修までしょっちゅうやっているわけではないので、轍にそってあちこちに浅い穴が開いている。それがちょうど、日本の昭和四十年代の道路のようだ。運転手の話しによると、これらの道は、二次大戦中に進駐して来た日本軍が整備したものらしい。そんな道と、若緑一色の水田を見ていると、一瞬、日本の田舎にいるように錯覚する。
運転手は、しきりに、自分の妻の自慢をした。村一番の美人なのだという。そして、毎晩性交渉を持つ自分の精力を自慢した。そのあけすけな態度につられて、私は、妻の様子がおかしくなってしまったことを話した。彼は大笑いして「すぐに抱いてやれ」と片づけた。
そういえば、この前妻を抱いたのはいつだったろう。私たちは、結婚する前から親友のような関係だった。体の関係は、暗黙のうちにできるだけ避けて来た。それまでの体験から分かっていたことだが、私の場合、体の関係を頻繁に持ち過ぎると、女との関係は決まって破局を迎えた。セックスに何かを求めると、私の方が失望してしまうのだ。だから、親友同志のような私と妻の関係は、それはそれでとてもうまくいっていた。
三日目の夜、まだぼんやりしている妻を無理矢理連れ出して、ラーマ・ヤナというバリの踊りを見に行った。日本の歌舞伎を思わせる、緩慢な動作の踊りだった。広場の真ん中の、星空の下の舞台できらびやかな衣装の女性達が踊った。観客席の前の方には、白人や中国人や日本人が陣取り、現地人達は後ろで立って見ていた。
踊りの途中、妻が何も言わずに席を立った。あたりに並ぶ屋台に食べ物でも買いに行ったのだろう、と思った。しかし、舞台が終わっても戻ってこなかった。
一斉に出口へ向かう見物客の流れの中に立ち、あちこち見回して妻を探した。嫌な事が起こりそうな感じがした。
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