第10話 布切れ一枚の攻防

「わ、わわ……ど、どうしよう……」


 外から聞こえてきた声に慌てふためく夏目さんであったが、俺はこの態勢の方に慌てふためいてしまっていた。


 丁度目の前で彼女が転んでしまったので、運動音痴な俺でも彼女を受け止めることが出来たが、まさに逆床ドンここにアリという有様。


 彼女との距離が異様に近くなり鼓動が早まるし、掃除で熱くなったのかリボンを緩め、第一ボタンを外した隙間からこう……美しい形のした山肌と、ピンクの花柄の刺繍が入ったものが……。


 幸い焦っている夏目さんはそんなことになっているとは露にも思っていない、だからこそこのラッキー背徳感が俺の視線を完全に固定させる。


「え、ええと、ええと……あ! こ、これなら……!」

「ちょ……! 夏目さん! 色んな意味で動かないで――――むおっ!」


 しかし、そんな男の性に翻弄されてしまっていると、突如白い何かが俺の身体を覆い尽くす。


 季節外れのホワイトアウトにより視界から桜満開の双子山は喪失――無念……。


「――って、何だこれ凄い埃っぽい……ゲホッ! ゲホッ!」

「しーっ! お、お願いだからちょっとだけ静かにしてて……!」


「むぐむぐ……」


 謎の白い布越しに、口元を夏目さんの手で押さえつけられた俺は埃っぽさを我慢しながら黙って首を縦に振る。


 するとほぼ同時に教室に通じる唯一の扉がガラリと音を立てて開いた。


 そして――俺の背筋をゾクリとさせる声が響いてくる。


「あら、ゆかっち……? どうしてここにいるの?」

「せ、せおりん……や、やっほー……ハウアーユードゥーイング?」


「I'm doing fine.――じゃなくてこんな所で何をしているのよ」

「え、ええと……」


 どうやら夏目さんは都合が悪いことがあると英語で誤魔化す癖があるらしい、しかし相手は生粋の帰国子女、見事な発音であっさり切り返されてしまう。


 いや……そんなことよりも、何で石榮いしえさんがここに……?


「わ、私た――私はここの掃除を頼まれて――せ、せおりんこそどうしてここに?」


 夏目さんも同じ気持ちだったのか、取り繕った声で俺が思っていたことを口にする。


「私はその――帰ろうと思ってたんだけれど、急に先生から資料を取って来て欲しいとお願いされて、何だか凄く急いでいたみたいだったから」

「ほ、ほほー……それはご苦労でございまし候……」


「? ゆかっち?」


 正気ではないのか謎な言葉の使い方をして誤魔化す夏目さん。


 まあ……こんな所絶対見られる訳にはいかないからな……。


 石榮いしえさんの俺に対する嫌悪指数は夏目さんの比ではない、表面上は良い顔をしてくれるだけに、俺と二人でいるなど知られようものなら問答無用で友情が瓦解する。


 スクールカースト上位様というのも中々大変なのだな……と少し彼女に同情してしまっていると、二人は会話を再開する。


「そ、それにしても、その資料とやらはこの教室で間違いないの?」

「ええ、この階の準備室で、誰かいる筈だからって言っていたから多分……それにしてもまさかゆかっちだったなんて」


「ほ、ホント奇遇だねえ……あ、し、資料一緒に探してあげよっか?」

「手前の一番上のダンボールの中と言っていたから大丈夫よ――それよりゆかっちの方が大丈夫? 掃除、手伝おうかしら?」


「も、無問題だよ! もうあと16.24秒くらいで終わる予定だったし!」

「やけに刻んだわね……でもその白い荷物は大きいし重そうに見えるけれど」


「ひぇ!? そ、そそそうかな? 全然そんなことないよ! ほ、ほら!」


 あまりにも狼狽えまくる夏目さんに心配を覚え始めた瞬間――何を思ったのか夏目さんが俺の身体にひしっと抱きついてきたではないか……!


「ほぁ……」


 堪らず僅かに声が漏れてしまうが、何とか必死に我慢をする。


 し、しかしあの桜山を目撃してしまったばかりのせいで、これは色々と想像が掻き立てられすぎて非常に宜しくない……た、助けてくれ……。


「お、お願い季松すえまつくん、たって……」


 は!? た、たってって、何を!?


 頭が混乱し過ぎて全てが意味深に聞こえてくる。ただぐいぐいと俺の身体を持ち上げようとするのでどうやらその場から立てということらしい。


 視界諸共意識まで真っ白になりそうだったが……何とか膝に力をいれてゆっくりと立ち上がる。こ、これでいいのか……?


「…………何か、伸びたのだけれど」

「えっ、そ、そうかな……?」


 いや……そりゃそうだろ。言われるがまま立ってしまったはいいが、身体を屈めたまま立ち上がる骨格は人体構造上備わっていない。


 それでも彼女は今度はぐいぐいと横に押して来るものだから、俺はそれに従って人間っぽさが出ないよう横に蟹歩きでゆっくりと歩く。


「ほ、ほら! 一応こうやって……ね! 横にスライドする仕組みだから! だから全然大変じゃないよ! き、気遣ってくれてありがとねせおりん!」

「ま、まあ……ゆかっちがそこまで言うのなら……」


 傍からみればここまでシュールな絵面もなかろう……当然石榮いしえさんから納得している様子は感じられなかったが、渋々了承した声をあげていた。


 そして、俺は視界不良で壁に追突し直立不動、なんじゃこれは。


「ええと……あったわ。多分この資料ね、じゃあ私は先に戻るから、掃除頑張ってね」

「う、うん! せおりんありがとね!」


「あ――そうだ」

「な、何!?」


「調理実習――楽しい時間になったらいいわね」

「も――勿論だよ! チョー最高の時間にしようね!」


「ふふ……それじゃあまた来週」


 石榮いしえさんはそう言い残すと、ようやくガラガラと音を立ててこの場を後にしたようであった。


「…………」


 数分ほど流れる沈黙を打ち破ったのはズルズルと音を立てて俺に被さっていた白い布――もとい色褪せたカーテンが引っ剥がされる音。


 そして顕になった視界の先には、やけにやつれた顔の夏目さんの姿。


「…………」


 彼女は疲労から、俺は罪悪感からお互い何も喋らず、しかし示し合わせたかのように残りの掃除を終えると、秋ヶ島あきがしま先輩のいるマスコミュニケーション部へと戻ったのであった。


       ◯


「――え! ほ、本当ですか! よ、良かったぁ~……」


 その後。


 先に夏目さんの依頼からという秋ヶ島先輩の指示を受け廊下で待ちぼうけをしていたら、部室内から夏目さんの歓喜の声が漏れててくる。


 どうやら彼女の求める情報は希望通りの形で知ることが出来たらしい。


 あれだけドタバタと必死に立ち回っていたので、悪い結果にはならなかったことに俺も内心安堵してしまう。


「秋ヶ島先輩ありがとうございました! 失礼します! ――あ! お疲れ様! 季松すえまつくんも良いお話が聞けたらいいね!」

「あ、お、おう……そうだな」


「それじゃまた来週! ばいばい!」


 ぐっと親指を突き立てた彼女は、はにかんだ優しい笑顔と共に俺に手を振ってくれると、その場から足早に去っていく。


 成る程、別れ際の挨拶など「んじゃまた」「おう」程度の味気ないものしかしたことがなかったので、可愛い女の子に言われるとこうも気分が宜しいものなのかと、少し気分が高揚した。


 とはいえ……そんな笑顔を貰っておいて悪いが、俺は今から君の友人に立ち向かう為の聖剣を手にすることになっている。


 ……あの笑顔も、感触ももう二度と味わうことは出来ないのだろう――一抹の寂しさを覚えつつ意を決すると、扉をノックをして部室内へと入った。


「ああ、季松すえまつくんご苦労様だったね。無事夏目さんと二人で『依頼』を完遂してくれたようで何よりだよ」

「いや……別に掃除をするだけでしたし、そこまで大変では」


「ま……根底はそこではないのだけどね」

「?」


「まあそれはいいとして、念の為再度確認させて貰うけど要件は石榮雪織いしえせおりさんのことで間違いはなかったかな?」

「は、はい、そうです……」


 石榮いしえさんの名前を聞いて思わず背筋が伸びる。い、いよいよ秘密が明らかに……どうして彼女は俺を睨み続けるのか、そしてその対抗策が……。


 い、一体どんな事実を突きつけられるというのか……だが例えどんな理由であろうとも、俺は学生生活を守らねばならないのだ。


 悪いのは百も承知……! ならばそれを粛々と受け入れ、彼女と闘うのみ! それだけだ!


 さあ! かかってくるがいい!


「うむ――そうだね、特に気にする必要はないよ」


「……はい?」


 拳を握りしめ、気合を入れて傾聴する態勢に入ってたというのに、秋ヶ島先輩から放たれたその一言に、俺は間抜けな声を出してしまう。


「き、気にする必要はないって……で、ですけど、俺、石榮いしえさんにほぼ毎日のように睨まれているんですよ?」

「うん、そうだね」


「しかも最近は笑みを浮かべながら睨んでくるんですよ!?」

「それも問題はないよ」


「え、は……? つ、つまり俺は……これからも彼女に睨まれ続けられる生活を送りなさいと……そう言っているんですか?」

「さっきからそう言っているじゃないか、特に異常はなし、経過観察さ」


 そんな医者みたいな……いやこれではヤブもいい所だ。


 あまりにも予想だにしない結論に、視界がゆっくりと揺らぎ始める。


 な、何ということだ……。あれだけ全知全能感を醸し出していた秋ヶ島先輩が途端に胡散臭いペテン師にしか見えてこない。何故俺はあんな無駄な時間を……。


「さて、茫然自失としている所悪いが、一応『依頼』に関しては他言無用ということにしているものでね。手間をかけるが念書を取らせて貰って構わないかな」

「あ、はい……わかりました……」


 一切成果が得られなかった事実と、どっと押し寄せた疲労感に俺は話をまともに聞いていられず、ただ言われるがまま念書へとサインする。


 何ならこの割りに合わない結果を何とか埋めようと、記憶が薄れる前に夏目さんのあの感触を思い出していたぐらいであった。



 あ……そういえば、夏目さんの好きな人って誰だったんだろう。

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