第6話 石榮さんの新たな境地

「……ん? どうした正人まさと今日はやけに早いご登校だな」


 翌日、まだ教室内は片手で数えられる程度の生徒しかいない時間帯。


 俺は誰よりも早く教室に辿り着くと、席に着き、背筋をぐっと伸ばしてからその場から微動だにせず穏やかな風景を目に焼き付けていた。


 伊藤の声が聞こえてきたが、俺は無視をしただじっと前を見据える。


「……何やってんだお前?」

「この教室が調教部屋に変わる前に、記憶に留めておこうと思ってな」


「はぁ?」


 伊藤が馬鹿なのかこいつはという声をあげるが、1年も付き合いがあれば色々と気づくものなのか、小さく息を吐き前の席に座ると突如俺の顔面をアイアンクローするのだった。


「やめろ! 何をする! お前にそんなことをされても何も嬉しくないぞ!」

「豚になる決意を固めるのは結構だが、諦めるのは早いんじゃないのか」


「うるせえ、もう終わったんだよ! 俺は残りの学生生活、女子に侮蔑の眼差しで心身を刺され続け、罵声を名瀑の如く浴び続けるんだよ!」

「そりゃ素晴らしいご褒美だことで」


 鬱陶しいアイアンクローを振り解いて俺はそう答えるが、伊藤はまるで他人事のような、寧ろ呆れ返った表情で返してくる。


「キューバ危機は去ったと思っていたが、まさか何かあったのか?」

石榮いしえさんを泣かした」


「第三次世界大戦じゃねえか」


 ああそうさ、ハンガリー帝国の皇太子夫妻が黒い手によって暗殺され第一次世界大戦が勃発したように、俺が石榮いしえさんを泣かしたことが核戦争の引き金となったのだ。


「いや、待ってくれ。何がどうなったら石榮いしえさんに泣かれるんだ? まさか睨まれ続けるのに耐えきれず啖呵でも切ったのか?」

「俺がそんな奴に見えると思うか」


「ゴキブリに頭を下げてお引取りを請うような奴だしな」

「今その話はいいだろ」


 小さい頃は嬉々として虫を捕まえていたのにどうして大人になるにつれて無理になるのか。あのフォルムが防衛本能でも掻き立てるのだろうか。


「なんて言えばいいのか……そうだな、端的に説明すると下校途中に石榮(いしえ)さんに至近距離で偶然会ってしまったんだ、そしたら泣かれた」

「そんな悲しい出来事がこの世に存在するのか」


「ほら、たまにいるだろ? 意図せず男の手が触れただけでショックで泣き出す女子、恐らく感覚的にはそれに近いんじゃないのか」

「つまりお前が石榮いしえさんの絶対守護領域に入ってしまって、意図せず息を吸ってしまったから泣かれてしまったと」


「それ以外に説明がつかんだろう」

「よく平静でいられるなお前……ガンジーぶち切れ案件じゃねえか」


 とはいえ、そんな状態でも俺はポケットの中で眠っている御守りを返さなければいけないというミッションを控えてしまっている。


 万が一季松すえまつ石榮いしえさんの机を漁っていたなんて話に歪曲したら、きっと俺は女子に呼び出されてボコにされることは必至。


「あ、せおりんおはよ~」


 などと、これから始まる嘆きの連鎖に向け気を揉んでいると、黒板側の入口付近で女子生徒と談笑をしていた夏目さんが、入ってきたクラスメイトに対して軽快な挨拶をする。


「おい、正人……」

「ああ……来たな」


 夏目さんを皮切りに、他のクラスメイトも一斉に彼女に挨拶をする、まるで極道の妻を彷彿とさせる怒涛の挨拶ラッシュは最早見慣れた光景である。


 その挨拶の輪を抜けて現れたのは勿論石榮いしえさん。


「おはようゆかっち、みんなもおはよう」


 石榮いしえさんの顔を目の当たりにした瞬間、一気に緊張が走る。


 ……表情に曇りは見受けられず、いつものように俺以外には女神の如く振りまかれる笑顔を見て、俺は他人の御守りを思わず握りしめた。


「…………」


 さて、どう出てくる……? ついに睨みを止めて視線すら合わさなくなるか? それとも仲間を引き連れて俺に罵声の大合唱でも聞かせてくれるのか……?


 ふっ……だがいつでも来るがいいさ! 覚悟は出来て――――!?


「…………な、何だあれは……」

「へ? 何を言って――――おおぅ……」


 思わず上げてしまった怯んだ声に、疑問を呈した伊藤も石榮いしえさんの方を見るが、彼もまた如何ともし難い声を上げる。


 無理もない、何故なら彼女は笑みを浮かべて俺を睨んでいたのだから。


「ど、どう解釈したらいい……何というかこう……気味悪さが増していないか……?」

「例えるなら……SMプレイ中の女王様だなこれは」

「やっぱり調教じゃないか」


 だが伊藤の表現は言い得て妙だ、というかもうそれにしか見えない。


 ただもっと酷い事態を覚悟していただけに、少し肩透かしを喰らった部分はあるが、あれはあれで謎の凄みがある。


 何ならあの制服の下にはプレイ用のコスプレが装着されているのかもしれない、その鞄の中には一体何が入っているんですかね……。


 心なしか隣にいる夏目さんも唖然としているように見える。それもそうだろう、睨むだけならまだしもそこに笑みが加わるなど猟奇的でしかない。


 結局、石榮いしえさんの微笑み睨みという新たな境地に面を喰らってしまったせいで、御守りを返すどころの話ではなくなってしまったのだった。


       ◯


「さて……これからどうしたものか」


 放課後。


 今日は予定がないと伊藤と、昨日とは違ういつもの下校ルートで帰っていると、ついそんな言葉を漏らしてしまう。


「あー? 別にそこまで深刻に考える必要もないんじゃないのか?」


 伊藤は今朝ほど石榮いしえさんの話題に興味が無いのか、流行りの召喚系ロールプレイングゲームのピックアップガチャを回すかどうかを悩みながら生返事をしてくる。


「いや深刻だろ、あんな狂気の表情を四六時中向けられている俺の身にもなってみろ」

「…………嬉しい?」


「間違ってないけども」


 だとしてもホームルームから授業中、昼休みも、果ては帰る寸前まであの微笑み睨みを受け続けていたら流石に気が狂いそうである。


「でもよ、別に何かされるって話でもなかったじゃないか、お前に向ける表情に多少の変化があっただけでそれ以外はいつもと一緒だったし」

「多少ではないだろ……」


第一石榮いしえさんを泣かせたと聞いたから、俺はもっと洒落にならない事態になると思ってたぜ、取り敢えずお前と距離を置こうと思うくらいには」

「友情って儚い」


 しかし伊藤の言うことは尤もだ。俺だって不慮の事故とはいえ石榮いしえさんを泣かせてしまったのだからそれ相応の報いを受けると思っていた――なのに実際は何も起こらず。


 表情こそ大きく変われど、それ以外は至って普通……一安心ではあるのだが何だか妙にモヤっとした感情が滞留してしまっていた。


 それにしても……どうして石榮いしえさんはあの公園にいたのだろうか……。


「まあそれは冗談にしても――確かに今回の件は最悪の結果とはならなかったが、悪く言えば現状から何も変化せず、とも解釈は出来る」


 お前としては石榮いしえさんに嫌われている状況を改善したい訳だしな――とボヤいた所で伊藤が「あ」と声を漏らした。


「? どうした?」

「いや、情報屋の話なんだが。あの時石榮いしえさんが急接近してきたせいで有耶無耶になっちまったったが、誰だったか思い出したんだよ」


「お、本当か! 誰なのか教えてくれよ」

「うーん……」


「おいおい、情報を手に出来るかもしれないんだろ? 勿体ぶるなよ」


 現状維持とは言っても、いつ石榮さんが権力を振りかざして俺を排除しにかかるか分かったものではないのだ、手に入れられるのであれば早いに越したことはない。


 もしかしたらあの笑みは『お前を滅却する準備は着々と進んでいるぞ』というメッセージかもしれないのだし……ならば急ぐに越したことはないというもの。


「いや……別に教えないってことじゃないんだ、ただオススメ出来ないというか」

「オススメ出来ない?」


 言葉を濁す伊藤に意味が分からず、そのまま返してしまう。何だそれ、臓器を売らなきゃ情報提供して貰えないってか?


 流石にそれは勘弁してくれと、勝手に思いながら返答を待っていると、苦い顔を浮かべていた伊藤が、「まあ、決めるのは正人まさとだしいいか」とこぼすと、こう言うのだった。



「名前は秋ヶ島あきがしま凪零なお。マスコミュニケーション部所属の超嫌われ者の変人だ」

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