episode23 グリーゼヒューゲル丘陵の戦い

潜在する悪

 兵糧は、どう工面しようと足りない。


 全焼した荷駄は五百を超え、糧食は九割が焼失した。鉄の武器なら焼けずに残るが、消し炭のようになったものは食糧、武器、装具のどれをとっても使い物になりそうにない。輸送している水のすべてを消火に使わず放置したのもあるが、あまりにも炎が強かったのだ。陣営の周辺を除く平原の各所の火は放ったままにした。野に回った炎はザラの夜空を赤く照らし、朝になってようやく収まりつつあった。


 ここまでの勢いで火が回ったということは、荷駄にあらかじめ油の類が仕込まれてあったということでもある。軍の中でそれをやった者がいるということで、かつてドロゼルがやったあぶり出しが十分でなかったのも判った。戦闘のあと、五十名近い兵士の行方が分からなくなっている。ギルベルトにとっては荷駄が燃えたことよりも、そちらのほうが許しがたいことだった。


「陣を払う」


 ファルクは地図の前でそれだけを言った。天幕もない朝の空の下である。即断即決が信条の男らしく、またギルベルトら他の幕僚たちも異を唱えることはない。あとはどこまで軍を後退させるのか、それだけを考える必要があった。ギルベルトがまず提案したのは、マルバルク城に拠点を置くことである。エベネとザラニアという、この近辺では最も大きな集落で略奪されたものが城内に残っていると考えたからだ。しかしそれは即座に却下された。


「昨夜、偵察隊が城内を検分している。敵兵の姿はなかったが、備蓄されているものもすべてなかった」


「ばかな」


「勝手に眠りこけておいて、よく言う」


 周囲の男たちが薄く笑みを浮かべている。ギルベルトは言われてはじめて、ファルクの目が普段より赤いことに気付いた。レーヴェンやルッツなどの隊長たちも、だいたいはそうだ。


「くそっ、おぬしら、俺を差し置いて酒盛りでもしておったな。道理で灯りが消えんわけだ」


「阿呆が」


 ファルクが言うと、隊長らはいよいよ声を上げて笑った。湿ったような幕内の空気がそれでやや変わった。


「それで連中が、すべて持っていったと?」


「城内は煤と灰にまみれておったらしい」


 ここでも火か、と隊長の一人が呻いた。一同の表情が硬いものに戻る。火と風の化身、赤の竜を神と祀る国だけあって、敵軍はやたらと火を使いたがる。そうやって人なり、物なりを燃やすことが正しいとでも思っているようだった。


 こうなれば、周辺の集落であてになりそうなところはなく、さらに遠くまで退却するしかない。果たしてファルクが指さしたのは、ザラ平原の南東、山を一つ越えた先であった。


「ブルクレズムというごく小さな集落がある」


「ここからは少し遠いのですが」


 ファルクの言葉の先を継いだのは、黒髪の騎士アルサス・シュヴァルツだった。


「西に山、南には森があって、戦火は逃れているでしょう」


「つまり、兵糧の補給を望めそうだと?」


 ギルベルトが言うと、アルサスは表情を硬くした。何かを言おうとしているが、うまく言葉が出ないようだった。先を促すと、彼はわずかに考えるそぶりを見せ、また地図を指さす。


「兵糧は、ハイデル軍が工面します。すぐにというわけには参りませんが、近隣の集落にも協力を要請します。軍令とすれば、たいていの街は答えます。ブルクレズムには疑念がありまして、これはハイデルの我らのみが思っているのですが」


 おや、とギルベルトはアルサスの横顔を見た。いつか彼が敗戦について語っていた、あのときの表情と同じである。ファルクもアルサスが語るのを待つように目を閉じている。


「ベイル殿をあのとき挟撃した者たちの行方が分かっておりません。ここに潜んでいるのでは、と。彼らが戦前に集合場所としたのがここでありました。また、此度の火を放った者どもも、杳として行方知れず」


「そのふたつを、いきなり結びつけるのは性急に過ぎる」


 ファルクが目を閉じたまま呟く。


「しかし、まったくない、というわけでもない」


「そうなれば、われらの城――“青の壁ブラウ・ヴァント”の内と、敗残兵とやらが通じていたということですぞ」


 鷹揚に話を聞いていた大隊長オフィツィアルッツ・ヒルシュの顔色が変わった。


「しかもその敗残兵は、南の沿岸部やら、この近辺やら、各所から糾合された者らであったそうではないか。それは」


「叛乱の芽は各所にある」


 ファルクが目を開けた。視線は地図に注がれている。


「ポルト、ゼルロー、エアフルト、マルバルク」


 白い指が、国土の南端から北上するように地図を辿る。


「いずれも天然の要害にある駐屯地である。ポルトとマルバルクは言わずもがな、ゼルローは川、エアフルトは谷がそれぞれ敵を阻む。だからこそ青竜軍アルメは拠点を設けた」


 ザラ川から分岐する川はポルトの海に流れ出る。それに沿うようにしてあった軍の拠点は、いずれも海や山の加護を受けることになる。つまり青い竜の加護が得られると信じられている場所だ。


「だがそのいずれもが、三日以内にとされた。あちらがいかに精強で、こちらがいかに脆弱な軍であろうと信じがたい速度だった。私はすべてに内通者か、それに近い者の働きがあったのではないかと考えている」


 ギルベルトは、ふと半年前の暗殺未遂事件を思い出した。ハンス・ヴルストが死に、ファルクが深手を負ったあのとき。そういえばあの夜も、要人が城に集まるというので、警護は厳重にしていたはずだ。それをするりと抜け、赤い眼の男たちが現れた。あれも、内側からの手引きがあったということなら得心がいく。


 南の端から北はこの平原まで。東は海から川を遡って、およそ国土の半分。


 おい、と誰かが言った。思わず出たような声だったが、誰もが卓上の地図を見つめていて、それには答えない。ギルベルトも、背中にいやな汗がじわりと浮かぶのを感じた。地図の南半分がうっすらと赤く見える気さえする。この国はいつからこうなったのか。自分たちが南の壁で敵国を向かい合っている間に、内側で何が起こっていたというのだ。


「ベイル殿が案じておられたのも、まさに同様のこと」


 アルサスが再び話し始める。


「今後また、どこに向かおうとも、同じように何者かの手が伸びてくる。われらはそのように考えております」


「それでおぬしは、この小さな村に、その反乱の芽がひとつあると」


「人目に付きにくいというのが」


「ここからは?」


「道さえ分かっていれば一日で。つまり、この辺りをよく知っている者なら」


「民草か、あるいは軍人か。いずれにしても放ってはおけぬな」


「畏れながら申し上げますが、このあとの戦を考えるなら、早くに手を打ったほうがよいかと」


 それは、北上を続ける敵を放逐するということになる。敵はブラウブルクに、目と鼻の先と言えるところまで迫っている。これ以上間を開けられては、敵が都に到達することは間違いない。


 しかしどちらにしても、ここに留まる手はない。ファルクの視線は地図の上を目まぐるしく動く。そして、ふと顔を上げた。


「曇天だ」


 その場にいるものが皆、空を見上げる。朝の日差しが弱い。煙がそうしているわけではなさそうだった。雲の動きは速いように見えるが、青い空は見えてこない。


「北の敵軍はいま、リューデスハイムまで迫っている」


 誰もが、北の空を見つめた。リューデスハイム穀倉地帯までは、ここから馬で、全速でけても六日ほどかかる。まさか、これを追うとは言うまい。皆が次の言葉を待った。


「ブラウブルクから兵が出ているが、これはおそらくグリーゼヒューゲル丘陵で敵軍と相見える。これが即座に敗れるようなことになれば、もはや都は敵の手にちる。いま兵糧を失ったわれらに、これを追う力はない」


 しかし、とまたファルクは天を見上げた。動きの速い曇天。


「これは吉兆と見る。“火の季節ブレンネ”の終わりが近い」


「なるほど」


 他の者がファルクの言ったことを理解するよりも先に、口を挟んだのはレーヴェン・ムートだった。戸惑っている様子がないのは、ギルベルトの見る限りこの男だけである。いまや軍人でもない男が、とギルベルトは思わず口の端を吊り上げた。


フリカーンが来ますな」


風の季節フォーレ”の前触れ、山を荒らし海を濁らせる大風。一年のうち、“火の季節ブレンネ”の暮れにやってくる赤い竜の風である。その勢いはすさまじく、半端な家屋など煽られれば屋根を飛ばされるほどだ。“青の壁ブラウ・ヴァント”のような城であっても、麻の目張りや土嚢でもって備えねば被害を受ける。


「嵐の中では、いかに強行軍に慣れていようとも、留まらざるを得まい。進軍はここで一度止まる」


「ほんとうに来るのか、レーヴェン?」


「まあ、間違いない。私の副官は猟師をやっていた。確かめてもいいが、ファルク殿」


「よい。おそらく二日後には大雨と大風がこの地を荒らす。遅れて数日後には、グリーゼヒューゲルにも同じことが起きよう。重要なことは、その備えを敵軍ができるかどうかだ」


「難しいでしょうなあ」


 ルッツが大仰に息を吐く。


「われらは砂漠に雨が降るとどうなるか、皆目見当もつきませぬ。それと同じことが、南方人ズートにも言えましょう。雨風を凌ぐ城などもない。近隣の村などを占拠するなら分かりませんが」


 それに比して、青竜軍アルメの者なら少なからず、フリカーンを知っている。


「おそらく戦の最中さなかに、嵐がグリーゼヒューゲルを襲う。戦闘は一時的に休止される。われらはハイデルまで退がって補給を迅速に行い、北上を再開する。二十日を目処としたいが、いかがか。小隊長カピタンアルサス」


「全力をあげて」


 まだ戦の帰趨は決まらぬ。そう思ったのはギルベルトだけではないはずだ。天候という人の力の及ばぬところで、まだこの軍は見放されずにいる。


青竜リントブラウはまだこの国を見捨てられてはおらぬな。神には従わぬと言った指揮官にお咎めはないようだ」


 ギルベルトが言うと、レーヴェンが地図を見たまま口角を上げる。ルッツは咳払いで応え、その他の隊長らは眉をひそめた。ファルクはそのすべてを無視し、グリーゼヒューゲルを指す。


「隊を二分する。ひとつはブルクレズムの村を探索する隊。これは少数。いまひとつはハイデルまで戻り補給を迅速に行う。これが本隊である」


「さすがに、私は本隊とともにハイデルに戻らねばなりません。本当は、ブルクレズムに向かいたいのですが」


 アルサスは口惜しそうに言う。上官の仇を取りたいのかもしれない、とギルベルトは思った。


「ならば、われらもハイデルに参る」


 レーヴェンが言い、アルサスが頷いた。


「山間の領は、私の息子が治めています。些細ではありますが、力になれることもありましょう」


 ギルベルトはファルクの視線を感じ、地図から顔を上げる。


「ギルベルト」


「はい」


「おぬしの隊がブルクレズムに向かえ」


 言われて、ギルベルトはすぐに首肯した。


小隊長カピタンアルサスの考え、否定しきれぬ。ここには何かある、と私も思う。ただその何かが、どれだけの規模か読めぬ。おぬしの隊ならどうにでもできよう」


「もう少し言い方があるでしょう、指揮官コマンダント


「万事任せた、と言ったつもりだ」


「それならそう言ってください」


 隣でレーヴェンが吹き出し、ギルベルトはその脇を肘で突いた。


此度こたびの失策について、全ての責任は私にある」


 ぽつりとファルクが言った。先刻までの淡々とした調子から一変し、皆が彼に注目する。


「輜重隊の警備を甘く見積もったのは、指揮官である私だ。いかなることがあっても、糧食だけは失ってはならなかった。警備隊を徒に死なせることになったのも、私の過失である。兵糧は戻らぬが、おぬしらの信には応えたい」


 ファルクはふと佇まいを直し、アルサスとレーヴェンに向き直った。左胸の青竜の紋章に手を当て、目を伏せる。


「ハイデル軍、またムート領の援助を受けられること、指揮官コマンダントとして礼を申し上げる。この恩には戦の勝利をもって、必ず報いる」


 これにはギルベルトも、あるいは他の大隊長たちもすぐに続いた。初めて見るようなファルクの姿に、皆が戸惑っている。言葉を向けられたアルサスや、あるいはレーヴェンも同様だろう。ギルベルトには、それが手に取るようにわかった。


 ファルク・メルケルという男について、ほとんどの者が思い違いをしていることがひとつある。


 苛烈な性格と物言い。それに違わぬ冴え。兵法については他の追随を許さず、人を見る慧眼をすら備えている。何度か話すうちに、この男は完全無欠であると、いつの間にか誰もが自らに刷り込むようになる。


 輜重隊の守りにしても、決して甘かったわけではない。


 物資の確保がどれだけ戦を左右するか、この男が知らぬはずがない。だから街道に近く、かつ雑木が目隠しになるような場所に部隊を隠したのだ。警備隊も十分な数をつけていた。負傷兵が含まれてはいたが、しかし三百名余は揃えていたのだ。それが崩れた。配置が甘かったからではない。人を割かなかったわけでもない。思わぬ毒が軍内に撒かれていたからだ。ここまでのことが起こって、誰も指揮官を責めはしない。


 ただ、そうできないのが、他ならぬファルク自身なのである。如何なる天才でも、まだ齢三十。怜悧なだけなら、自分はここまでついてきてはいない。


 アルサスとレーヴェンが敬礼で応える。顔を上げたファルクの表情は元のものに戻っていた。


「すぐさま撤収にかかれ。赤い竜の背を追うぞ」


 隊長らが散開し、ギルベルトも自分の隊に戻ろうとした。


「ギルベルト」


 ファルクがこちらを見つめている。他の隊長らの姿が見えなくなってから呼び止められたようだった。


「ブルクレズムのことだが」


 ふと視線を外し、ファルクは東の方を見遣った。もう陽は高く、陽射しが原野を照らし始めている。


「人目につかぬ森の集落だという」


「はい」


 彼の言葉が途切れ、ギルベルトは黙って続きを待った。ファルクがこういう話し方をするときは、何が言いたいのかを察しろというときだと決まっている。


屍体したいばかりだな、この焼け野原は。旗などもそこらに残っている。目障りな赤い旗だ」


 ギルベルトは彼の視線の先を追った。見えるのは焼け焦げた草地と、言われたとおりに散乱している屍体したいである。旗は見えない。


麾下きかだけを連れて行け。やり方は任せる」


 話はそれで終わりだった。ファルクは視線を地図に落とし、もう顔を上げることはない。しかしギルベルトの頭の中では、おおよその絵図が描かれはじめていた。それは思い描いたことを自嘲したくなるような、えげつない考えである。思わず、唇の片端を吊り上げた。


 先刻まで人に感謝など伝えていたのと同じ男が考えることか、これが。


 指揮官コマンダントファルク・メルケル。怜悧なだけなら、自分はここまでついてきてはいない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る