半死人

 内地でしか生活していなかったヤンにとって、船といえば川を行き来する小さなものを指す。


 窓からいま見えているのは、それとはまったく別の何かだと思った。軍艦というもの。はじめは、家屋か何かが浮いているとさえ思えた。船から港に掛けられた跳ね橋のようなものを通って、人も荷も頻繁に出入りする。出てくるものも入っていくものも、まだあるのかというほど多い。海の戦では、海上に一月ひとつき以上留まることもあるとは聞いていた。どうやって、と思っていたが、これだけの人間と物資が積み込めるなら、それも得心がいった。


 小舟の数も多い。船の先端や後尾に、また見たこともない器具が取り付けられている。あれが海の兵器なのだろうと思った。その兵器を、何十という数の男たちが見回り、外したり取り付けたりしている。船に武装を着脱させるというのも、驚くべきことだった。


 外から視線を移し、寝台に目を向けた。


 ひとりの男がうつろな顔で腰かけている。たったいま目が覚めたこの男は、三日ほどこの寝台の上で眠り続けていたらしい。このロヒドゥームにヤンが運び込み、周囲の探索に出て、戻ってきても、まだ眠っていた。死んだと何度も思ったが、いつもかすかな呼吸はあるのだった。


「水を」


 男が、どこから出たのかわからないような枯れた声を出した。


「水は、医者が流し込んでいたぞ。一度に飲むと死ぬというので、少しずつな」


 それを聞いて、男は喉の辺りに手をやった。腕を上げるだけでも痛むのか、うごきはひどく緩慢である。小壜ビンに入った水を与えると、それを飲み込もうとして、噴き出した。自分がそうしたことに驚いているような顔をしている。そうしてまた口をつける。今度は少しだけ口に含み、ゆっくりと飲み込む。何度か繰り返してようやく小壜ビンを空にすると、呆然と床に視線を落としていた。


「おぬしは?」


「ヤン・クラー」


「軍人か」


「そう見えるか?」


 問答をしていても、男の眼は動かなかった。


からだが動かぬ」


「生きているだけましだと思ったほうがいい」


「水を飲むと死ぬ、と言ったか?」


「どうしたって死んでいた。おぬしは死んで、動いていたのだよ、レオン・ムート」


 ヤンが名を呼ぶと、レオンは初めて顔を上げた。


「俺の名を」


小隊長カピタンソラスが言っていたぞ。死んだら死んだで、早く海に沈めろと。そうならなかったのは、おぬしの運だな。青竜がおぬしを闇から引き戻した」


「妹は」


 言われてヤンは、床を指さした。そこで銀の髪の少女が寝息を立てていた。レオンははじめて気付いたような表情をして、立ち上がろうとした。しかし脚が動かないのか、寝台に倒れ込む。


「寝ずの看病と言っても、二日が限度のようだ。とくに、こんな娘では」


「生きている。妹も、俺も」


 仰向けに倒れたレオンの目尻から、涙が零れた。


「生きていた。生きていた」


 ヤンはそれを眺めながら、目の前の男が潜り抜けた死線のことを考えた。


 すべての武器の道があのリントアウゲンの街を経由しているのだから、まず調べるべくは青竜軍アルメの施設だったのだ。しかし、それがなかった。到着してから二日間、僅かな痕跡でもないものかと捜し尽くしたが、あるのは馬留めに使われているような無人の小屋くらいで、巡回の兵の姿もない。それだけ街なら他にいくらでもあるが、街の規模や位置、流通している物の多さから考えて、ここまで軍の手が伸びていないというのは通常ありえないことだった。


 当てが外れてからは、民の商いについて調べることにした。陸と海の物売りが合流する点になっているというのが、この町を栄えさせているようだった。不自然ではあるが軍の駐屯地になっていないことは、商人からすれば都合がいいようだ。監視や税の縛りから逃れた売り買いがなされているという話は、いくらでもけた。通過するものの種類や産地も多様で、ヤンも聞いたことのある南方の街から物を仕入れてきたという男もいた。ここを経由すればどんなものでも隠密のうちに運べそうだというのは、ヤンにも容易に想像がついた。


 ただ、そこまでさまざまな話が聞けたのにも関わらず、皆が一様に口を閉ざすのが、白い山の頂にある集落だった。聞けば、そこだけは軍の異常なほど厳しい監視に囲まれているのだという。そこには青竜軍アルメの機密があって、探れば死神に命を取られる、などという与太噺くらいしか聞けず、他にまともな話もない。なければ探るのが自分たちの仕事である。それにヤンも軍人ではあるのだから、それほど接触には困るまい、と考えた。


 しかしその機密とやらを護る軍人たちが普通ではなかった。互いに顔を見知った、限られた人数で山道を警邏している。交替は一日おきに行われ、そのたびに街の外から軍人が出入りする。兵士は例の小屋で寝食を済ませ、すぐに街を出る。戻る先は、おそらくロヒドゥームだった。


 駐屯はしないが、常に目を行き届かせる必要がある何か。ヤンにはそれが何か予想もつかない。それで、本気で探ってみようという気になったのだ。


 部下とともに、山道以外から登る道を考えた。ほとんど崖をい上るような道だったが、あった。短い剣と特別に加工した弓矢だけを持って登った。その先の集落で見たのが、髪も瞳も白銀の人間たちだったのだ。


 彼らを見たとき、ここに紛れ込むのは難しい、とヤンは思った。自分たちの身につけてきた技では及ばないところで、同族かどうかを見破られそうだと思ったのだ。血の違うところに溶け込むのは、いかに自分や部下たちでも秘密裏にはできない。


 ただ幸運なことに、山中に潜伏して丸一日が経ったころ、彼らの中でにわかに騒ぎがあった。自分たちではない何者かかが集落に侵入したか何かで、武装した白髪の男たちが山中を駆け回り出したのだ。ヤンは、彼らの動きを追った。追った先にあったのが、あの洞穴である。洞穴の中には、生死を超えた闘いを繰り広げる男たちがいた。


 ドロゼルなら、これほど迂闊うかつには関わらなかっただろう。しかしヤンは、誘い込まれるように踏み入ってしまった。そこで男たちが守ろうとしていた青い瞳の少女を見たからだ。


 銀の髪に、青い瞳の少女である。実在した。司祭ダコンシュローヴのはなしは真実だった。この少女が獣の王を封じる鍵だという。


 その少女に一匹の黒い獣が対峙していた。ヤンは気づけば、その獣に矢を放っていた。狭い場所でもつかえるように加工した弓と矢である。部隊の全員が持っていて、威力は低いが、撹乱かくらんには高い効果を発揮する。つまり、人であれ獣であれ、それだけで相手をたおすほどの威力はないのだ。しかし、何かをせねばという気持ちになった。


 ヤンが最初に放った矢は、寸でのところでかわされた。それが、ヤンをさらに驚愕させた。ただの獣ができることではない。獣でも人でもない何か。ヤンは躊躇ためらわず指笛をつかった。ついてきていた部下が、物陰から次々に矢を放つ。少女から獣が距離を開ける。そうしているうちに、少女は何を思ったか岩を登っていった。


 矢が尽きたとき、ヤンはもう岩に向かって駆け出していた。そこで、黒髪と白髪の男が戦っていたのだ。全身が血に塗れていた。人ではない何かが互いに命を削り合っている。ヤンにはそう見えた。最後は手を出さずにはいられなかった。


 怪物のことはソラスから簡単なことを聞いた。ロヒドゥームの小隊長カピタンであるという、あの白銀の剣士。レオンを捨て置こうという周囲の意見から彼を逃がすように、ここロヒドゥームまで彼を運び込んだ。その意図は知らない。レオンとの関係がいいとは言えそうもなかったが、娘のことを気にかけての行動だったようだ。


半死人ハブ・トーテンだな」


 言うと、レオンはまたゆっくりとした動作で寝台から起き上がる。ようやく眼の焦点が定まったように見える。


「こういう仕事をしていると、稀に見るのだ。普通の人間なら死んでいるはずのところで死なず、戦い続けたり、駆け続けたりする者がな。死んでいるのに、生きている。生きているのに、死んでいる。だから半死人ハブ・トーテンだ」


 ヤンがそれを見たのは、ブラウブルクでの、あの争闘のときだった。教皇以下の聖職者を護ろうとした、あの鎮火祭ブレンスティークの夜。敵の一人が、死んだと思ったところからまだ、自分たちに向かってきたのだ。敵は、必死だった。自分たちも必死だったが、敵の執着はそれを越えていた。ドロゼルはその兵に脚を刺されたのだ。彼が負傷するのを見るのははじめてだった。それの首に剣を突き立てたとき、ドロゼルが呟いたのが半死人ハブ・トーテンという言葉だった。


「俺がそうだったと?」


「あのときはな」


 青く燃える、黒い怪物。同じく炎に巻かれながら、その首を締め続けた男。獣は小隊長カピタンソラスが心の臓を貫いたときに絶命していたのだろうが、この男はそれもまったく理解していなかっただろう。あのまま獣をくびり、自分が殺したとわかっていたら、この男は死んでいた。死よりも強い生への執着が、人に生死の境を超えさせる。ただし動き続けた先に待っているのは、死でしかない。だからヤンは、レオンが獣を締め続けているうちに昏倒させたのだ。それが、三日前のことである。


 死の境から戻って来られるかどうかは、本人の持っているもの次第である。このレオンという男は戻ってきた。それだけで、この男が常人ただびとではないことがヤンにも分かった。


「よくわからぬ」


「死に踏み込んでいる自覚があれば、そのときに死んでいる」


くらい河に飛び込んだのです。それからは、よく憶えていない」


 それが、死に踏み込んだ者が見る光景なのだろう、とヤンは思った。無論、自分には理解できないことである。理解したいとも思わなかった。


「おぬし、あの髪の白い連中と何があった」


 レオンはその問いかけに思案する様子を見せ、ヤンを見つめ返した。


「ヤン殿は何を知っているのです」


 思わぬ返答に、ヤンは内心舌を巻いた。先に問いかけたのはこちらだが、探らせまいという意図がはっきりと分かる。死の淵にからだを投げだしたところから舞い戻り、覚醒してからもわずかしか経っていないというのに、ずいぶんと頭の切れる男らしい。それともただ、こういうやり取りをする男なのか。


「ここがどこか解っているか?」


「いや」


「ロヒドゥームだ。海の狼、ヴォルフラム・スタークの城。軍人でもないおぬしとその娘が入れたのは、なぜかな」


「ソラスは」


「すでにリントアウゲンに戻っている。あの男もまた、怪物だな」


 死に踏み込むところまで行っていなかったとはいえ、ソラスの傷も生半可ではなかった。それが二日でまた馬に乗り、けていったのだ。その背を見ながら、あの白髪の民族は、誰もがああなのだろうかとヤンは呆れ果てた。


「重要なのは、娘だけのようではないか。おぬしのことなど、どうでもいいとさえ思っている」


 レオンは再び顔を俯ける。ヤンの言葉に衝撃を受けたのではなく、何かを考え込んでいるような様子だった。


 実際ソラスは、この男が死のうが死ぬまいが、最後はどちらでもいいという態度を見せていた。ヤンも、少女に手を出すな、としか言われておらず、レオンについてはなんの言葉も受けていない。いま、この居室の外には衛兵が立っていて、昼夜問わず哨戒をしているが、それは少女を護るための兵だった。


白の民ズィルヴァイスとこの城との間に何があるのか、俺は知らないのですよ」


「知らないことが罪になることもある。あそこの警護がどうなっていたか、思い出せ」


「おぬしは」


「逃げる手段ならいくらでもある。だが、おぬしは違う」


 あの山にいた銀の髪の人間たちが何者か、ヤンはよく知らない。しかし軍の隠そうとしているものを暴いた先に、彼らがいた。知ればただで済むとも思えない。ただ、自分には任務があった。ほんとうのところは、ここから逃げるわけにいかない。武器の道が次にどこへ繋がっているのか、手がかりは間違いなくこの城と、あの山にある。


 そして、青い瞳の少女。ここで拉致らちすることは容易だが、あの小隊長カピタンとこの男を敵に回すのは容易ではなさそうだった。なにしろ二人揃って尋常ではない。


「俺に、何を求めているのです」


「おぬしといれば、あの民族との接点ができる。われら潜入は得手としているが、あの民族に取り入るのは難しい。おぬしに探ってもらいたい」


「なにを」


「武器の道が、都ブラウブルクまで通っている。密輸の道だ。そしてその道は、青竜軍アルメを内側からこわそうという者たちに繋がっている。リントアウゲンからな。私の任務は、この道を潰すことだ」


白の民ズィルヴァイスと、その密輸との間に関係がなければ?」


「それでもいい。われらの仕事は可能性を潰すことでもある」


 レオンに動揺は見て取れない。国軍や、叛乱といった話を聞いてなお、落ち着いた様子のこの青年に、ヤンはいっそう興味が湧いてきた。どんなふうに生きていればこうなるのか。まだ、そう歳もとっていないはずだ。


「ソラスでは、いけないのですか」


「あれは同族だ」


「俺は、妹のことを知りたいだけです」


「青い瞳の“竜の子リンクス”か」


 それを告げた瞬間、レオンの眼が驚愕に見開かれた。


「なぜその言葉を」


「それも教えてやろう」


 ヤンは手を差し出す。


「われらにはこの少女の力が必要だ。おぬしも、彼女を守りたい。われらは寡兵だが、少女一人を守ることなら十分できるという自負もある。おぬしは優れた剣士だが、ほかに味方がおらぬ。悪い話ではないと思うが」


 レオンは思案したのは、ごく僅かな間でしかなかった。差し出した手を握り返してくる。


「またあの山に入らねばならぬ、とは思っていました」


「いい判断だな。おぬしの傷が癒えるまで、われらはこの城を探る。私のことは、いないものと思え」


「妹と私の命を救ってくれたことには、礼を言います」


 不意にそう言われ、ヤンは返す言葉を失った。


 そんなことをするつもりなどなかったからだ。人助けなどしている場合ではないし、少女を助けたのは任務のためだ。しかしどうだ。このレオン・ムートや、ソラスの戦いに心を動かされるところが無かったか。獣に襲われる少女が、もし青い瞳でなかったとして、そのまま見捨てることが自分にできたか。


 それらすべてを否定できないことに、ヤンは思わず溜息を吐いた。それからはっきりと自覚した。


 自分は根本のところで、この部隊に向いていない。ドロゼルのようにはなれない。


 ヤンは窓の外を指した。


「おぬしの入城を強く要求した者がいたといたぞ。なんでも、隻腕の兵士らしいが。知り合いか?」


 レオンは妙な顔で首を横に振る。


 その顔もほとんど見ないまま、ヤンは部屋を後にした。戸の隙間から音を立て、次の瞬間には廊下の物陰に姿を隠していた。立哨の兵士も、行き過ぎる兵士たちも誰もヤンの姿を見なかっただろう。そのまま、陰から陰に移動する。


 自分の中の善を捨てられない。手を汚しきれない。闇の軍の副隊長などふさわしいわけがない。いつか農村でドロゼルが言ったことの意味が、今となればはっきりとわかる。あの洞穴で少女だけ攫えばよかったものを、そうしなかった。


 それでも、信じてもいなかった青い瞳の“竜の子リンクス”に出遭ったのは、自分が何も考えずあの洞穴に踏み入ったからだ。銀の髪をした男たちに取り入るきっかけができたのは、レオン・ムートに助太刀したからだ。


 善であろうとする心が、事態を前に進めている。


 それがヤンには不快だった。




(鏡の戦い  了)

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