昏い河の向こう

向かってきた。右の黒い旋風。剣で受け止めた。今度は、止められる。弾き返す。


ソラスも打ち合っていた。しかし、いつかの草叢くさむらで見たあの剣筋とはまったく違っていた。脾腹ひばらと背から血が滲んでいる。グリアンという、あの獣を瞬く間に追い込んでいた速さはない。


足元に牙が迫る。右脚の力だけで跳躍する。いや。できずに、横に跳び退った。手負いが二匹。ソラスだけのことを言っているのではない。気迫を込めて、レオンは息を噴き出した。自分の鼓動が不自然に速くなっている。それを、落ち着けたかった。


赤い眼光がレオンを射抜いてくる。飛び込んでくる機会をうかがっている。しかしそれは、どう剣と打ち合おうか、というのではなく、どう決着をつけようか、というものだ。自分のほうが、間違いなく追い込まれている。矢傷のためばかりではない。心が、追い込まれはじめていた。それは、眼に見えない三匹目のせいである。


来る。牙か、爪か。読もうとしたが、反応するしかなかった。牙。剣の腹で受けた。咬みつかれる。剣身が削られるのではないかと思えるほどの圧力。そこから、奪い取られそうになる。両腕に渾身の力を籠め、レオンは獣ごと剣を振るった。牙の間を剣が走る。


右腕が熱を持っている。思考の外に、三匹目を追いやった。息を止める。切っ先を獣に向け、小さく構えなおす。


獣が離れたところから、すかさず爪がきた。剣先でいなしながら後退する。切っ先と爪が音を鳴らす。五度、受けきった。肺の中の空気を大きく吐く。


視界の端で、ソラスがなおも打ち合っていた。岩場の奥。青白い光に彼の白い顔が照らされる。押されていた。


視線が交わる。お互いの考えていることは、口にせずとも分かった。背をソラスの方に向け、獣に向き直る。横に動く相手に対し、気取られぬように足を後ろに退げていく。その分、相手がじりじりと距離を詰めてくる。赤い眼が見開かれていく。獲物を追い込む、最後の詰め。そういう動きだった。次の跳び込みで仕留めきれる。獣は、そう考えているだろう。こちらが追い込まれるように動いているのだから、当然だった。


切っ先は獣に向ける。震わせる。意識は背中に集中させる。あの剣士はいるか。彼も同じ動きをしているか。信じるしかなかった。あの男は剣士としてなら、自分よりも上なのである。このまま一対一で打ち合い続けても勝てぬことは、レオンが気付くよりも先に、もう解っているはずだ。


手負いが二匹。手負いの者は、それなりの戦い方をせねばならない。レオンは自分に言い聞かせた。ただその手負いは、並の男ではないぞ。


震わせていた剣先の動きを止めた。


黒い塊が跳び込んできた。同時に、レオンの背中が何かに触れた。


ソラスの背。感じ取った瞬間に柄を回転させ、後方に剣を突き出した。肉を突いた感触があった。遅れて、獣の高い声が上がる。レオンの眼前でも同じことが起こっていた。自分の脇の下から飛び出しているのは、ソラスの剣である。


黒い怪物は、身をよじって剣先から逃げる。レオンの剣の方でも、見えないが同じような感触があった。


隙が生まれた。剣を回転させ、柄を持ちなおす。次の瞬間、ふっとからだから力が抜けた。右脚、その膝。ここで、と思ったが、思ったときには、レオンは地に躰を打ち付けていた。眼前にいた獣が、闇へと溶けるように姿をくらませる。


「剣を寄越せ」


背後から鋭い声が飛んでくる。振り返る。ソラスがもう一頭の獣と組み合っていた。その剣は獣の胴を貫いているように見える。しかし見えていても、からだは言うことを聞かない。呻きとともに上体を起こすのがやっとである。


「兄上」


誰の声が聞こえたのか、一瞬、疑った。あるはずのない声が耳に飛び込んでくる。


「剣を」


なぜリオーネの声がするのか。考えるよりも先にからだが動いていた。岩の上に剣を滑らせる。受け取ったのは、白く細い手だった。それを見て取ったとき、レオンは再び岩の上に倒れていた。ソラスが口から血を噴いてくずおれるのが見えた。


リオーネ。小さい背中。ソラスの方に駆けていく。全身に力を込め、再びレオンは立ち上がる。黒い獣。ソラスの白い装束の上から、そのからだに喰いついている。そこに、リオーネが跳び込んでいった。


岩場の下から黒い影がもうひとつ飛び出してきたのは、そのときだった。もう一匹いる。リオーネの言葉が脳裏をよぎる。すべてがゆっくりと動いている気がした。倒れた獣から噴きあがる青い炎。リオーネの声。ソラスの叫び。二人に迫るもうひとつの黒い影。


姿の見えなかった、三匹め。


瞬間、動かなかったはずの脚が動いていた。しかしレオンは自分が駆けているのか、歩いているのか、それとも飛んでいるのかわからなかった。気付けば獣の黒いからだが目の前にあり、自分は組み付いていた。


腕を獣の喉元に伸ばす。締め上げる。獣が暴れまくり、腕と胸の間から抜けた。爪がレオンの顔を裂いたが、その前脚をとって脇に抱え、レオンは全体重をそこにかけた。脚の折れる感触がある。獣が呻く。離す。裂かれた自分の額から流れ出る血を腕で拭った。


視界には、リオーネの姿も、ソラスの姿もなかった。もはや、それは気にしていられなかった。あの男を信じるほかないのだ。


獣が、前脚を不規則に上げている。それを見て取ったときには、いきなりまた、爪が飛んできていた。レオンは飛び退すさりながら、とっさに右腕を前に出す。えぐられた。姿勢を低くし、ほとんど地面に寝そべるようにして次の牙をかわすと、すれ違いざまに左の拳を獣の腹に打ち込んだ。肋骨あばらのない、やわらかいところ。手応えはあった。立ち上がったとき、獣が咆哮した。


獣は、燃える瞳でレオンを見ていた。レオンもまた、自分が同じような眼をしている自覚があった。獣の眼には怒りがあった。姉者と言っていた、あの獣の声を思い出した。


怒っているな。レオンは心の中で獣に語りかけた。声を出す余裕はもう無かった。おい。おまえの同朋は、俺の妹が焼いた。おまえの怒りが、俺にはわかる。しかし俺はおまえのように、妹を殺されるわけにはいかぬ。俺にあるのは怒りではない。それすら超えた何かだ。だから、俺はおまえなぞに負けぬ。


脚は動かないはずだった。右肩は矢を受け、左肩は砕かれているはずだ。血は、いまさらどうしようもないほど失った。闘い終えれば死んでいるだろう。もしかするともう死んでいて、からだだけが動いているのかもしれない。しかし、それがどうした。このまま死んでもいいが、死ぬならこの獣をたおしてからだった。これを殺さねば妹が死ぬ。


いきなり、目の前にくらいい流れが見えた。夢で見たのか、それとも実際に見たのか、もうわからないが、以前にも何度か見たことのあるものだった。流れの向こうに獣がいる。迷わず、レオンはそれを踏み越えた。獣も跳躍してきた。ぶつかった。


組み合い、締め合った。レオンが殴り、獣が咬みつく。レオンの雄叫びと、獣の咆哮が重なる。咆哮が自分のものなのか、雄叫びが獣のものなのか。レオンにはもうわからなかった。ただ黒い渦の中にいる、というだけである。死とはこんなに激しいものなのか、とレオンは思った。


不意に、獣の力が弱まった。くぐもった唸りが聞こえ、見ると、獣の胴になにか黒いものが突き立っていた。それから今度は銀色のものが、胸を突き破ってレオンのほうに飛び出してきた。次に見えたのは青い炎だった。


炎の向こうに、白い顔も装束も赤く染めたソラスがいた。何が起こったのかレオンにはわからなかったが、からだはまだ、勝手に動いていた。炎の中、レオンは獣の首を両手で絞め続けた。


「やれ」


誰かの声がして、頭に強い衝撃があった。


視界が暗くなった。

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