獅子の娘

 声を枯らして叫ぶ。必ず伝わると、ただ漠然と信じているだけである。


 叫びながらレオンは、必死で木々を観察し、駆けた。木々だけではない。その枝葉、土中から覗いている根、その傍にある石。すべてを視界に入れながら走った。


 足元の土が崩れる。そのまま斜面を転がり落ちそうになるところを、短剣と腕で堪えた。木の根を掴んで立ち上がる。立ち止まるわけにはいかぬ。どこかから、男たちの声が飛んでくる。まだ駆ける。自分を探す声は増えていて、四方から聞こえてくるようだった。


 石積み。見覚えがある。なんとなくそう思ったときにはすでに走っている。次の目印。ほんとうに自分が憶えているのか、それとも間違えているのを憶えていると思いたいのか、レオンにもはっきり分かっていなかった。


 ただ、“書架リブラ”にいる。リオーネも、ソラスも。声は届く。妹が、必ずあの場所に来る。レオンが辿りつけるとすればそこしかないことに、彼女なら思い至る。そしてその隣には、間違いなくあの剣士がいる。なぜか、そう思えた。


 足が止まった。ただの木が目の前にあって、レオンの行く手をふさいでいる。その幹をじっと見つめる。見えてくるものがあった。傷。木目の走るところに紛れている。これも、ただそう見えるだけなのかもしれない。しかし、信じて走る。


 昏い穴があった。何も疑わず、そこに飛び込んだ。青白い光を見た。


 そう思って顔を上げたとき、レオンの左脚が崩れた。足を踏み外したのかと思ったが、そうではなかった。左の膝の近くに、何かが刺さっている。走っていた勢いのまま、石の上を転がった。


「兄上っ」


 痛みを感じるよりも先に、妹の声が聞こえたことへの安堵を感じた。


「同胞を傷つけたな、愚かな青の民」


 もう一つの静かな声。ソラスだった。レオンは奪った短剣の腹を噛み、膝に刺さったものを引き抜いた。矢だった。痛みはないと思うことで、無視した。ただ、脚に力が入らない。


 また矢がきた。かわしきれず、右の肩に刺さった。それも、無心で引き抜いていた。妹の悲鳴が聞こえる。それが岩の壁に反響して、より悲痛に感じられた。


 ソラスのほかに、まだ何人もいる。岩の陰に数十人が控えているのが、暗闇の中でもわかる気がした。全員打ち倒すのか。


「ここに行くのだと言うから、何かと思えば」


「やめさせてください、ソラス様」


 顔を上げる。ひとつ高い岩のうえに人の姿があった。鞘に入った剣を持ち、片方の腕ではこちらに駆け寄ろうとする少女を制していた。


「ソラス」


「命乞いをしに、ここまで駆けてきたわけではあるまい」


「命乞いはせぬ。おぬしらの命を取るつもりもない。ただ、妹を返してもらいに来た」


 薄闇の中で、ソラスの嘲笑うような息遣いが聞こえた。


「図に乗っておるわ、返すなどと。もとはおまえたちのものでも、なんでもないというに」


「俺の妹だ」


「黙れ」


 ソラスの声が響いた。感情的な声を聞くのは初めてだった。同時に、彼が自分の傍に降り立っていた。次の瞬間には、剣の先が自分の額を切っている。


「二度と言うな」


 彼が剣をいつ抜いたのか、やはりレオンにはわからなかった。


「剣を如何いかにして手に入れたのか。聖女カリーン何処いずこにいらっしゃったのか。問うているのは、それだけだ。おまえは答えなかったようだが、俺の前でもそれができるか」


 銀色の瞳が、自分を燃やし尽くそうとしている。そう思った。しかしその先に、レオンは青い光を見た。それが、銀の炎などよりも強く、レオンの心を奮い立たせる。血が鼻筋を伝って、口に入ってきた。それを舐めとり、レオンはソラスの燃える瞳を見つめ返す。


「俺の妹だ、ソラス」


 炎が、銀の瞳から噴き出した。剣が振りかざされる。父の剣。それも返せ。ただ、そう思った。


「やめて」


 剣が止まる。ソラスはレオンのほうを向いたままだった。


聖女カリーン。まだお解りにならないか」


「やめなさい」


 ソラスが振り返った。驚愕の表情だった。驚いたのは彼だけではない。レオンも、剣から意識を逸らしていた。洞穴を覆う青白い光が、不意に強まったように感じる。リオーネの青い瞳が、暗闇の中でも輝いているのが分かった。岩壁の光が彼女を背後から照らす。全身から炎が噴き出しているのかと思えるほどであった。


 ほんとうにおまえなのか。レオンは、口から出かかったものを、喉元で飲み込んだ。


「青の民です、聖女カリーン。われらの同胞を打ち倒した」


「私も青の民だと、何度も言いました。お解りにならないのは貴方です」


「貴女は」


 ソラスが何か言いかけたとき、リオーネが懐から何かを取り出した。


 彼女がいつも腰に忍ばせている、短剣だった。


「やめろ、リオーネ」


 レオンも叫んだが、彼女は自らの喉に短剣の切っ先を向け、なおもソラスを睨みつけた。


「私は聖女であるまえに、獅子の娘。ノルンのレオンの妹。目の前で兄を殺され、生きているつもりはありません」


「貴女は死なぬ」


 呆れを含んだソラスの言い方に、しかしリオーネも言い返した。自嘲的な口調だった。


「自死ならばどうですか」


 叫んだのはレオンだけではなかった。ソラスが何事か喚くようにして、リオーネに飛び掛かる。短剣が彼女の喉元に食い込む。


 刹那、その背から黒い塊が飛び出した。


 すでにソラスは彼女を懐に抱え込んでいた。レオンは、奪っていた短剣を彼女の背後に向かって投げる。それが弾かれて岩に当たる音は、周囲からの喚声にかき消される。岩壁に赤い残光が見えた気がした。


 腰に手を当て、剣をいていないことを思い出す。


「ソラス」


 白銀の剣士はすでに剣を抜き、黒い獣と対峙している。構えているのとは別に、もう一本、腰に差してあった。


「剣を寄越せ」


 誰が、と吐き捨てるソラスの背に、レオンは目を奪われた。衣服の布地が大きく裂けている。暗がりの中、はっきりとは視認できないが、切り裂かれているようだった。再度ソラスの表情を見る。先刻までの余裕は見られなかった。


 レオンは跳躍し、岩壁に取りついた。左の脚が挫けそうになる。


 岩場を駆け上がった。登りながらレオンは、ソラスはあの一瞬でどうやってリオーネのところまで戻ったのだ、などと考えていた。鉄どうしがぶつかりあうような音が聞こえる。岩場を登りきった。


 ソラスの腹に、もう一匹の獣の爪が食い込んでいた。白銀の剣士が岩場に倒れる。


 リオーネがいた。誰かに突き飛ばされたように、レオンのすぐ近くにくずおれていた。短剣をこちらに差し出している。彼女を背に庇い、レオンは低く呟いた。


「持っていろ」


 あの教会の闘いと同じだ。短剣でどうにかできる相手ではない。


「ソラス、剣だ」


 レオンが言い終えるよりも早く、何かが飛んできた。それをしっかと掴み取り、レオンは二匹の異形と対峙した。獣が、こちらに跳びかかろうとしていた脚を止めた。


「兄上」


 妹の掠れた声。


「あと一匹います」


 剣の柄を握り込む。使い慣れた感触だった。父の剣が戻ってきた。しかし、右肩の矢傷が邪魔をしている。左の膝から下の感覚が弱い。


「立て、ソラス」


 ほとんど哀願するようにして、レオンは言った。リオーネの感覚はいつでも正しい。あと一匹の獣がどこにいるのか、まだ見えてすらいない。いまこの瞬間に、心臓をえぐられるかもしれない。ひとりですべてを相手にするのは、無理だった。


 二匹が、同時に動いた。左右から爪。黒い濁流が襲ってくるようだった。直感する。受け止めきれない。リオーネを抱き、地面を転がる。岩場の縁に足がかかった。もう一度、きた。黒いものが、突風とともに迫る。レオンの眼前で、それは止まった。


 銀の長剣が、その二爪を阻んでいた。瞬間、レオンは右足を踏み込む。からだごと獣に突っ込む。二匹が離れた。


 再び剣を構える。ソラスは右の脾腹ひばらを押さえていた。しかし彼も、剣を構えていた。


 戦えるか、とは聞かなかった。戦うしかないのだ。


「同胞よ」


 ソラスが声を張り上げた。口の端から垂れたのは、血だろう。


聖女カリーンをお守りしろ」


 言ってしまってから、ソラスはにわかにリオーネを岩場の下に向かって突き飛ばした。悲鳴だけが岩場に残ったかのようだった。レオンが、何か声を上げる間もなかった。四つの赤い光が揺らめいている。そこから眼を離すことはできなかった。


「信じるぞ」


 何を、とは言わなかった。ソラスもかなかった。視線も合わせようとはしなかったが、ただひとつ、頷いてみせた。


「手負いが二匹」


 闇の底から声が響き、レオンを震わせた。

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