遁走

 浮いている。ほとんど、そういう感覚だった。


 山から突き出すようにして、その集落はある。


 麓から微かに見ることのできたあのときも、岩山から飛び出したような印象を受けたが、実際に内に入ってもその印象は変わらない。切り立った崖、その岩の突端や窪みに柱が建てられている。柱の上に置かれた家屋は、見る場所によっては浮遊しているようにさえ見える。


 山の急峻な斜面から飛び出すようにして、木の床面が設置されているのだ。無論、床下をよく確認すれば、太い柱を組んだ足場があることも分かるし、足場がそう簡単には崩れないほど、柱が斜面に埋め込まれているのも分かる。それは、レオンのいる足場もまた同じであった。


 それでも浮いているような感覚になるのは、壁がないせいだ。中空に投げ出されたようにあるその場所――鏡の裏アイスガーン、と“白の民ズィルヴァイス”らは呼んでいた――で、レオンは仰向けになっていた。視界にあるのは空の色だけで、あとは何もない。


 なぜこのような場所があるのか。資材が足りぬというわけではあるまい。また、建築途中というわけでもなさそうである。自分のような余所者を置いておくのだから、住民のいる家屋というわけでもない。出入口は一つのみで、こちらとは反対側に錠がかけられており、レオンの側からはどうしようもない。


 ここは牢のような役割を果たす場所なのだ。そう告げられたわけでもないが、容易に察することができた。壁のない牢である。落ちれば、下は灌木がわずかに群生しているのみの急斜面である。ここに置けば、あとの生死は問わず、ということなのだろう。


 レオンの場合、寝食のうち、食うものだけは保証されている。量は少ないが、食事は与えられる。粗末な粥と野菜程度ではあるが、一日に二度提供された。寝床はここである。季節は暑い盛りで、“火の季節ブレンネ”の只中という感じだから寒さに困ることはない。しかしこの浮遊したような場所では、ろくに眠れなかった。


 呼び出しは、日に三度ある。尋問のための呼び出しだった。毎度、同じことを問われる。


 どこから来たのか。剣はどこで手に入れたものか。聖女カリーンをどこで攫ったのか。自身のことについては何も問われない。この三つのことにしか、彼らの興味はないようだった。いずれについても、レオンは同じことを答えた。


 ノルンから来た。剣は父のものである。妹は攫ったのではなく、遭難によって雪に埋もれていたところを助けたのである。


 妹、というと、剣を突きつけられ正すことを求められた。おぬしの妹などではない。聖女カリーンである。レオンは同じことを答えた。聖女であっても、妹である。


 突きつけられた剣の切っ先が喉に食い込んでも、答えを変えることはしなかった。剣の先は、それ以上喉を破ってくることはなかった。ただ、心の臓に剣が入ってくるような気はした。白の民の瞳は、心の内側を見通そうとするような鋭い光があった。それはちょうどリオーネの、あの青い瞳と同じものを思わせた。


 捕らえられてから、すでに十日経っている。今朝の陽が昇ったので、十一日めだった。陽が昇り、落ちる。月が昇る。星が現れ、消える。呼ばれ、詰問され、剣を突きつけられる。そしてまたこの中空に放り出され、陽が沈んでいく。


 思考する。彼らのことではない。妹のことを、である。それが唯一できることで、正気を保つ手段だと思えた。


 ひとりで空を見上げ、妹の様子を考える。彼女はどうしているのか。“書架リブラ”と呼ばれるあの洞穴で引き離されてから、なんの沙汰もない。自分にとっては、責めに耐えるだけの十日であったが、あちらは何を仕向けられているのか。彼らにとっての聖女と言うからには、害などなされていないと思いたい。


 聖女とはなんなのか。ソラスの言葉を反芻した。青い竜の力をからだに宿す少女だという。力とは、不死であることそのものを指すのだろうか。これまで彼女に抱いていた疑問は、すべてその力とやらで説明ができるのだろうか。


 たとえば、並の人間なら生きてはいないであろう体温の低さ。たとえば、馬と意思の疎通を図れるとしか思えない言動。あるいは、“フィスト”の声を聴きとれること。その“フィスト”が、彼女には爪のひとつも立てられなかったこと。銀の髪、青い瞳。あの瞳が見る者を魅了するのも、青き竜の魔力か。


 そうなれば、彼女はまさに、竜そのものである。生きとし生けるものの母である青い竜。命あるものはみな、母に従うのみ。となれば、まさか害は及ぼすまい。


 ただ、記憶のない彼女にとって、“白の民ズィルヴァイス”がどう映っているのかは、不明だった。


 彼女の記憶。灰色の風と海の記憶。灰色の海グラ・ゼーを目の当たりにしても、記憶に変化はなかった。


 少し目を上方に向ければ見えるのは、灰色の岩肌が露出した山。そう思って周囲も見れば、建物もすべて灰色がかっている。ただ木々がそうだというだけで、偶然なのだろうか。


白の民ズィルヴァイス”。灰色というのはおぼろげな記憶がそう言わせているのであって、ほんとうは銀なのではないか。彼らの銀の髪と瞳を連日見てきたレオンには、そう思えていた。


 彼らは、いずれ滅んだ北の先住民族である。父レーヴェンからはそう聞いていた。国軍と争い、破れたのだと。破れるとはすなわち、彼らにとっての同胞が根絶やしにされるということに他ならない。


 しかし滅んだとされる彼らが目の前にいる。それだけでも、現実とは思えなかった。妹がその一族に連なる者だというのも、まだ信じ切れていないところがある。


 自分はやがて殺されるのだと、はじめ、ここに置かれたときには思っていた。ソラスが父の名を聞いて激昂したように、彼らにとって自分は仇の子である。レーヴェン・ムート。北伐の英雄の副官と言った。軍人であったころの父について、レオンはやはりまだ、なにも知らない。父は何も言わぬまま、今も戦っている。


 その父との約束がある。妹を護れと託された。だから死ぬわけにはいかぬ。恨まれるのはいい。ただ彼らが妹をどう扱うのか、確かめずに死ねるものか。責めには、そう思うことで耐えた。


 やがてレオンの中で疑いが生じた。自分にではない。彼らに、である。すなわち、自分を殺すつもりなどないのではないか、という疑念である。


 そしてそれは、自分の喉に剣が食い込んだとき、確信に変わった。彼らは自分を殺そうとしているのではない。剣に宿っていたのは害意であり、これまで幾度も向けられてきた殺意とは違っていた。どういうわけか、死ぬとは思わなかった。責めは痛く、つらい。しかしもう死ぬのだというところまで追い込まれない。それがなぜなのかを考えた。


 殺せないのだ、と思った。妹がいるからだろう。彼女がそれを望んでいない。聖女を裏切ることはできない。だから殺せない。自分を生かしているのはそれだ。でなければ、十日以上も生かしておく理由がない。食事まで与えられているのである。


 殺されないのだとすれば、どうするべきか。いつまでもこうしているわけにはいかない。自分たちのなそうとしていることは何だったのか、考え直した。そこからは、からだに気力が戻ってきた。とにかく、動ける範囲のすべてを、眼と手で確認した。そうして、やるべきことに道筋を立てた。


 からだを起こす。胡坐あぐらをかいたまま、レオンは大きく息を吸って吐くことを繰り返した。眼前には空だけがある。五、六歩行けば崖に落ちる。


 その下がどうなっているのか、もう眼を閉じても思い浮かべることができるほど見て、何度も頭に刷り込んでいた。


 小さく音がした。男が二人、扉を開けてレオンの背後に立つのが分かった。


「妹は」


 振り返らないまま、レオンは問うた。


「誰の?」


「俺の妹だ」


 首筋に剣をあてられるのを感じた。


「あの方は、われらの“聖女カリーン”である」


「俺の妹だ」


「戯言である」


 レオンはいきなり立ち上がった。振り返る。男が二人とも、剣を構えなおした。構えに隙があった。剣のほかは何の武器も持っていない。からだを注視した。白い装束のみで、防具も何も身につけていない。


「おぬしらにとっては聖女だ。しかしあれは、俺のたった一人の妹なのだ。なぜわかってくれぬ。わかろうとせぬ」


「斬るぞ、青の民め」


 どうせ斬れない。レオンは分かっていた。でなければ、もう剣が振り上げられている。殺気を感じない。それでも、そのまま後ろに退がった。五歩。まだ、あと一歩。


「動くな。斬る」


「斬れぬ。剣は人を殺すためにあるもので、ただ斬るためにあるのではない」


「何を」


「俺を殺してみよ」


 言って、一歩大きく後ろに跳び退すさった。男たちの驚いた表情。ゆっくりとその顔が視界から消えていく。からだが落ち、内臓が肚の中で浮くような感覚があった。膝を抱え、からだを折り曲げる。背中から落ちた。衝撃があった。岩の衝撃ではない。灌木かんぼくである。狙った通りだったが一瞬、息が吸えなかった。


 呼吸を確認し、すぐに跳ね起きる。足場。斜面である。迷わず足を踏み出した。どう走ればいいのかは、もう考えてあった。声が頭上から降ってくる。灌木と岩場の僅かな窪みを使う。速くはないが、駆けることができる。


 南に向かって、足を動かし続ける。無心で、足元だけに注意する。踏み外すことはできない。妹を探さねばならぬ。


 声が聞こえる。騒ぎを起こせば、必ず妹には伝わる。あとは、リオーネを信じるだけだった。


 傾斜が緩くなった。右の眼下に森。上の足場からも見えていた。自然ではない広がった場があって、いくつかの倒木も見えた。おそらくは、木材の切り出し場になっている森だ。滑り降りる。山の中腹に、わずかに開いた平地のようだった。ここに逃げ込むことは読まれているだろう。周囲を見渡す。武器になりそうなものはない。ただ、木の破片はあった。拾って、鬱蒼うっそうと茂る草の中に飛び込んだ。


 慎重に歩いて、足場を確かめる。急激に落ち窪んだ箇所があって、足を踏み外しそうになる。何度か踏みしめると、滑落かつらくせずに身を潜められそうな隙間ができた。


 じっと身をかがめ、待った。白の民の数は多くない。方々に人数を割けば、ここに現れる人数は限られる。彼ら自身が身を潜めねばならない者たちでもあるからだ。声が聞こえてきた。耳をよく澄ませば、方向は分かる。


 声が近づいてくる。声の数と足音。十名よりは多くない、と判断した。そのうち何人が、この崖まで来るか。


 待つ。声が大きくなるにつれ、レオンは呼吸の間隔を短くした。誰かが歩いているのが、すぐそばで感じられる。吸っている空気を吐く。


 吐ききったところで、跳びあがった。二人がこちらを向く。ひとりの腹を打つ。木片をもう一人に投げつける。男がそれを手で払ったとき、レオンは腹を打たれてくずおれる男の腰から剣を抜いていた。短剣だった。


 男が声を上げる。柄で、向かってきた剣を弾き飛ばした。五人ほどいた。もう、こちらを向いている。持っているのは短剣、長剣とさまざまだった。


 身を翻し、彼らに背を向けて駆けだす。打ち合うことはしなかった。背中から声が追ってくる。彼らが、どこからこの広場に降りてきたのかは、見当をつけてある。木々の間を駆け抜けた。声を上げる。妹の名を呼んだ。


 リオーネなら感じてくれる。ならば、向かうべきところはひとつである。

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