異国の雨

 接近、という声が幕内に飛び込んできた。ベルキウスは幕の内側から外を眺めた。


 雨天である。土煙などはない。そのうえグリーゼルヒューゲル丘陵は隆起が激しい。敵の接近は鈍重極まりなかった。しかし、それはこちらも同じなのだ。


 草木は低いが豊かに生い茂っている。雨がそれを打つ。地面は柔らかい。他と比べてまだ高く、高木の少ないところに本陣を張ったが、それでも低木に視界が妨げられるので、最初に草は刈り取り、木は切り倒させていた。葉と枝は離れたところに棄て置いている。こう濡れていては、薪にも使えない。


 敵の出方を読むことなど必要ないほどに、状況は悪かった。敵も遅く、こちらも遅い。しかもこれまでの四度にわたるぶつかり合いで、相手の思考はほとんど分かってきている。実に単純な相手、というのがべルキウスの出した結論だった。高所に陣取った地の利は活かすが、それ以上はない。突撃に工夫があるわけでもない。結果として、単調なぶつかり合いが散発的に繰り返される。


「グラウの隊を出せ」


 あの駐屯地で黒い獣と対峙したときから、ベルキウスの声は潰れていた。はじめは自分の声ではないと思ったが、すぐに慣れた。今までの自分とは違う男になったのかもしれない。何かが自分の中で無くなった感覚がある。その失ったものは、取り戻さずともよいと思っている。声も同じことだった。


 兵が天幕から駆け去っていく。べルキウスも椅子から腰を上げて後に続いた。


 天幕の外は暑いが、祖国のそれとは感じ方がまるで違う。赤の国での火の季節イグニスは痛く、辛い。砂が熱を持ち、地表全体から刺されているという感覚なのだ。実際、陽の熱で死ぬ者もいる。比してこの国の熱は、纏わりつくようだった。辛くはないが、不快だ。


 緑に覆われた豊かな地がそういう気候を生むのだろうと思えた。青の国に侵入はいってから見る景色は、常に祖国とは違う。豊かだとも、不快だとも感じる。そしてやはりこの国を獲りたい、とも思う。少なくとも渇きで死ぬことなどないのだ。


 赤の旗をなびかせ、グラウ・ティグリスの隊が進発する。彼が負けるとは思っていない。ただ、次の一撃で砕くことができるとも思っていなかった。最初のぶつかり合いでこちらの騎馬隊の強さを感じ取ったのか、敵は徹底的に組み合ってこなくなっている。それでもこうして攻勢に出てくる。ただの意地なのかもしれない。負けてもいないのに逃げることはできない。そんな感情すら読み取れる気がした。


 敵の騎馬隊の先頭が見えた。高所からの勢いはない。雨天がそれを阻んでいる。青と赤の旗が交錯した。突っ込んでくる勢いはそれなりだが、こちらの騎馬隊を後方まで断ち割るほどでもない。半ばほどまでけ、急に方向を変えて離脱する。グラウの振り回す大剣が一頭の馬の首を斬り落とす。敵の離脱の様はまるで、馬が恐れをなして大剣から逃れるようだった。


 そのまま青い帯が逃げるように丘の向こうへ流れていく。グラウの隊がそれを追う。しかし、程なくして帰還してくる。追撃はほどほどにせよ、と言ってあるからだ。ここと離れすぎれば、救援は難しい。いかにグラウといえど、このいくつもの丘の向こうで敵軍に飲まれてしまっては孤立する。助けようにも、時がかかりすぎる。


 べルキウスは濡れた赤い旗が戻ってくるのを横目に、幕内へ戻った。卓の地図と向き合う。外では人の動く音と声が俄かに錯綜する。天幕を揺らすほどの勢いでグラウが戻ってくる。濡れた髪を掻き上げ、鼻を鳴らす。


 帰参した猛将には、苛立ちがありありと感じ取れた。ベルキウスはグラウの顔を見なかったが、天幕をち破るのではないかという勢いでそれは分かった。


「弱すぎる」


「五万だ、グラウ。高所に五万。うち一万が騎兵。一万は弓。何をもって弱いと言うかは、私が決める」


 グラウに命じているのは、徹底した応戦ではなく、相手を軽くあしらい続けることだった。それが、この飢えたティグレのような男にとってどれほど耐え難いことかは、考えるまでもない。


 三万強と読んでいた敵兵力が、実際は五万ほどと分かった。ふたつ向こうの丘から南北に布陣している。北上するほど高くなるその高地の前方に弓兵、両翼に騎馬隊。先刻、こちらにつっかけてきたのはその片翼である。こちらは四万。地理的な不利を考えれば、倍の八万の兵力でようやく、高地への進撃を考えられる。一番厄介なのは一万の弓兵だった。これがなければもっと早く決着をつける策はあっただろう。


「アレスとオーリオの隊は何をしている? 丘の向こうで炊飯させるためだけに二万を与えているのではなかろうな」


「突っつき続けているよ。おぬしからは見えぬだろうが。すべてはこの雨だ、グラウ」


「もう幾日になると思っている」


「三日。いや、四日ほどかな」


「六日だ。ベイル・グロースの隊を三日で討ったわれらが」


 六日の間、残りふたりの将軍レガートにはそれぞれ一万ずつの兵を持たせ、執拗に東西の両面から攻撃させている。当然、こちらも丘の頂を攻め落とすまでには至らない。しかしあとになって効いてくるはずだった。


「あの高地を取るのに、余計な犠牲はいらぬ」


 グラウは剣を置き具足を取ると、べルキウスの前に置かれた卓を殴りつけた。眼光が自分の頭頂を焼いているのは、顔を上げなくてもわかる。


「覚悟は決まったのかと思っていた」


「何の覚悟だ?」


「戦う覚悟を。でなければ犠牲など細々こまごまと考えぬ」


 べルキウスはグラウの巨大な掌の下から、地図だけを引き抜いた。


「足りない兵をさらに減らす覚悟か? 違う。私が決めたのは、私のやり方で勝つ覚悟だ」


「そのやり方が、つまらぬ暗殺か。化け物と手を組んで」


「おぬしの手が汚れたわけでもあるまい」


 グリーゼヒューゲルは広大な丘陵地帯だが、なかでももっとも標高の高いところを、敵は先に陣取っていた。青竜軍アルメ指揮官コマンダントハーゲン・アウグストは低能な貴族の子息と聞いていたが、そこだけは押さえてきていた。さらに視界を確保するため、こちらと同じように周囲の木を切り倒している。能力は高くなくても、さすがに一隊の指揮官ということなのだろうか。それとも、有能な軍師がついているかだ。いずれにしてもこの雨の中、勢いに任せた突撃で敗れるほど間抜けではない。


 しかし、地理の不利も暗殺で覆せるというのは、ここまでの戦いでよく分かっている。唯一違うのはマルバルク森の夜戦だが、あのような敵も味方もあざむく戦い方は二度とできるものではない。暗殺は汚いやり方だが効果はある。あるならやる、というだけだ。


「邪道だろうが、やる。今日のうちに準備を済ませ、明朝より作戦を開始する」


「矢はどうする」


「何のためにこの辺りの木を根こそぎ伐ったと思っている」


 楯の削り出しに一万人を割いている。それが、攻撃を遅らせた要因でもあった。それだけの人数を動員した甲斐あって、もう楯の数は三万以上になっている。


 グラウがもう一度鼻を鳴らし天幕を出る。べルキウスは椅子に腰かけ、地図を眺めた。どの方面から進軍しても、弓兵が邪魔になる。その対策を打つための六日間だった。そして、それは佳境に入っている。


 ベルキウスはもう一度天幕から出た。グラウはもう姿を消していた。視線を上げる。


 雲の様子が、これまでこの国で見てきた中でもっとも重かった。黒々とした雲が、ほとんど動きもせずに視界を覆う。この天候だけが、わからない。さらに強く雨が降るのか、これから和らぐというものなのか。降れば、明日の攻撃も延ばさねばならぬかもしれない。足元を何度か踏みしめる。草の大地。故郷くににはない。


 予想するだけならできる。水を吸った地面は兵の足をすくう。ただそれがどの程度のもので、行進をどれだけ阻むのか、正確には分からない。敵も同じ、という楽観に意味はない。どれだけ脆弱でも、相手はここに暮らし、生きてきた者たちである。グラウもそれが分かっている。だから、強行を訴えるにしてもあれで抑えているのだ。


 不自然に対峙が長引いている。敵もそう考えているだろう。もうじき、本気で攻勢に出てくるかもしれない。天候の変わり目も、自分たちより解っている。騎馬隊の練度からして勝ち目のなさそうな相手が、丘ふたつ越えたところで陣を構え続けているのだ。我慢比べというところだった。


 偵察隊が戻ってきた、と連絡があった。呼ぶと、早馬がけてくる。三日前から丘陵の各所に放っていた者たちだ。ベルキウスは、報告を幕に戻って聞いた。


 最も遠いところまでけていた兵が、民に話をいていた。南東に小さな集落があったらしい。この丘陵地帯には、あまりにも人の気配がない。戦の気配から逃げたのかもしれないと思ったが、村があるのであれば、それも可能であったろう。


 雨は長くなりそうだというのが、そこでの農民の見方らしかった。異国の民の言うことなので、どこまで信じられるかは分からない。嘘を聞かされていることもある。自分たちが異教の兵士に何をするか考えれば、容易には信じ難かった。しかし、それでも情報は情報である。


 オーリオとアレスの隊の様子を見てきた兵も帰投していた。損害は軽微だが士気を維持するのが難しくなっているという。それも仕方のないことだった。楯が届けば、それが攻撃の合図になる。もうすぐの辛抱、と伝えさせることにした。耐えて耐え抜くことが勝利に繋がることもあるというのは、ザラ平原で将兵ともに実感しているはずだ。


 ベルキウスが気にしていたのは、南に向かった兵からの報告だった。それはもう届いている。以前に滞留したリューデスハイムという穀倉地帯の城。少なくともそこから、見える敵影はなかったという報があった。ファルク・メルケルの軍も、ディック・コップフの軍もまだ北上してきてはいないのだろう。そこへは執拗に斥候を走らせていて、僅かな変化でもあれば伝えるように言ってある。


 ポルトから北上してくる同胞たちには、“壁”から青竜軍が出撃してきたとき、よほどのことがない限り街を放棄せよという厳命を下してあった。感傷はない。街にではなく、兵に対してもない。死ぬなら死ぬで、それが役割になる。それが自分たち赤の国の軍だ。役割のひとつに、死ぬまで戦い続け一兵でも多く道連れにすること。もうひとつは、兵糧に損害を与えること。どちらも、彼らはやり遂げる。


 兵糧のほうはさらなる隠し手を使ったかもしれないが、ファルク・メルケルならもう何が起こったのか見抜いているかもしれない。しかし、見抜かれたとて、失われた糧食が戻るわけではない。“壁”から来る軍が五万から六万だと仮定しても、進軍を再開するにはかなりの時を要するはずだ。


 ファルクはそこに手を抜かない。そこで無理をしてでも北上してくるような将なら、ベルキウスはとうにあの“壁”を攻略できている。その周到さが、いまは自分たちに時を与えてくれている。この戦はそもそも、時を稼ぐだけならやり切れるという確信があって始まっている。老将軍ヒューゴ・カペラが“壁”を攻めたとき──つまり、此度の戦の端緒となったあの攻囲──から、如何にしてファルク・メルケルの判断を遅らせるか、ということを考えてきたのだ。


 それは、いかにも自分たちがあの男を恐れているようにも思えるが──と、ベルキウスは顔を歪める。


 報告をすべて聞き終えたときには、地図が文字で埋め尽くされていた。兵たちを辞去させ、ひとりで地図と向き合う。書き込んでいる情報はすべて頭に入れるが、見返すと、新たに策を思いつくことがある。ベルキウスの眼はいま、グリーゼルヒューゲルの周辺を追っている。もうファルクのことは考えなかった。


 おそらく、敵の陣取っているあの天辺からは、自分たちの布陣を見通せない。丘が邪魔で、ちょうど全容を掴ませない位置に陣取っている。しかし、“青の道ブラウ・シュトラーセ”は俯瞰できているはずだ。マルバルク軍もそうだったが、この国の軍人は、まずあの街道を守ろうとする。たしかに大軍の通行に関しては最適で、これを使うことができれば、神都ブラウブルクまでは何の苦もなく到達できる。自分たちは、そこからさらに攻めとすつもりなのだ。なんとしてもあの道を通りたい。


 アレスの隊を西に、オーリオの隊を東に展開させたのは、街道を守ろうとする敵を挟撃できないかと考えたからだ。何とかして高地から引きずり下ろすことができれば、歩兵戦に持ち込める。将軍レガートのなかでもとくに歩兵を率いた戦に強いのがこの二名だった。粘り強さというところでは年配の将軍アレスが、ここぞというところの激しいものでは若いオーリオが、それぞれいい素質を持っている。


 騎兵の扱いに長けるのがグラウと死んだフォス・ヴァルパインだった。とくにフォスは精神的な果敢さと慎重さの均衡がとれていて、獣のような苛烈さを持ったグラウをよく補佐していた。彼が死んで、グラウは鎮められていた危うさを表出させるようになっている。そろそろ鬱憤を晴らさせねば、苛烈さがおかしな方向に出てしまいそうだった。


 地図を指でなぞりながら、ベルキウスは策の手順を反芻はんすうした。頭は冴えている。マルバルク森の夜に比べれば、この程度の相手に対峙することは恐ろしくとも何ともない。


 日が暮れる。各将軍レガートへの伝達を再度走らせ、戻ってきたのを確認すると、ベルキウスは眠った。


 眼が覚めたのは夜間だった。天幕を打つ細かい音が続いている。はじめ、それは小さな波のように聞こえ、やがて耳障りなほどに大きくなっていく。外で兵が駆ける音にも水音が混じる。軍靴が泥を弾く音。雨が強くなったり、弱くなったりするというのも初めてだった。故郷の雨は一気に降り、すぐに止む。


 ちょうどそのとき、べルキウスの背を震わす気配があった。

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