神の采配

 雨が天幕を打つ。


 背後にいるのが何者かは分かる。以前は背後に迫られただけで、全身の毛穴が縮こまるような感覚を覚えたものだ。いまは、落ち着いてその気配を感じ取ることだけができる。天幕の外から語りかけてくる声、息遣い。世の闇に溶け込んでいるくらいが、ちょうどいい連中。べルキウスが考えたのは、そのくらいである。


「今度は息の根まで止めたのであろうな」


 言った途端、幕の隙間から何かが放り込まれた。赤黒いものだった。


「灯りがないので、容易いことであったよ」


 錆びた鉄のような臭い。べルキウスは袖で鼻を覆っただけで、それには目もらなかった。


「貴様らに手を貸すのもこれで最後と思え」


 天幕を打つ音はいよいよ途切れることがない。それでも、耳障りな獣の声はそれにかき消されることなく耳に届いた。


「なにか思い違いをしているようだ」


 べルキウスは喉に手を遣った。


「己らが手を貸しているのだと思っておったのか」


 自分に向かってはっきりと殺気が向いているのを、べルキウスは感じた。しかし今更、自分ひとりを殺す意味もない。それも分かっていた。都を落とすのが自分たちの宿願であり、都で戦を起こすことこそが、この獣どもの狙いである。


 つまり手を貸す、借りるということでもない。互いの手を取って、汚しに汚してきただけだ。


 俄かに風が、天幕の柱を揺らした。べルキウスは卓から腰を上げ、揺れる柱に触れる。雨と風は存外に強いようだ。祖国では雨などほとんどない。風は吹くが、砂嵐の吹き荒れるところには、そもそも家も街もない。暑さと飢えが、最大の敵である。


 また柱が動いた。見えない誰かが強力でもって、押したようだった。幕の隙間から水が落ちてくる。水滴というにはあまりにも多い量。落ちた水は音を立てて、湿った地面をさらに濡らす。ベルキウスは、水が染み込んでいくのを黙ったまま見つめていた。殺気が萎むように弱くなるのが分かる。


 風が緩んで、再び断続的な雨の音が聞こえるようになったとき、ついに獣の気配は消えていた。ベルキウスはそこで腰を上げ、哨戒の兵を呼んだ。雨夜の中、兵の集まりがやや遅い。


「柱を補強するのだ。雨風に耐えられるよう、厳重に」


 翌朝の攻撃準備までは言わなかった。ベルキウスの頭の中で、それはまだ絵図として完成していない。どうにも、この雨が読めなかった。強くなったと思えば弱くなり、再び強くなったと思えば、これまでにないほどの風の吹き方をする。すべてはこの雨のせいだ。グラウに言ったことは、自分に言い聞かせていることでもあった。


 伐り出した楯のことを考えた。あれは高所からの矢を、どれだけ防ぐことができるだろう。明日の昼に攻撃を再開するとして、乾いていることはあるまい。湿気が強度を下げることはないか。厚く作るように言ったし、表面の堅さはベルキウス自身も触って確かめたものの、それは乾燥して仕上がったものの感触でしかない。気にしすぎているだけか。


 矢の掃射を楯で防ぎながら歩兵が前進し、圧力をかけていく。それを二方面から行い、機を見て騎馬隊を出す。大観すれば、そういう作戦である。敵は高所の利を放棄することはしないだろうから、陣地に止まって対処しようとするだろう。こちらの騎馬隊には、低地から攻めきるだけの力がない、と思ってもいるはずだ。グラウの我慢が限界に達しそうなところだが、時間をかけた意味はあった。


 平地でないところで騎馬のぶつかり合いに持ち込んだとき、高低の差による不利をどれだけ縮められるか。眼目は逆落としを受けることを避ける、その一点である。機動力を削がねばならない。つまり、敵の騎馬隊を高地に縫い付けるための、楯だった。速さを奪った馬はただの愚鈍な獣でしかない。


 そこまで考えを整理して、溜息が出た。暫し、眼をつむる。様々に思い浮かぶことはあるが、そのどれもが中途で足踏みをし、結論までたどり着かない感覚がある。雨風が雑音となって思考を乱すのだ。雨であることがこれほどまでに時を浪費させるとは、ベルキウスも予想しきれなかった。森や城があろうと、平地であれば楽なものだ。丘と山、森、谷。そして雨。そういった条件が組み合わさる戦地は、祖国に無い。


 また兵を呼んで、陣の各所がどうなっているか確認に向かわせた。火は焚けないから、思わぬ被害も出ているだろう。再び椅子に腰を下ろす。その脚が躯の重みで地にめり込むのを感じる。湿った地面に舌打ちする。落ち着いていない自分に、ベルキウスは少し苛立ちはじめていた。


 すぐに、伝令が戻ってきた。あまりに速かったので、べルキウスは腰を上げることもできなかった。入ってきたのは、先刻の兵とは違っていた。顔色が尋常ではない。


「敵軍が移動しています」


「なに?」


 臨戦態勢、と言いかけて、べルキウスは出しかけた言葉を口の中にとどめる。


「具体的に言え」


「北の方面。"青の道ブラウ・シュトラーセ"をさらに北進中」


「斥候はどこで敵の部隊を捉えた?」


 声を上げながら、べルキウスは卓の地図に飛びついた。兵士が指したのは高地を離れた、かなり北の地点である。捕捉したのは哨戒中のオーリオの部隊の者で、すでにこの夜間では追いつけそうにもないところまで、敵は去っていると考えてよかった。


「陣はすでに払われています。柱や幕など、放置されているかのように」


「なぜ見逃した」


 皺枯れた自分の声に苛立ちがはっきりと表れているのを自覚しながら、べルキウスの頭の中は再び動き出している。なぜ陣を払ったのか。なぜ夜間なのか。この雨の中、行軍を強行する理由は何か。どうやって、二部隊に気取られることなく大隊を動かしたのか。指揮官が暗殺されたというのに。


 そこまで考え、ふと思考が止まった。思わず、視線をゆれる天幕に向ける。灯りがない、という文言がべルキウスの脳裏をよぎった。あの獣はいつ、敵の指揮官コマンダントを殺したのか?


 そのとき、強烈な音がまた思考を中断させた。風だった。風が天幕を揺らし、猛烈な音で布がはためいている。杭が抜け、幕の一部はまくれ上がっている。兵が慌ててそれを抑えにいく。


 いつの間にここまで強くなったのか、ベルキウスは虚を突かれたように思った。他所よそでも同じようなことになっているのか、兵らの声がかすかに聞こえる。いやな予感がした。べルキウスは幕から飛び出す。瞬間、猛烈な雨が顔面に吹きつけてきた。


 腕をかざして、周囲に目を凝らす。灯りがないので、見えるものはほとんどない。それでも動く人影と声が、自分の想定を遥かに超える事態を思わせた。


将軍レガート、中へ」


「荷駄は」


「はい?」


 べルキウスは声を張り上げる。


「荷駄は。糧食は。武器は」


「報告にはありませんでした」


「違う。全隊に伝令せよ。天幕を畳め。全体を北に移動。東にかけて、高地の麓の雑木林に非難するのだ。終われば、すみやかにすべての物資を、あるだけの布で覆い、補強せよ。杭でも、石でも、なんでもいい」


 兵士が駆け去る。そのころになってようやく、他部隊の伝令が駆けてくる。べルキウスはすべての隊に同じ指示を出した。すでにグラウの隊は動き出している、というのが、混乱する中で唯一はっきりと記憶したことだった。その報告を受けている間に、目の前の天幕が二張り、吹き飛ばされる。柱が倒れ、誰かが下敷きになっている、と声が上がる。


「まこと、水の神の祟りか、これが」


 思わず自分の口から出た言葉に、べルキウスは首を振った。そんなはずがない。いまは火の季節イグニスである。火の神の加護を受けている自分たちが、この程度のことで狼狽うろたえてなるものか。この風は、赤き竜のご加護であるはずだ。


 そこまで考え、次の指示を出そうとしたところで、あっという声が聞こえた。頭の後ろに強烈な衝撃がある。火花が散る。そして視界が暗くなる。声を上げる間もなく、べルキウスは濡れた大地に倒れ込んだ。


 次にべルキウスが見たのは、祖国の砂丘だった。


 どこまでも続いていく波のような砂。雲一つない空に太陽が輝き、熱を吸い込んだ砂は生きものの皮膚のように輝いている。命はないのに、生きているように感じるあの砂の大地。ひとりで、べルキウスは立っていた。砂を掴む。指の間から零れていく。


 私は、帰ってきたのか。しかし砂の熱は、べルキウスの知っているものではない。砂は、冷え切っていた。そして轟音が聞こえてきた。顔を上げる。信じられないものが目に映る。


 砂丘が、揺れている。轟音とともに揺れ、砂の中から木々が生え出してくる。緑の木々。太い褐色の幹。高木も低木も、葉や蔦についた砂を振り落とすように、揺れて伸びる。


 気付けば足元は水に浸っている。砂はなく、泥が足に纏わりつく。いや、脚が沈んでいく。泥の中に自分は飲まれている。べルキウスは叫び声を上げた。


「べルキウス殿」


 声がした。男の声だった。兵士の顔があり、自分を覗き込んでいる。自分は、地にからだを横たえているらしい。躰を起こそうとして、頭に激痛を感じる。再び倒れそうになったべルキウスを、兵が支えた。そのまま寝かされる。視界には黒々とした木々が映る。木々の間から灰色の空が見えている。


 そこは森だった。砂丘でなければ、泥の中でもなかった。ただ、泥の匂いはある。泥と、濡れた植物の香りが不快だった。


 兵はもう一人いて、何かを叫んでいる。誰かを呼んでいるらしい。その声で頭の痛みが増す。黙れ、と言ったつもりだったが、うまく声が出ない。


 別の兵が来て、べルキウスの頭を触る。やはり後頭部に触れられると、強い痛みが走った。そのころになってようやく、それが衛生兵の手だと気付く。頭に布が巻かれているのも分かった。


「ここは」


「森です。ご指示通り、東の灌木のある地帯に全部隊、集結しています」


「私は、気を失っていたのか?」


「はい。天幕の柱が、将軍レガートの頭を打ったのです。止血は済ませていますが、動かれないよう」


 柱。風が天幕を倒したのか。それで自分は打たれた。それからの記憶はない。その説明を求めると、兵は口籠くちごもった。べルキウスは、先を促した。


「我が軍の野営地は、嵐によって大きな被害を受けております。ご指示があったので、避難は完了しておりますが」


「敵は」


「行方は、もう知れません。朝になって雨が止み、ようやく風も収まったのです。周囲の哨戒も、たった今再開されたところです」


 べルキウスは、からだを起こした。兵が声を上げ手を差し伸べてきたが、それを払う。頭の痛みを、燃えるものが抑え込んでいる。立ち上がる。自分以外の将軍レガートを呼べ、と言うと、兵は何も言わず駆け去っていった。


 何があったのか、知らなければならない。報告は、やがて次々と届けられた。


 夜間の嵐は尋常ではなく、すべての陣で被害があった。天幕が崩れ、吹き飛んだだけならまだしも、輜重が倒れ、物資が飛ばされることもあったらしい。それでも無事であったものは、いま森の中で留め置かれている。これから飛ばされたものの回収に向かう部隊がある。攻撃部隊のうち、グラウの隊の動きは迅速で、森にいち早く退避し嵐が過ぎるのを耐えた。アレスの遅かった。街道にほど近い、開けたところに展開させていたから、嵐から逃げられるようなものが無かった。それで人、物資ともに大きく被害を負った。オーリオの隊から、連絡はない。


 倒木に腰かけ、べルキウスはそれらの報告をすべて頭の中に刻んだ。書き留めるものもない。しかしそうしているうちに、頭の熱は冷めていく。


 物資の被害が甚大だった。とくに、糧食については水を吸ってだめになったものも多い。鉄の武器は回収できるかもしれないが、食い物については難しかった。リューデスハイムで奪った穀物も、かなりの量を飛ばされ、潰されている。人については、まだよく分からない。負傷した兵はどれほどいるのか、使いものにならなくなった者はいるのか。


 馬蹄の音が聞こえる。顔を上げたとき、巨大な馬と、そこから降りる巨躯の男がいた。


「おまえの隊は、ましな方だな、グラウ?」


「木に打たれて眠っていた男が、偉そうな口をきくな」


しくもわれらは、ファルク・メルケルと同じ状況になったというわけだ」


「ふざけているのか、おまえ?」


「あちらは糧食を火に焼かれ、こちらは水に沈められた。進軍はできん」


「ならん。すぐに敵を追う」


「追えるものか。昨晩の時点で、すでに捕捉しきれぬところまで、敵は動いている」


 グラウの巨大な手が、べルキウスの胸倉を掴んだ。こいつもまた獣だな、とべルキウスは心中で溜息をく。


「おまえが幾日も手をこまねいていたから、こうなったのだ」


 べルキウスは、何も答えなかった。


 どう返答しても、この獣の怒りは収まらない。そして、どう返答しても、もう敵には追い付けない。失ったものも戻らない。考えるべきは、進軍をどれだけ早く再開するかであって、誰のせいでこうなったのか、ということではない。あえて言葉を返すなら、神の采配であった、としか言いようがなかった。


 グラウの眼光が射抜いてくるのを、冷然とした気持ちで見つめ返す。恫喝される自分の姿を、中空からもう一人の自分が見下ろしているような心持である。いや、自分だけではない。何が失われ、何をすべきかということも、きわめて落ち着いて考えようとする自分がいる。敵を追い、ブラウブルクにたどり着くために何が必要なのかだけ、考えればいいのだ。


 あの獣どもに恐れを抱かなくなった。我が国随一の猛将についても同じだ。もしかすると、自分はすでに何か大きなものを失ったのかもしれない。それで、失うことそのものへの感慨も湧かなくなったのかもしれない。べルキウスは思った。


 首筋を温かいものが伝う。頭の傷が割れたらしい。それを見てグラウの眼のが、僅かにかげった。おやめください、という兵の声。


「何をしている」


 一際大きな声が響いて、誰かがべルキウスとグラウを引き離した。太く、傷に覆われた腕。将軍レガートアレスの呆れた顔が、二人に向いていた。グラウが咆哮して付近の樹を殴りつけるのを、べルキウスは冷めた眼で見る。


「べルキウス。おぬし、頭をどうした」


「なに、この獣に割られたわけではない。おぬしの隊はかなりやられたらしいな」


「そうだ。なにせ雨風がひどかったのでな。心をやられた兵もいる」


 故国にはない雨、風。気持ちは理解できないが、心に傷を負う兵が出るのは、予想ができた。そういうものも含めて、考えるべきはまず、回復である。


「オーリオは?」


「わからん。まずはここに合流してきた。動ける兵を使って、遠くまで探索させる」


 アレスがそう言う背後で、兵らのどよめきが起こる。大木が音を立てて倒れていく。大剣を抜いたグラウが、肩で息をしていた。


「聞いたか、グラウ」


「探索だな」


 先刻までの猛りようとはまるで違う、落ち着いた声色で返答がある。これがグラウ・ティグリスという男だった。アレスが眉をひそめる。心根まで武人らしいこの将軍レガートと、心のうちに虎を飼っているグラウの相性は、良いわけではなかった。


「敵が退いたのなら、街道が使えるようになっているだろう。この有様では、もう丘を越えることはできまい」


「私の部隊は負傷兵の救護と損耗した物品の回収に充てる。おぬしらの隊は交替で周囲を探索させ、宿れる場所を探してほしい」


「異国の山間だ。そう簡単には見つからんぞ」


「それでも、なんとかするのだ、アレス。こうなっては、休息を取らぬわけにはいくまい」


 それがどれほどの長さになるのか、またべルキウスが考え始めたとき、馬蹄の音とともに別の声がした。駈けてきたのは二名の兵士であった。


将軍レガート各位に報告」


 街道に異常あり。聞いて、すでに馬に跨っていたグラウが、間の抜けた声を上げる。べルキウスとグラウは顔を見合わせた。直後、アレスが馬に飛び乗った。兵に馬をいてこさせる。グラウとアレスの姿はもうない。べルキウスは手綱を取って後を追った。地図は吹き飛ばされたが、頭の中にはまだ克明に図面が残っている。


 この灌木のある一帯から東を回ることはできない。すでに調べてあるように、この先は谷になっていて、斜面がほとんど崖のようになっている。荷駄はおろか馬も通行できない。一方で西を回っていけば、“青の道ブラウ・シュトラーセ”に抜けられる。つまり、この丘陵地帯から北へ進むには、街道沿いに北上するしかないのだ。


 しかし、土砂の色が視界を覆いつくす。


 見えてきたのは、竜がその爪で抉りとったかのように斜面の崩れた山と、もう一つ丘ができたのかと思えるほどに堆積した土砂だった。泥と土、岩の上には、根ごと滑り落ちてきたのであろう木々がまた積み重なっていて、見上げるほどの高さにまでなっている。それは街道を覆いつくし、見える範囲では、もはや通行できそうなところは無い。道は完全に崩れ去っていた。巨大な爪が引き裂いたかのように地が割れ、陥没しているのだ。土砂の重みでそうなっているのか、それとも雨風が削ったのか、わからない。ただ、この土の山と谷を越えた先も、同じような光景が広がっているに違いない、とは思えた。


「これは」


 アレスが言いかけたとき、また山から土砂が滑り落ちてきた。三騎で、慌てて離れる。降ってきた土と木々がすでにあるものを押し流し、地が揺れる。取り巻くようにして見ていた兵らの悲鳴が上がる。グラウも、そして気づけばべルキウスも大口を開けていた。


「竜よ」


 誰かの呟きが聞こえた。


 それは赤き竜の加護を求める声なのか、青き竜への怨嗟の声なのか、わからなかった。

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