剣と死、少女の内側に
なにが起こっているのか、すぐには理解できなかった。
目の前で男が倒れた。
鎧が土の上に倒れる音がして、それがどこからともなく、いくつも聞こえだした。荷駄の向こうでも声が上がった。うめき声のようだった。しかしそれも一瞬のもので、カヤの耳には、ただの音のように入ってきただけだった。
また目の前でひとり、男が倒れた。剣を抜こうとして、その前に刺されたので、手が柄にかかったままであった。
だから、警護を任されたのではなく、警護されるのが自分たちであるのだということに、すぐに気が付いた。レーヴェンが自分をだましたのだ、とは思わなかった。自分が、
走っているうちに、思考が戻ってくる。
歯痒いとか悔しいとか、そんなことを考えるような資格は、自分にはなかった。それが、いまわかった。その証左に、自分はいま、逃げているではないか。
同じ義勇兵たちと行き会ったところで足を止めた。走ってはならない、と誰かに咎められた気がした。同じ義勇兵の大柄な青年が、驚いた表情でカヤを見つめている。
「敵が」
「なに?」
「兵がやられた。死んでる。何人も」
「おい、落ち着けよ、カヤ」
声を聞きつけて、他にも男たちが集まってくる。皆、レーヴェンのもとで戦い、負傷してここにいる兵たちだった。カヤのことは皆が知っている。慌てている様子に、頬を緩める者もいた。冗談か何かだと思っているらしい。苛立ちから同じことを捲し立てるように繰り返すと、男たちは互いに顔を見合わせた。
「見ろ」
ちょうど、青い鎧を身に付けた男が隊の前方から走ってきた。彼はカヤの走ってきたほうを指差し、叫ぶ。カヤも振り返る。煙が見えた。黒煙が晴天に昇っている。
兵糧が燃やされているのだ、と兵が言った。それで、銘々が声を上げはじめる。カヤを
そこで、駆け出そうとした足が止まった。
燃えているのは、兵糧なのか。たしかに、輜重が燃えていればそうなのかもしれない。しかし輜重には兵糧以外に武器もあれば、幕の準備もある。カヤは煙を見上げ、なぜか兵の叫んだことを
自分より早く、状況を察知した者がいたのか。カヤは
自分が思っているよりも、事態の進行が早すぎる気がした。ただ、気のせいかもしれない。確かめようとして、カヤは走ってきた兵を振り返った。
白刃が、自分に向かって振り上げられていた。
咄嗟に、身を
地を転がり、兵を見上げた。先刻見た兵士と同じ眼。剣先が迫ってくる。叫び声をあげ、カヤは闇雲に剣を抜いた。打ち合った感触がある。感触があるだけで、何も見えていない。ただ、自分は剣を振るっている。
レーヴェンと立ち合ったときの光景が、一瞬だけ脳裏を
剣が弾き飛ばされた。どう打たれて手から剣が離れたのかもわからなかった。
剣身が陽の光を返している。ただ、死ぬと思った。
敵の背に飛びつく者があった。もがく敵兵が腕を振るい、剣が
「殺せ」
先刻、カヤが言葉を交わした大柄な兵士だった。自分の握りしめている剣で斬れと言われていることが、遅れて理解できた。剣は震えていた。自分の手が震えている。抑えようと思ってもうまくいかない。
「おい」
男が、必死だった。その声が耳に届いたのとほとんど同時に、カヤも叫び声を上げていた。敵兵に駆け寄る。剣を振りかぶり、肩から斜めに斬り下ろした。血が噴き上がった。思わず、カヤは眼を
「胸を突け」
男の声が止んでいない。眼を開けると、敵兵がまだもがいていた。斬ったはずだった。しかし、死んでいない。浅かったのか。カヤは、息がうまく吸えなくなった。
仲間の男が、叫び声を上げた。カヤの呼吸が止まった。敵を羽交い絞めにしていた腕が
男が崩れ落ちた。その背の向こう側に、別の敵兵が立っていた。男が背後から斬られたのだと、カヤにはようやく分かった。
二人の敵兵が自分を見つめている。足が竦んで、もうカヤは動けなかった。
「赤き竜の
そんな言葉が聞こえてきた。どういう意味なのか理解できない。自分の死を意味しているのかもしれない、と思った。
その敵兵二人が、次の瞬間、棒きれのように真横に吹き飛んだ。槍で突かれていた。横から突っこんできたのは、黒衣の騎馬兵だった。
「殲滅」
騎士の号令で、次々と騎馬兵が現れる。カヤの視界が、瞬く間に土煙に
「立て」
声がして、見上げる。レーヴェンが、自分を見下ろしていた。カヤは立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。気が付けば、脇を抱えられて立たされていた。
「殿」
「おまえをここに置いていた私が間違いだった」
そう言い残し、レーヴェンも駆け去っていく。肩を叩かれた気がしたが、それがどういう意味なのかは分からなかった。ただ、間違いと言われたのだけが耳に残った。茫然とするカヤのところまで、追い討て、とか、消火、とかいう声が届いてくる。消火だ。火を消さねば、と思った。ぼんやりとしたまま、輜重隊の後方を見遣った。
煙がまだ上がっていた。はじめに見たときより、随分と濃く見える。青い空を覆うような黒煙だった。煙から眼を逸らし、振り返る。地に倒れたままの
おまえが敵を殺さないからだ、と言われている気がした。
敵の殲滅があらかた終わったらしい。カヤは、義勇兵の一団とともに待機を命じられた。呼び出されたのは、陽が暮れかかったころだった。レーヴェンともに、青い鎧の中をかき分けるように歩く。指揮官が状況を確かめたがっている、とレーヴェンは言っていた。
「なぜ、私に」
「おまえ以外は死んだからだ」
信じ難い思いで、カヤは足を進めた。
「カヤ・ヴルストです」
「何があったか証言せよ」
何の感情も向けられていない、とカヤは直感した。氷の針で胸を刺されたようだった。
「申し訳ございません」
「証言せよ、と私は言っている」
反射的にカヤが詫びの言葉を口にしても、ファルクは意に介していないようだった。
「カヤ。指揮官殿は、あったことを申せとおっしゃっているのだ。覚えている限りでよい」
レーヴェンがカヤの隣で、低い声で言った。
そこから、自分が何を喋ったのか、カヤは自分でも分らなかった。ただ、断片的に記憶していることを並べて話した、という気がする。
「おまえは最後方ではじめに敵兵を見たのだったな?」
「はい」
「赤い竜、と敵は確かに言ったのだな?」
「はい」
「わかった。もうよい」
ファルクがまた卓に視線を戻したので、話は終わったのだということがわかった。咎められることも、罵られることもなかった。輜重隊を守ることができなかったというのは、どうでもよいのだろうか。
「もうよい、カヤ。戻っていなさい」
レーヴェンに言われ、カヤの足はようやく動く。一礼し、俯いたままその場を後にした。レーヴェンが、
戻っていろ、と言われたが、どこに行けばいいのか分からなかった。自分の、つまりレーヴェンの隊の者とともにいろということなのだろうが、とてもそんな気分にはなれなかった。どこへともなく、カヤは歩き出した。
ザラ平原の西の端といったところで、街道がすぐ近くに見える場所である。東はこの度の戦闘が起こったところで、いまも遠くには動き回る人や馬が見える。戦の後始末というのも、カヤには分からないことだった。
周囲の野原は焼けてしまっていた。ただ、直接に燃えたのが荷駄などであったために、大規模な火災になってはいない。ただ、草が広大に黒く変色していて、火事があったことが一目でわかる。
焼けた輜重を積んでいた瓦礫は、野晒しになっていた。燃えてしまった木片などを処理するのは、どうしても後回しになるらしい。周囲にも、ほとんど兵はいなかった。その瓦礫が積まれたように折り重なっているところに、カヤは
夕日が落ちていく。何かを考えようとしたが、できない。仲間の、最後の叫びが不意に思い起こされる。それを掻き消そうとして、戦のことなどを考えようとするが、またそれも消えていく。
故郷のことを考えた。焼き払われたというのを聞いたのは昨日である。カヤの記憶に残っている最後の街の姿も、赤く燃え上がっていた。あの、海から敵が波のようにやってきた夜である。だから、焼き払われたと聞いて、見たわけでもないのに、まざまざと光景が思い浮かぶのが苦しかった。
あの街には家族はいない。父も母も死んだ。母の遺骸は街でどうなったか知れない。家の者たちもどうなったか、行方知れずのままである。それでも、ポルトは故郷だった。友もいた。家族のように親しい者は大勢いたのだ。それを焼いた敵軍を倒すのが、生き残った自分の役目のはずだ。それが、今日の振る舞いはどうだ。敵に背を向けて。あのとき自分は、状況を知らせると言いながら、逃げたのだ。
「出てこい」
声がして、思考が中断された。レーヴェンの声だった。瓦礫に埋もれるようにしていたカヤを、呆れたような声で呼んでいた。しかし、立ち上がれない。力が湧いてこなかった。
レーヴェンはそんな様子を見て、息を一つ吐くと、カヤの隣に座り込んだ。
「他の者たちの証言からすると、やったのは
彼は自分に向かって話している。内容は、唐突でよく分からなかった。
「
「内側に」
「おまえの感じたことは、的を射ていたということだな」
レーヴェンが自分の背を叩いたが、カヤには、何が何だか、理解できなかった。自分が何を言ったのか。もう、憶えていなかった。
「申し訳ございませんでした」
黒く焦げ付いた地を見つめ、出てきたのはそんな言葉だった。
「なぜ詫びる」
「私は、戦うことができませんでした。仲間も亡くして」
仲間を失くした。負傷していた仲間。それでも自分を守るために、敵に飛びついた仲間だった。
「絶対に戦ってやると思っていたのに。私の手で街の皆の仇を取ると決めていたのに。戦うこともしなかったのです、私は」
声が震え、何を話しているのか聞こえなかったかもしれない。しかしレーヴェンは、聞こえているといったふうにまた息を吐くと、立ち上がった。立てと言われた。強い口調だった。カヤは、反射的に立ち上がった。レーヴェンの眼がこちらを見つめている。ファルクのような鋭さはないが、強い光があった。
「誰に詫びているのだ、カヤ」
レーヴェンの声は低く、ゆっくりとしたものだった。
「死んだ友にか。私にか。指揮官殿か。私は、輜重が燃えたことがおまえのせいだとは、一度も言っていない。それともおまえは、そう言うことで、自分の心に詫びているつもりか?」
カヤは言葉に詰まった。
「戦で、詫びて得られるものなど、ない」
カヤに、まるで
「それが戦だ。おまえが身を投じようというのは、そういうところだ。おまえが死んでも、私は詫びぬだろう。戦いの中で死んでいったなら」
また、死んだ仲間の瞳が思い出された。
「私が日頃から言っていることを申してみよ。われらに何ができる?」
「死んだ者を忘れない」
カヤが即答すると、レーヴェンは頷いた。毎日言われていることだった。死した者のために戦う。死んだ者が神の
彼の顔の半分を夕陽が照らしている。
「おまえは、今後も前線には出さぬ」
言われても、カヤはやはりと思うだけだった
「私の従者として従軍せよ。いまのおまえは、兵士ですらない。
「はい」
「抜かりがあれば容赦はせぬ。調練にも出さぬ。そうして考えよ。おまえが、どうあればよいのか。街のために戦う方法は、剣を取るだけではない。おまえに、剣はまだ不要である」
人を斬った。はじめてのことだった。いやな感触だった。殺すためにどれだけの力で斬ればいいのかも知らなかった。そのせいで仲間は死んだ。自分は生きている。剣を持つ資格はない、とはっきり思った。
カヤは、腰に差した剣を外した。それを差し出すと、レーヴェンは一度だけ頷いてそれを手に取ってくれた。
「剣が必要なとき、おまえの心が
「すべてお任せします、殿」
そう言ったとき、言葉と一緒に何かが溢れそうになった。それでも、溢れさせるわけにはいかないと思った。
レーヴェンの眼はまだ、カヤに向いている。何を言われても仕方ない、とカヤは瞳を見つめ返した。
「未熟なおまえには、師が必要だ。このレーヴェンは、いまよりおまえの師である」
「はい」
「そして、父亡きおまえの、父であるとも思え。私には娘がいるが、おまえもまた、娘のようなものだ」
「それは、そんな」
どう言えばいいのか、カヤには分からなかった。ただ、
レーヴェンがカヤの頭に手を置いたとき、息が詰まるような思いがした。
「ポルトのこと、辛かろう。おまえには、それだけでも重すぎる。剣はまだ、私に預けよ」
堪えていたものが、カヤの内側で破裂した。もうどうにもならなかった。レーヴェンの顔がぼやける。
気付けばカヤは、声を上げて泣いていた。
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