懸けているもの
丘の
点は丘を
自陣から出て行った騎兵だけが、こちらに引き返してくる。
「丘二つを越えた所に陣を組んでいると」
戻った斥候の表情は固かった。
「臨戦態勢」
レーヴェンが言い、部下の数人が駈け去っていく。すぐに、伝令は小隊ごとに伝わる。陣の組み方は伝えてあった。歩兵が前列、弓部隊がその後列。長い槍を持たせた重装備の歩兵が最前、騎馬隊は少ないが、さらにその側面にいる。複雑な陣は組めないし、意味がないと思っていた。皆、義勇軍と傭兵からなっている部隊である。歩兵は義勇兵が最前に段を組み、傭兵は後段であった。
この部隊の士気はまちまちである。たとえば、自分の
戦場ではよくあることだった。それをまとめろと言う。ファルクが自分のことをどういう目で見ているのか、レーヴェンにはよくわかった。歳下の指揮官が自分に信を置きはじめている。奇妙な感覚だった。
そのファルクとギルベルトの率いる本隊は東、ハイデル軍が南。敵に気取られない位置にいなければならないというので、離れたところに布陣しているはずである。ここでは迅速に、鮮やかに勝たねばならない。
ポルトが奪回されたという報せは三日前に届いている。“
「奪い返したのか、また奪われたのか、わからんな、レーヴェン」
「奪われたのさ」
ハインツ・ヴィルトという、副官を務めさせている男だった。ノルンからここまで、ずっと行動は共にしている。戦の経験などない山人のひとりであったが、それなりに順応できている。見込みは間違っていなかった、とレーヴェンは思っていた。
ポルトが焼き払われた、というのは、敵の接近と時を同じくして伝わってきた。ヴォルフラム・スタークが相当、苛烈に追い込んだのか。あるいは初めからそうする手筈になっていたのか。
自分が、一度は助けようとした街だ。そして幾人もの軍人が命を懸けた街でもある。それが焼けた。奪われたものが戻ったわけではない。ただ、敵の進入路としての機能を奪ったというだけである。虚しいと言うべきか、悔しいと言うべきなのか。しかしいずれでもないような気がする。
「民の安否だけが、気がかりだ」
「ヴォルフラムってのは、どういう男なんだ?」
「街を焼いたのがあの男だと言われても納得する。そういう男だ」
実際、敵の攻め口となるくらいなら街ごと消してしまえ、とでも言いだしそうな男である。真実は、知りたいようで、知りたくない気もした。民だけは何かのやり方で生かしていると信じたい。
海上はそのヴォルフラムらの船団が封鎖しているという。ともかくこれで、陸と海の両面において、敵の増援は絶った。本隊は都にほど近いところまで攻めあがっている。ここに現れる二万弱の兵はもう、本隊に合流するしかないのだ。街は不要で、命を懸けてここを突破しに来るだろう。
「腹は立たないのかい、ヴォルフラムに」
「どうだろうな。われらとて、あの街を救えたわけではない。だから、腹を立てるというのも、違う気がする。カヤに聞けば、また別のことを言うのだろうが」
ハインツは、同意するように頷いた。
「あの娘は不憫というほかない」
故郷が失われたということは、すでにあの娘にも伝わっているだろう。彼女は、いま離れたところで輜重隊とともに待機させている。戦場に剣を持って立たせるには、まだ無理がある。鍛えるために戦うような相手ではなかった。
「丘の向こうの二万は、先に都へ向かう敵のための
ハインツはレーヴェンが言葉に込めた皮肉を感じ取ったようで、薄く笑った。
「俺たちが贄か。せめて
「猟師らしいな。しかしここは山ではなく原野だぞ、ハインツ」
「原野にだって獣はいるさ」
二人で低く笑い声を上げた。齢も自分と変わらない男で、長くノルンの街で共に過ごした間柄である。自分の息子のレオンと、彼の子であるサントンも同じような仲を築いている。隊長と副官という立場だが、友でもあった。
「
「それしかあるまい。しかし、全滅させるというのは、並大抵のことではない。時はかかるし、無傷では済まぬ。死を前にした人間のなりふり構わぬ姿を、見たことがあるか」
「いや。あいにく俺は、猪や鹿の死に際くらいしか見たことがないのでな」
「すさまじい。われらが相手にするのは、そういう兵だと思え。そしてわれらが戦う間に、本隊は北で戦える。我々は犠牲を払ってここで敵を全滅させるか、合流を阻止するためにまた、動かねばならぬ。つまり、いずれにしても本隊には時が生まれる」
「捨て置くというわけにもいかんのだろう?」
「さすれば背後から襲われるか、他の街を焼かれるかだろうな」
実際、それができると敵は示してもいる。ポルトの街は焼かれた。マルバルク城の近隣では略奪の限りが尽くされたという。結局、ここで徹底的に相手をしなければならない相手であるのだ。敵将がここまで考えていたのなら、その酷薄さには背筋が震えた。国軍という性質上、民を捨て置いて都に向かうわけにもいかないのだ。
そして全滅させることを考えると、三隊で圧し包もうというのは理に適っている。
「俺はな、レーヴェン。あのファルクという若者が末恐ろしいよ。兵の命を
「まあ、私も言えたものではない。北で戦っているとき、一隊を指揮している者は皆そういう考えだった。要するに、指揮官らしいということだ」
その答えは、自分でも軍人らしいと思えるものだった。そう言ってあの頃は、自分を納得させていたのだ。案の定、ハインツは面白くなさそうな表情になる。それを見て、レーヴェンは苦笑した。
「俺がついてきたレーヴェン・ムートという男は、軍人でも、領主でもない」
「そうだな。ただひとりの男になったからこそ、できることもある」
レーヴェンは馬に
「ポルト、ゼルロー、エアフルト」
レーヴェンは声を張り上げた。
「シュタット、ノーバー、リンゼンゲール、マルバルク、エベネ、ザラニア」
馬上から、レーヴェンは男たちを睥睨するようにしながら歩いた。
「何か分かるか」
どこからともなく街だ、城だという声が上がった。答えたことを
「そうだ。これだけの街が連中の餌食になった。おまえたちの中にも、街を焼かれた者がいるだろう」
声が少し大きくなった。
「ここで身を晒して、
レーヴェンは剣を抜き放ち、頭上高くに掲げた。
「私は軍人ではない。私は“雪の獅子”。獅子の勇気をもって、己の誇りのために戦う。おまえたちはなんだ」
次々に、喚くような声が上がり始めた。大きく頷いている者もいる。
「己のために戦え。街のために戦え。友のために、おまえたちの妻や子、愛する者のために戦え。軍のためでも、国のためでなくともよい」
両翼で一度に、槍が掲げられた。長槍隊だった。歩兵は剣を掲げる。二百の弓兵が矢を手に喊声を上げる。レーヴェンも叫んだ。
「来ます」
ちょうど、伝令がまた
「私の声をよく憶えておけ。まず、騎馬隊。それから、矢。第一段に長槍を出し、ぶつかった瞬間に、二段目、三段目と歩兵が突っ込め。決して、気合で負けてはならん」
レーヴェンは騎馬隊の先頭に駈け戻った。ハインツは逆の側面を指揮するために駈けていく。
敵の前衛が見えてきた。丘の上から駆け下りてくる。先頭は、騎馬隊だった。
「槍部隊、前進。号令に合わせろ。決して怯むな。馬の蹄などに、おまえたちは負けない」
左翼から、ハインツの部隊が飛び出してくる。レーヴェンの指示で、右翼からも騎馬隊が出撃する。ほんとうは、自分が騎馬隊を先頭で指揮したい。しかし総指揮をする以上、自分を含めた数騎だけは、ここに留まらざるをえなかった。
敵の騎馬隊は、後列になるほど広がる、
レーヴェンは剣を真横に振るう。今度は歩兵の後ろから矢が飛び出してきた。長弓である。天に弧を描き、敵の騎馬隊に矢が降り注ぐ。敵はそれでも、突っこんでくる。死を覚悟した兵。先刻、自分が言ったことを、レーヴェンは確信した。
「槍を出せ」
騎馬隊は猛然と迫ってくる。ただ、騎兵の攻撃と矢で、かなり勢いは削いだ。そこに、長槍部隊が、側面から迫った。ただ槍を出し、耐えよと言ってある。今更、敵は方向を変えられない。槍の包囲網に、そのまま突っこんできた。前衛が崩れはじめる。耐えよ。レーヴェンは叫んだ。悲鳴。馬の
「第二段」
レーヴェンの声とほとんど同時に、歩兵が喊声をあげて前進していた。落馬した敵兵や、勢いの止まった騎兵に襲い掛かっていく。敵の騎馬隊の後列が、状況を見て転回しようとする。しかし、そこに味方の騎馬隊が背後から攻撃をかけた。
「弓兵、剣を取れ」
敵の騎馬隊は、総崩れだった。しかし、その背後から歩兵がくる。一万五千と聞いていたが、騎馬隊を救おうとしているのか、こちらを目がけて一目散に駆けてきていた。
そのもうひとつ後ろに、土煙が上がっている。
「
敵の歩兵が突っ込んできた。こちらはもともと、五千ほどしかいない。押し包まれるのは、時間の問題だった。早く来い。レーヴェンは、心中でギルベルトを罵った。
何人かの敵が、槍を持ってこちらに向かってくる。向けられてきた槍を跳ね上げ、三、四人を斬り倒す。まだか。そう思ったとき、敵に明らかな動揺が走るのが分かった。
もうひとつ、衝撃があった。右のほう。また、騎馬隊だった。先頭で、黒衣の戦士が猛烈な勢いで敵を断ち割っている。ハイデル軍のアルサス・シュヴァルツだった。あっという間に敵は三分される。騎馬隊はもうほとんど残っておらず、二分された歩兵は殲滅されかかっていた。
しかし、潰走しない。ここからが、最後の一押しだった。分かっていたことだ。今更、敵は逃げない。死ぬまで戦うと決めた兵たちなのだ。異様な光景だった。誰一人逃げない。武器を飛ばされても、斬られても、貫かれても、である。一人ひとりの眼の光がこちらを射抜いてくる。気圧されているのは、むしろ味方のほうだった。
「これは」
思わず、声を上げた。レーヴェンも敵の中で剣を振るいつづける。一度は折れ、敵兵のものを奪い取った。敵の血で
「戦え。戦うしかないのだ」
言った瞬間、馬から振り落とされた。馬が、怯えたのだ。地面の上で、素早く身を起こす。そこに敵がくる。武器も何も持っていなかった。赤い鎧。血で赤くなっているのだった。その鎧ごと、レーヴェンは敵を貫いた。吐き出される血を、頭から被る。
剣を抜き、無心でさらに二度、三度振るった。まだ敵がいた。首を飛ばした。宙を舞う男の瞳が、自分を
その首が地に落ちたとき、戦場は静まり返っていた。自分の吐く荒い息の音だけが聞こえる。馬はもうどこかへ逃げていた。立っている者は、自分と同じように茫然としているか、地に視線を落としていた。レーヴェンは剣を投げ棄て、地に腰を下ろした。
勝鬨は、どこからも上がらなかった。どこかで馬蹄の音が聞こえるが、それだけで、あとは何もない。
「レーヴェン」
大柄な馬が近付いてきた。ギルベルトが下馬し、自分に手を差し伸べる。
「大したものだった。俺たちが着いたときには、もう敵の騎馬隊は壊滅に近かった」
レーヴェンは彼の手を取り立ち上がる。
「全滅か?」
「ああ、ほとんどな。逃げようとするやつがいなかったので、追い討ちというほどのものもない」
「勝ったのだろうな。だが、負けに近い感覚がある。なぜだろうな、ギルベルト」
「負けていない。馬鹿を言うなよ、レーヴェン」
そう言ってギルベルトは駆け去ったが、レーヴェンは勝ちを誇る気持ちにはなれなかった。傭兵たちには、かなりの犠牲を強いた。敵の騎馬隊が壊滅に近かったと言われたが、こちらは、あれが死力を尽くした戦いだった。一方で向こうにはまだ、歩兵が一万以上残っていた。よく耐えたと言えばそうだが、実際のところ、もう少しでこちらが全滅しているところだったのだ。敵の歩兵が殺到してきた瞬間。耐えられる、という思いが、一瞬だけ揺らいだ。それは、レーヴェンにとっては負けたことに等しかった。
「おい」
剣を拾い、部隊の確認に行こうとしたとき、どこからか叫び声が上がった。不意に緊張が走り、剣を持つ手に力が入る。
街道のほうで、煙が見えた。それが何なのか分かったとき、レーヴェンは駆け出していた。兵の叫びが聞こえる。
「敵がまだいる。応援を」
煙が上がっているのは、輜重隊が身を隠していた方角だった。
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