小さい花

 騎馬隊の動きに問題はなかった。


 ハイデル郊外の原野が、騎馬隊の調練のための場になっている。橋を渡った先は広くひらけていて、数百の部隊でも自由に動かせる。この野の先はムートの領地で、ノルンの街がある。思えばあの橋でリオーネと、彼女の兄を待っていた。ここで待っていれば会えると言い張るので待っていたら、本当に青年が現れた。あのときは、不思議な娘だと思ったものだ。もう半年も前になる。


 あの娘が眠っていたベイル・グロースを目覚めさせた。アルサスはそう思っている。理屈など分からないが、生と死の境目にいたベイルを生きるほうへ引き戻したのだと思う。大熊はまだ死なぬ、と彼は言った。本当に、どんなところからでも生きて戻ってくるのだ、と思った。


 自分にとっては、英雄だった。戦で名を上げ、ひとつの街、領地の守護を任される。アルサスが軍に飛び込んだ時に思い描いていた夢を、そのまま形にしたような男だったからだ。そんな男が死んで、自分が後を任された。戦においては、おまえがすべて引き継げと言われたのだ。駆け回る騎馬隊も、ベイルの部隊から引き継いだものである。自分の騎馬隊は、いまは街で休ませている。


 この部隊を率いて、必ず、あの赤竜軍レギオを粉砕する。指揮官コマンダントファルクと作戦を合わせたとき、アルサスは固く誓ったのだった。


 騎馬隊が自分のもとに駈け集まってきた。動きに不備はない。“大熊”の鍛えた兵士だ。


「決戦はまもなくだ」


 兵に向かって、アルサスは言った。


「いや。決戦ではない。はじまりだ。まずは弔い合戦である。そののち、都ブラウブルクにも馳せ参じよう。ベイル殿の憂えたこの国の帰趨きすう、われらで決めようではないか」


 兵が声を上げる。士気は戻っていた。ベイルを失ってしばらくは、こうではなかった。当然だった。だがそれも、兵たちと語り尽くすことで前に向けた。


 街に戻る。道中、アルサスは叛乱のことについて考えていた。ディックから聞いたときは有り得ぬと思ったが、あのザラでの戦いを冷静に思い返すほど、不審な箇所が見えてくる。


 ポルトやゼルローなど、各所の軍を撃破し、寝返らせ、ハイデル軍も、ヨハン・ベルリヒンゲンの遠征軍も退ける。そんなことを、いかに精強と言ってもたった四万や五万の兵で成し遂げられるとは思えない。裏で絵図を描いている者がいると考えれば、あの森で背後を取られたことも、味方に剣を向けられたことにも、得心がいく。なにより不審なのは、ベイルだけが狙って殺されていることだった。赤竜軍に、そんなことをする必要があるとは思えない。彼が殺される必要があるとすれば、やはり何かを知ったか、気づいたからだと考えるべきだろう。


 軍営では、多くの兵が準備を続けていた。小隊で練兵場に向かう者がいたり、黙々と県や鎧を磨く者がいたりと様々だが、戦の前とあって、空気は張ったものになっている。とくに次の戦には、皆が懸けているものが大きい。建物内や裏でその兵よりも忙しくしているのが、職人たちである。とくに矢など、消耗品のことには彼らが欠かせない。戦場に赴かない彼らも、思いは同じだった。アルサスも職人たちが黙々と作業に取り組んでいるのを、ぐるりと見て回る。誰も、怠けているものはない。


種子毒カンテーラだ」


 養生所で、ドミニクに呼び止められた。戸口に座り込んで、頬杖をついている。怠けているように見えるのは、この男くらいのものだ。ただこれは、いつものことでもあった。唐突な物言いもいつものことで、聞き流すと面倒なことになることも分かっている。


「なんです?」


「だがな、あの強度の毒を含んだ種は内地にはない。もともと、暖かい地方にだけ生える木が持っているものだ。思うに、“火の季節ブレンネ”の」


「何の話ですか、先生」


「阿呆。指揮官コマンダントを殺した毒に決まっているだろう」


 毒。その言葉で、話半分に聞いていたアルサスはようやく聞く気になった。


「それで」


「“火の季節ブレンネ”に種子を実らせる種類の木は、南の沿岸部にしかない。つまり彼奴きゃつは、指揮官殿を殺すために、わざわざ種を内地に持ち込んできたということだな」


「南の、沿岸部」


 リューゲン・ヴァイプはポルトからの軍人崩れであったというから、ドミニクの論は正鵠せいこくを射ているのだろう。


「問題は、この種子から毒を取り出す方法だな。何しろこの強さだと、触れただけで皮膚に異常をきたす。ひとりの軍人崩れにできるようなことじゃねえ」


「毒刃などは、見ないわけでもないですが」


「おまえの言う毒刃ってのは、せいぜい昏倒させるとか、嘔吐させるとか、その程度のものだろうが。種子毒カンテーラは心の臓に、直に利く毒だぜ。指揮官殿が倒れてから心音が止まるまで、ほんの一時いっときだったと言うじゃねえか」


 ベイルがたおれたのは、アルサスがザラの戦場から離脱している頃だったのだという。クラムの村で落ち合うことにはなっていたから、残っていた部隊をまとめてから向かったのだ。到着したときには、もうベイルのからだは硬く、冷たくなっていた。


「背後に何者かが?」


「さあな。そんなことは知らん」


 先刻までの熱を帯びた話しぶりが嘘のように、ドミニクは吐き棄てる。ほんとうにこの男は、医のこと以外に関心がないのだ。


「調べるのは、尋常でないことであったと思います」


 アルサスは、草臥くたびれた背中に言葉を投げた。毒の成分を調べるためには、その毒を受けたからだの中をよく調べるしかない。彼がそのために何をやったのかは、かずとも想像がつく。自分には、とてもできそうになかった。


「俺はな、あれがここの指揮官コマンダントに就いたときからここにいる」


 背を向けたまま、ドミニクはどこか上の方を見ていた。


「あんな男でも死んだんだ。次に同じ手をつかわれたら、皆死んじまうだろうが」


 言い方は悪いが、要するに、残された者たちのためにやった。そう言いたいのだというのが、アルサスには分かった。


「よく休まれてください。お疲れのようだ。言葉にいつものような毒がない」


「黙れ、小童め」


 ドミニクは振り返ると、アルサスを指差した。


「おまえこそ、倒れそうな顔をしている。毒なぞつかわなくともな」


「この程度で」


「兵どもを見ろ。おまえよりよほど、戦場では役に立ちそうだ」


「先生」


「おまえは、息の抜き方を知らん。女の影もないし」


 何も、アルサスには言い返せなかった。たしかに、疲れはある。女のことはともかく、息を抜いていないというのは、もっともだった。あの敗戦から、休んだ日がない。休むことなどできるはずもなかった。自分は、一兵士とは違う。彼らが休んでいる間も、働かねばならない。


「戦の前です、先生」


「あの男なら言うだろうよ。戦の前こそ休めと」


 ベイルの顔が思い浮かんだ。休め。彼がそう言っている姿が容易に浮かぶ。声すら聞こえるようだった。思い返せば、そんなことは何度も言われていた。矢も弦の張りが弱ければ落ちる。弦を張り直すのは、戦場いくさばから離れたところにせよ。


 ドミニクが去っても、アルサスは束の間、言われたことを反芻はんすうしていた。


 翌朝、アルサスはディックに断って、街を出た。意外に、大隊長オフィツィアの返答は軽いものだった。日暮れには戻って来いと言われただけだ。それで、自分がどれだけ気を張りすぎていたのか、アルサスにはようやく分かった気がした。自分の部隊は小隊長ごとに預け、黒鋼シュタールまたがった。


 剣だけを身に付け、晴天の下をけた。鎧も付けていない。軍服も、置いていけとディックに言われた。いま、アルサスを見て軍人だと思う者はないだろう。


 街道を北上する。行きたいところは決まっている。クラムまでは半日駈ければいい。道に沿う川が、朝の陽射しを跳ね返している。


 あの小さな村に行くとは、誰にも言っていない。理由を尋ねられるのが嫌だったからだ。ベイルがたおれた場所をおとなって、気持を整理したい。第一の目的はそれだったが、また別に、気になっていることもあった。そちらは、誰かに言えたものではない。


 集落は、以前に訪れたときから変わらず、閑散としていた。馬で乗り込むアルサスを一瞥はするが、こちらがそのまま通り過ぎれば、何も言ってはこない。外から入ってきた者への接し方も、相変わらずといった様子である。


 集落のはずれ、川辺の小屋。ベイルが死んだのはそこだと聞いていた。小屋などいくらでもあるが、不思議とそれがどこなのか、誰に聞かずとも行きつくことはできた。避けられるように、その近辺だけ、とくに人気ひとけが無かったからかもしれない。戸も開いたままになっている。


 中に入る。暑い季節だというのに、ひんやりとした空気が溜まっているように感じた。何もない。しかし床には黒いものが染みのように残っていて、血が流れたことだけは分かる。


 それを見て取ったとき、アルサスは半日かけてここに来たことを後悔した。いなくなった人間がいることを、改めて感じただけだ。すぐに小屋を出た。戸口で目を固く閉じ、開く。後手で戸を閉めた。開いていたのが悪かったのだ。誘われるように、入ってしまった。


 黒鋼シュタールが鼻を鳴らしていた。言わないことではない。そう言われているようで、アルサスは笑ってしまう。


「人間とはこういうものだ、黒鋼シュタール


 そのたてがみを撫でてから、くらに跨った。そこで視界の端に、場に不釣り合いなほど鮮やかな、黄色が見えた。小さい花が、摘まれて小屋の陰に置かれている。訪れたときには気づかなかったものだ。アルサスはそれを見て、自分がここに来たもう一つの目的を思い出した。手綱をいて歩き出す。


 おとななったのは、あの一軒家だった。リオーネと五日を過ごした家。ひとりの女性にょしょうのことが、アルサスには気にかかっていた。


 戸口の前に立つ。しかし、それからどうしたものか、途端に分からなくなった。花を見て来たのだ、などとは言えない。そも、あの女性にょしょうが以前と同じようにここに住んでいるかも知れない。いたとしても、彼女は自分を憶えているだろうか。


 戸を叩こうとして、やめる。手を下げ、上げて、また下げることを繰り返した。


 そうしているうちに戸が開き、アルサスはその場から飛び退きそうになった。一方で、現れた女性にょしょうも、小さい悲鳴を上げて木戸に隠れる。


「アルサス様」


 驚いている様子ではあるが、メリンはすぐに自分の名を呼んだ。それが、アルサスを何とも言えない気持にさせた。


「ご無礼を、メリン殿。いや、ご健勝かと問うべきなのか」


「それは。アルサス様こそ、なぜここに」


 尋ねられても、答えは持ち合わせていない。ただ近くに用があり、何となく気になって、と言うと、メリンは何度か目をしばたたかせた。以前よりせているように見える。軍人に立ち話をさせるわけにいかないと言うので、アルサスは招かれるまま、家に入った。なにもかも、半年前のままだった。部屋の片隅には、ベイルが死んだ小屋と同じ、黄色の花が置かれてある。


 二人とも、言葉を発さなかった。メリンはともかく、自ら訪ねておいて何も言わないのはおかしい。アルサスは、いろいろと迷った挙句、何とか言葉を絞り出した。


「ここで、わが軍の軍人が死にました。それを弔うつもりで」


 言うと、メリンはどこかに視線を彷徨さまよわせるようにした。


「あの」


「何もなかったが、花だけはありました。あれは、メリン殿か」


「余計なことをしてしまいました」


「何を。私は、きっとあれが貴女あなただと思って、嬉しかった」


 出された茶を、アルサスはゆっくりと飲んだ。


「あの軍人様のところに、アルサス様がおいでだったなんて」


「われらの指揮官でありました」


 それから、ベイルのことを少し語った。彼がいかに優れていたか、自分は何を学んだか。入隊してから、これまでのこと。語りながら、なぜこんなことを喋っているのかと、アルサスは思い始めていた。自分の生い立ちなど。彼女がそれを知って何になる。戦や軍のことなど縁のないものだろう。それでも語ることで、自分の内側にある乱れたものが整っていくような気持になっていた。メリンはアルサスの話を、じっと聞いていた。


「お父上のような方でいらっしゃったのですね」


 そして、たったそれだけをぽつりと呟いた。短い言葉が、じわりと自分の中に染み込んできたような気がした。


「貴女は、ほんとうに」


 何でもお見通しになる。それは、以前に言ったことがある気がした。


 それからもさまざまに語って、気づいたころには夕陽が家の中に差し込んでいた。


「これからも、ここで生活していかれるのか」


 辞去するとき、アルサスは意を決して尋ねた。彼女が瘦せたように見えるのは、自分の思い込みではないだろう。宅の中に、ほんとうに何もないのも気にかかる。以前に見た、あの小さな畑の恵みだけでこれからもひとり、生きていくのか。メリンは目を伏せた。


「他に行くあてもございません」


 それはそうだった。尋ねてから、自分はどんな返答を期待していたのかと、アルサスは自嘲的に思った。戦時である。女性にょしょうひとりで住む場所を変え、生活を営んでいくなど、できはしないのだ。


「ハイデルに来られてはどうかな」


 メリンが眼を見開く。そんなことを言われるとは思ってもみなかった。驚きと戸惑いが、言葉はなくとも伝わってくる。しかし今を逃せば、もう二度と言う機会がない気がした。


「住む場所は用意できる。食事なども。無論、貴女が許せば、ということなのだが」


 そこまで一息に言ってから、アルサスは口をつぐんだ。勢いに任せたにしても言い過ぎた、と思った。浮薄な男と思われたかもしれない。今更になって羞恥が込み上げてきた。


「無礼を申し上げた。失礼する」


 きびすを返し、黒鋼シュタールの手綱を手に取る。あぶみに片足をかける。しかしくらに飛び乗ることができなかった。背中に、感じるものがある。


 振り返った。メリンが自分を見つめていた。


 頬が、はじめて見るような赤みを帯びているように見えた。夕陽がそう見せているだけなのだろうか。アルサスは、上げた片足を下ろす。それを見て、メリンは視線を下げる。


 戻って彼女の手を取った。気付けばそうしていた。この手を振り払ってくれればいい。そんなことも考えた。


 しかし、俯いた女性にょしょうは、いつまでもアルサスの手を払おうとはしなかった。




(この戦を何という  了)

(PART6 に続く)

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