小さい花
騎馬隊の動きに問題はなかった。
ハイデル郊外の原野が、騎馬隊の調練のための場になっている。橋を渡った先は広く
あの娘が眠っていたベイル・グロースを目覚めさせた。アルサスはそう思っている。理屈など分からないが、生と死の境目にいたベイルを生きるほうへ引き戻したのだと思う。大熊はまだ死なぬ、と彼は言った。本当に、どんなところからでも生きて戻ってくるのだ、と思った。
自分にとっては、英雄だった。戦で名を上げ、ひとつの街、領地の守護を任される。アルサスが軍に飛び込んだ時に思い描いていた夢を、そのまま形にしたような男だったからだ。そんな男が死んで、自分が後を任された。戦においては、おまえがすべて引き継げと言われたのだ。駆け回る騎馬隊も、ベイルの部隊から引き継いだものである。自分の騎馬隊は、いまは街で休ませている。
この部隊を率いて、必ず、あの
騎馬隊が自分のもとに駈け集まってきた。動きに不備はない。“大熊”の鍛えた兵士だ。
「決戦はまもなくだ」
兵に向かって、アルサスは言った。
「いや。決戦ではない。はじまりだ。まずは弔い合戦である。そののち、都ブラウブルクにも馳せ参じよう。ベイル殿の憂えたこの国の
兵が声を上げる。士気は戻っていた。ベイルを失ってしばらくは、こうではなかった。当然だった。だがそれも、兵たちと語り尽くすことで前に向けた。
街に戻る。道中、アルサスは叛乱のことについて考えていた。ディックから聞いたときは有り得ぬと思ったが、あのザラでの戦いを冷静に思い返すほど、不審な箇所が見えてくる。
ポルトやゼルローなど、各所の軍を撃破し、寝返らせ、ハイデル軍も、ヨハン・ベルリヒンゲンの遠征軍も退ける。そんなことを、いかに精強と言ってもたった四万や五万の兵で成し遂げられるとは思えない。裏で絵図を描いている者がいると考えれば、あの森で背後を取られたことも、味方に剣を向けられたことにも、得心がいく。なにより不審なのは、ベイルだけが狙って殺されていることだった。赤竜軍に、そんなことをする必要があるとは思えない。彼が殺される必要があるとすれば、やはり何かを知ったか、気づいたからだと考えるべきだろう。
軍営では、多くの兵が準備を続けていた。小隊で練兵場に向かう者がいたり、黙々と県や鎧を磨く者がいたりと様々だが、戦の前とあって、空気は張ったものになっている。とくに次の戦には、皆が懸けているものが大きい。建物内や裏でその兵よりも忙しくしているのが、職人たちである。とくに矢など、消耗品のことには彼らが欠かせない。戦場に赴かない彼らも、思いは同じだった。アルサスも職人たちが黙々と作業に取り組んでいるのを、ぐるりと見て回る。誰も、怠けているものはない。
「
養生所で、ドミニクに呼び止められた。戸口に座り込んで、頬杖をついている。怠けているように見えるのは、この男くらいのものだ。ただこれは、いつものことでもあった。唐突な物言いもいつものことで、聞き流すと面倒なことになることも分かっている。
「なんです?」
「だがな、あの強度の毒を含んだ種は内地にはない。もともと、暖かい地方にだけ生える木が持っているものだ。思うに、“
「何の話ですか、先生」
「阿呆。
毒。その言葉で、話半分に聞いていたアルサスはようやく聞く気になった。
「それで」
「“
「南の、沿岸部」
リューゲン・ヴァイプはポルトからの軍人崩れであったというから、ドミニクの論は
「問題は、この種子から毒を取り出す方法だな。何しろこの強さだと、触れただけで皮膚に異常を
「毒刃などは、見ないわけでもないですが」
「おまえの言う毒刃ってのは、せいぜい昏倒させるとか、嘔吐させるとか、その程度のものだろうが。
ベイルが
「背後に何者かが?」
「さあな。そんなことは知らん」
先刻までの熱を帯びた話しぶりが嘘のように、ドミニクは吐き棄てる。ほんとうにこの男は、医のこと以外に関心がないのだ。
「調べるのは、尋常でないことであったと思います」
アルサスは、
「俺はな、あれがここの
背を向けたまま、ドミニクはどこか上の方を見ていた。
「あんな男でも死んだんだ。次に同じ手を
言い方は悪いが、要するに、残された者たちのためにやった。そう言いたいのだというのが、アルサスには分かった。
「よく休まれてください。お疲れのようだ。言葉にいつものような毒がない」
「黙れ、小童め」
ドミニクは振り返ると、アルサスを指差した。
「おまえこそ、倒れそうな顔をしている。毒なぞ
「この程度で」
「兵どもを見ろ。おまえよりよほど、戦場では役に立ちそうだ」
「先生」
「おまえは、息の抜き方を知らん。女の影もないし」
何も、アルサスには言い返せなかった。たしかに、疲れはある。女のことはともかく、息を抜いていないというのは、もっともだった。あの敗戦から、休んだ日がない。休むことなどできるはずもなかった。自分は、一兵士とは違う。彼らが休んでいる間も、働かねばならない。
「戦の前です、先生」
「あの男なら言うだろうよ。戦の前こそ休めと」
ベイルの顔が思い浮かんだ。休め。彼がそう言っている姿が容易に浮かぶ。声すら聞こえるようだった。思い返せば、そんなことは何度も言われていた。矢も弦の張りが弱ければ落ちる。弦を張り直すのは、
ドミニクが去っても、アルサスは束の間、言われたことを
翌朝、アルサスはディックに断って、街を出た。意外に、
剣だけを身に付け、晴天の下を
街道を北上する。行きたいところは決まっている。クラムまでは
あの小さな村に行くとは、誰にも言っていない。理由を尋ねられるのが嫌だったからだ。ベイルが
集落は、以前に訪れたときから変わらず、閑散としていた。馬で乗り込むアルサスを一瞥はするが、こちらがそのまま通り過ぎれば、何も言ってはこない。外から入ってきた者への接し方も、相変わらずといった様子である。
集落のはずれ、川辺の小屋。ベイルが死んだのはそこだと聞いていた。小屋などいくらでもあるが、不思議とそれがどこなのか、誰に聞かずとも行きつくことはできた。避けられるように、その近辺だけ、とくに
中に入る。暑い季節だというのに、ひんやりとした空気が溜まっているように感じた。何もない。しかし床には黒いものが染みのように残っていて、血が流れたことだけは分かる。
それを見て取ったとき、アルサスは半日かけてここに来たことを後悔した。いなくなった人間がいることを、改めて感じただけだ。すぐに小屋を出た。戸口で目を固く閉じ、開く。後手で戸を閉めた。開いていたのが悪かったのだ。誘われるように、入ってしまった。
「人間とはこういうものだ、
その
戸口の前に立つ。しかし、それからどうしたものか、途端に分からなくなった。花を見て来たのだ、などとは言えない。そも、あの
戸を叩こうとして、やめる。手を下げ、上げて、また下げることを繰り返した。
そうしているうちに戸が開き、アルサスはその場から飛び
「アルサス様」
驚いている様子ではあるが、メリンはすぐに自分の名を呼んだ。それが、アルサスを何とも言えない気持にさせた。
「ご無礼を、メリン殿。いや、ご健勝かと問うべきなのか」
「それは。アルサス様こそ、なぜここに」
尋ねられても、答えは持ち合わせていない。ただ近くに用があり、何となく気になって、と言うと、メリンは何度か目を
二人とも、言葉を発さなかった。メリンはともかく、自ら訪ねておいて何も言わないのはおかしい。アルサスは、いろいろと迷った挙句、何とか言葉を絞り出した。
「ここで、わが軍の軍人が死にました。それを弔うつもりで」
言うと、メリンはどこかに視線を
「あの」
「何もなかったが、花だけはありました。あれは、メリン殿か」
「余計なことをしてしまいました」
「何を。私は、きっとあれが
出された茶を、アルサスはゆっくりと飲んだ。
「あの軍人様のところに、アルサス様がおいでだったなんて」
「われらの指揮官でありました」
それから、ベイルのことを少し語った。彼がいかに優れていたか、自分は何を学んだか。入隊してから、これまでのこと。語りながら、なぜこんなことを喋っているのかと、アルサスは思い始めていた。自分の生い立ちなど。彼女がそれを知って何になる。戦や軍のことなど縁のないものだろう。それでも語ることで、自分の内側にある乱れたものが整っていくような気持になっていた。メリンはアルサスの話を、じっと聞いていた。
「お父上のような方でいらっしゃったのですね」
そして、たったそれだけをぽつりと呟いた。短い言葉が、じわりと自分の中に染み込んできたような気がした。
「貴女は、ほんとうに」
何でもお見通しになる。それは、以前に言ったことがある気がした。
それからもさまざまに語って、気づいたころには夕陽が家の中に差し込んでいた。
「これからも、ここで生活していかれるのか」
辞去するとき、アルサスは意を決して尋ねた。彼女が瘦せたように見えるのは、自分の思い込みではないだろう。宅の中に、ほんとうに何もないのも気にかかる。以前に見た、あの小さな畑の恵みだけでこれからもひとり、生きていくのか。メリンは目を伏せた。
「他に行くあてもございません」
それはそうだった。尋ねてから、自分はどんな返答を期待していたのかと、アルサスは自嘲的に思った。戦時である。
「ハイデルに来られてはどうかな」
メリンが眼を見開く。そんなことを言われるとは思ってもみなかった。驚きと戸惑いが、言葉はなくとも伝わってくる。しかし今を逃せば、もう二度と言う機会がない気がした。
「住む場所は用意できる。食事なども。無論、貴女が許せば、ということなのだが」
そこまで一息に言ってから、アルサスは口を
「無礼を申し上げた。失礼する」
振り返った。メリンが自分を見つめていた。
頬が、はじめて見るような赤みを帯びているように見えた。夕陽がそう見せているだけなのだろうか。アルサスは、上げた片足を下ろす。それを見て、メリンは視線を下げる。
戻って彼女の手を取った。気付けばそうしていた。この手を振り払ってくれればいい。そんなことも考えた。
しかし、俯いた
(この戦を何という 了)
(PART6 に続く)
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