叛乱の芽は
ポルトは無視して北上するというのが、ファルクの決断だった。いま、あの港町には二万弱がいる。
残存する
ギルベルトの部隊はほとんど損害を受けていないが、それでも五十余を失った。同じ
行軍において、最も先を行くのが、そのルッツとバルドゥールの部隊である。ギルベルトの部隊は中ほどにある。そのさらに後段に歩兵隊がいて、指揮を三名の大隊長が執っている。輜重隊を挟んで
行軍は順調で、いまはエーデルバッハ領の南端である。最大の都市、ハイデルからは馬で一日という距離まで来ている。アルサス・シュヴァルツが少数を率いて陣に姿を見せたのは、天幕を張り、兵たちが
「
開口してアルサスがはじめに言ったのは、そんな言葉だった。黒髪の騎士は、
「ベイル殿も、その鍛えた兵士たちの力も、我らは疑っておらぬ。おぬしらを責めるために呼び立てたわけではない、
ギルベルトは、アルサスの横顔をじっと眺めていた。精悍な顔つきの男で、実直さもすぐに感じ取る事ができる。いかにも軍人、という男だ。
「ハイデルは」
「
天幕にはギルベルトとファルク、アルサスしかいない。あとの隊長たちはみな、大隊や小隊ごとに持ち場で休んでいるのだ。三人とも、糧食はすでにとっている。卓の上には地図が広げてあった。
「通信の遮断は、うまくやっているようだな」
「森を使って、隠れながら。敵も、そこはなかなかの速さで」
「ポルトから北への通行で言うと、あとはザラ方面が広大に残っているのみか」
「マルバルク城は、容易に取り返せません。あちらも森がありますから。その南東の橋を渡らせないというのが、やっとのところです」
「十分だと思う。大事なのは、我々の動きをはっきりと示すことであるから。南北の連携さえとらせなければ、それでいい」
この軍の動きは、敵にもすでに伝わっているはずだ。それでも、まだ反応はない。さらにこちらが北上し、“
「われらがやるべきことをやろう。明日には進発し、全速でもって、北へ向かう」
自分たちの背後を
「最後にもうひとつ、よろしいですか、ファルク殿」
「なんだ」
「
改まって言うことではなかった。ここまでの報告も、ディック・コップフの代理でこの男が行っていただけだ。それでもあえて、そういう言い方をしたからには、重大なことだからか。ギルベルトも、黙って耳を傾けた。
「くれぐれもこのことは、内密に願いたいとのこと」
「それはいい。早く言え」
「軍に叛乱の気配あり」
アルサスは、表情を変えないまま言った。それはファルクもそうだったし、ギルベルトもであった。
「ポルトのことを言っているのか?」
「それだけではございません」
「では」
「どこ、とは申せません。我らも判然としないのです」
「そんなことが、報告になるか」
「ですから、言伝なのです。
「事実だけ、話せ」
「ザラで、我らは挟撃を受けました。あり得ないと思ったところから敵が現れましたが、それらは皆、青い鎧を身につけておりました。これまでに陥落した駐屯地から集められた者たちは、あの戦いのあと姿を消しました。
「名は」
「リューゲン・ヴァイプ。元はポルトの大隊長であった男です」
ファルクが目を閉じた。
ありそうな話だ。ギルベルトは、そう思っただけだった。問題は、その規模である。叛乱と言うには小さすぎる。
「叛乱と言ったか、アルサス殿」
黙り込んだファルクに代わってギルベルトが尋ねると、アルサスは小さく頷いた。
「我ら
「敗残兵が
「そうかもしれません。しかし、それだけではないかもしれません。それを肌で感じたベイル殿は死にました」
「都の七万」
ファルクが唐突に呟いた。
「ヨハン殿が指揮していた部隊に、おかしな動きはなかったか?」
「それは。配置が悪く、間隙を
「そうではない。たとえば行軍が遅かったとか、撤退するにもできない様子であったとか」
「何名か、生き残っていた兵に聞いたところでは、笛の音がしたと」
「笛?」
「敵将が合図に使ったようです。鳴り止ませることができず、山の中で味方の軍の居所が分かってしまったのだと申しておりました。その敵の将軍も、捕虜にとっていたにも関わらず、混乱の中で取り逃したと」
「都に引き返した兵は、僅か三万と聞いたが?」
「もとは七万の軍でした。四万があの平原で討ち取られたようには」
もう一度ファルクは目を閉じ、大きな息を吐いた。
「言伝は、聞いた。大隊長殿に、私からも言伝を願いたい」
「はい」
「叛乱の芽は、どこにでもある。我らが
アルサスは刹那、考えるような眼の動きを見せてから、一度だけ頷いた。何も
敬礼し、天幕を出ようとするアルサスと、一瞬だけ眼が合った。そこにある光は、なかなかないと思わせるほど強い。
戦場で会おう。眼で、ギルベルトはそう言ったつもりだった。天幕の内より、原野の馬の上の方がよほど似合っていそうな男である。戦場で腕を見るのが楽しみだった。
やはり何も言わず、黒髪の騎士は静かに去る。天幕の内は、また二人だけになった。
「どこまで信用しているんです、今のを?」
ギルベルトは問うたが、ファルクは束の間何も言わず、アルサスの去ったあとを見つめるようにしたままだった。
「情報は足りぬ。だが、信じてもいい」
「それにしては、はっきりとしない答え方でしたが」
「あの男が叛乱の徒でないとなぜ言える?」
言いながら、ファルクは懐から何かを出した。折り畳まれた紙だった。
「あるとお思いで?」
「言っているのは“大熊”と、あの男だけではないからな」
他にもいるのだ。そう言って、ファルクは手に持った紙を開いていく。どうやら、書簡のようだった。
「昨晩、ドロゼルの手の者がここまで来た」
平坦な口調で、ファルクは書簡の一部分を指さす。符牒が使われた文面だった。
符牒の一部だけ読み解けば、“軍”、“教会”などと列記されているのが判る。さらに読み込もうとしたところで、ファルクに紙を下げられた。
「なぜ読ませてくれないんです」
「叛乱、とあった。おまえは、符牒を解読するのが遅いではないか」
そう言われると、ギルベルトも何も言えなかった。たしかに、文書を読むのは好きではないし、得意でもなかった。もともと、文字を憶えたのも遅い。生きていくのに必要なものではないとも思っている。
「都に叛乱の気配あり。遠征は意図的に遅らされた。軍に武器が密輸されている。やつの部隊も襲撃された。同じ敵が、
「なに、教皇?」
立て続けに読み上げられた文面の中で、いくつかの箇所だけが気になった。
遠征の遅れ。それがあったから、ドロゼルらを都に送ったのだ。今更、軍内部の不穏な動きがあぶり出されようと、驚きに値することではなかった。あるかもしれぬとおもっていたことの、確証を得たのだ。武器の密輸というのは、そのためにある裏の動きというのだろう。
しかし、教皇を暗殺しようというところにまで、動きが大きくなっているとは思っていなかった。そこについては、ギルベルトにも驚きはある。
教皇、つまり教会をよく思わない者など、いくらでもいる。ただ、だからといって直接に手を下そうとする輩が現れるなど、あってはならないことだ。それは軍などではなく、この国そのものに対する反逆を意味していた。アルサスが言っていたのは、そのことも含んでいるのか。
「
「王とは?」
「ドロゼルは、教会の者と通じているらしい。書くことが、迷信じみてきた」
「迷信の類なので?」
「獣の王とやらがいるという。都の地下に」
「それは」
脳裏を
「赤い眼をしておるのだろうな、王とやら」
迷信めいたことを一切信じようとしないファルクも、赤い眼の獣のことについてだけは別らしい。ギルベルトは、すでに砦の山中で、獣を目にしている。
「あの獣どもと、教皇猊下とが、どうつながっておるのか、俺には理解できません」
「私にも解らぬわ」
「ドロゼルは」
「都に潜らせたままだ。部下は皆、東に向かわせたようだ。密輸の道が、そちらにつながっているらしい」
ドロゼルは優秀な男だった。送られてくる情報だけでも、それがよくわかる。やはりここでも、ファルクの人を見る眼は的確なのだった。
紙を畳み、ファルクはギルベルトを見つめた。
「あの男が妄言を記すとも思えぬ。
「誰が、そんなことを今更」
「
ファルクが最後に言い足したことに、ギルベルトは声をあげて笑ってしまった。この男の冗談にしては、大胆なものだったからだ。
「軍の
「まあ、そんなことがあるとでも思っておけばいい」
しかし、彼の横顔は笑っていなかった。皮肉や冗談を言うときに歪む口元も、普段と何も変わらなかった。目を薄く開けて、天幕を見上げている。
「戦いが終われば、我々はこの戦をなんと言うのだろうな」
ぽつりと、そんな呟きだけが聞こえた。
国そのものには興味がない。ありようだとか、支配者が誰であるとか、そんなことは自分に関係がない。軍に身を置いていてすら、そう感じている。だから、いま自分の身を震わせているのは、恐怖ではない。ギルベルトは、どうしても自分の口の端が吊り上がるのを止められなかった。
「戦が待っていますよ、ファルク殿」
若き指揮官の眼は、中空に向いている。その瞳には
「そうだな」
腰を上げると、先刻までの会話が無かったかのような表情に変わり、ファルクは天幕から出た。ギルベルトも後に続く。もう、何も考えないことにした。
いまの話は、天幕の
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