episode20 この戦を何と言う

血は駆け巡る、灼熱を帯びて

 牢の中に、椀だけが突き出されてきた。すぐさま手に取り、中身をすべて飲み干した。


 ただの水。僅かな量だが、それで、暗くなっていた視界が戻った。足音が遠ざかっていくのに気付いたのは、それからだった。呼び止めようとも気力が湧かず、結局、何も言わずにおく。


 牢は、敵のものだ。地下の、罪人用の牢。しかし、そこに入れられているのは、いまベルキウスだけである。敵の兵士はみな死んだか、逃げた。牢に入れて生かしておくような、重要な人物もいなかった。今更、人質をとったとて、どうなるわけでもない。


 石の床に横たわる。冷えなども、どうでもよくなっていた。空腹は、十日ほど経った辺りで感じなくなった。この牢に入れられて何日目になるのかも、よくわからない。陽の光がないので、日数を数えることができないのだ。兵士が、一日に一度か二度、水を運んでくる。はじめの内は、その回数で大体の時を数えていたが、意識がぼんやりとすることが多くなり、それもできなくなった。


 渇きだけは水でごまかせるが、それだけである。飢えはなんともならない。もう、複雑なことは考えられなくなっていた。自分の、もともと細いと思っていたからだが、さらに細くなっているのだけは分かった。


 戦のことを考えるのだ。自分に言い聞かせた。この程度で死ぬものか。あの、暗い森の城の戦いにおいても、自分たちは生き延びたのだ。敵は九万名だった。


 九万を打ち破った。敵も、味方も騙した。それで、自分はいまここにいる。


 自分を牢に入れた者たち。将軍レガート。策を全部理解していたのは、将軍レガートの中でも、自分だけだ。あえて、味方の誰にも、作戦の全貌を明かさなかった。そうでなければ、あの窮地に死力を尽くして戦うことはできなかっただろう。自分のやり方は間違っていない。ただ、軍の中での自分の立場から、糾弾きゅうだんされるのは分かっていた。赤竜軍レギオでは、味方をあざむくことは死罪である。


 分かっていて、ベルキウスはそれをやったのだ。


 虫がっていた。蟻だ。気付けば、ベルキウスはそれを口に入れていた。血を舐めたときのような味がした。


「無様だな」


 いきなり、牢の外で声がした。


「這いつくばって、虫を食ってでも生き延びようという。赤竜軍レギオ将軍レガートともあろう者が」


 将軍レガートアレス・インサーニアの声だった。巨躯が、牢の外で座り込むのが分かった。ベルキウスは、眼を閉じた。どうせ、暗いせいで顔は見えない。


「罵るくらいなら殺せばいい。水を絶てば、私は死ぬ」


「ベルキウス。我らはおぬしを殺したりはせぬ」


「殺されるのかと思うほど、からだを打たれた」


「兵に示しがつかぬ。勝ったからいいものの、おぬしの策は味方もあざむいた。軍令に違反した」


「そうでもしなければ、勝てなかった」


「そうだ。おぬしが生きているのは、勝者であるからで、ただそれだけだ」


 軽い音がして、眼を開けると、誰かの足が目の前にあった。気付けば、からだを引き起こされていた。


 引きられるようにして、牢から出される。勝者。アレスの言葉が、頭にこびり付くようにして残った。勝った。九万に包囲され、それでも勝った。


「どんなことをしても、私は勝たねばならなかった。この国をとすのだから」


「もう、わかった」


 光が、一度に全身を照らした。あまりの明るさに、ベルキウスはうめいた。視界が白く、何も見えない。ただ、声だけは、うるさいほど聞こえてきた。大勢が、自分を取り囲んでいるらしい。


「よし、これから軍議だ」


 アレスの声も、耳元で怒鳴るようなものだ。どうやら、自分にではなく、兵に向かって叫んでいるらしい。


将軍レガートベルキウスは生きている。真の勝者だ。だが、おまえたちをあざむいた罰は受けねばならなかった。見よ」


 声が一層膨らむ。ようやく、ベルキウスにも周囲の様子が掴めてきた。声は、兵士たちのものだ。地下から繋がっている通路を埋め尽くすほどの数である。その全員が、自分を見ていた。


「骨と皮ばかりのからだだ。苦しんだ。お前たちの命を、欺いたまま使ったことは、これで許してやってくれ。これ以上、勝者を苦しめるな」


 アレスの言葉を、べルキウスはただ聞き流していた。許されるとか、許されないとか、兵の感情はどうでもいいのだ。ただ、ブラウブルクを攻めるために、駒はる。駒を使うためにということなら、兵を納得させるのに自分が許されることも、やはり必要なだけだ。


 兵の声が覆い被さるように降ってくる。その中を、べルキウスは肩を担がれたまま歩いた。自分を称賛するような言葉や、励ますような言葉も、頭上を通り過ぎていくような気がした。


 リューデスハイムというらしいこの街は、耕作地域として開墾された土地らしく、軍の設備も充実していた。駐屯地としては、これまで陥落させたどの街のものよりも大きい。都ブラウブルクまでは十日ほど、その気になれば六日ほどの距離まで来ている。敵の喉元に剣の切先を突きつけたようなものだった。


 連れられた部屋には、卓がひとつあった。卓には、皿に載った肉が置かれてある。


 それを見て取った次のときには、ベルキウスはアレスの腕を振り払って卓に飛びつき、肉を喰らっていた。汁が溢れ、喉を滴ったが、構わず食った。どこからともなく、椀に入った汁や、かゆなども出されてきて、それも一息に飲み干した。野菜の汁のようだった。


 瞬く間にすべてのものを平らげたころ、目の前に三人が座っていた。グラウ・ティグリス。アレス・インサーニア。オーリオ・ロサ。誰が入ってきたのにも気付かなかった。


「けものだな」


「敵はどこまで来ている?」


「食ったその口から、はじめに出る言葉がそれか」


 大口を開けて笑ったグラウが、腰を上げてベルキウスの前に膝をついた。そのときには、もう彼は笑っていなかった。


「おぬしの策に敵も、俺たちもはまった。フォスは死んだ」


 将軍レガートフォス・ヴァルパインのことを言っているのだった。ベルキウスは唇のあぶらを拭い、いつの間にか置かれてあった水を一息に飲み干した。グラウの眼光が、自分を焼き殺そうとしている。それを、正面から見据えた。


「策のすべてを伝えていなかったことは、おぬしらに詫びる気はない。無論、兵にも」


「誇り高き赤竜軍レギオの将兵に向かって、貴様」


「軍令に背いてでもああしなければ、今ごろ、われらは森の木の養分よ。おぬしらに武人としての誇りがあるように、私には私の、賭けているものがある。勝つためなら何でもできる。それが私の誇りだ」


 この男たちに、文官であった自分のことなど解かるはずがない。自分も、武官の誇りなど理解できない。だが、戦いの中でなら死んでもいいというところだけは、一致しているはずだった。


「フォスは見事な剣士だった」


 グラウはゆっくりと立ち上がった。


「おぬしの言い分は分かった。理解はできぬが、分かった。勝者として、おぬしを認める」


 グラウは自席に戻り、杯を掲げた。


戦場いくさばに散った戦士たちに」


 あとの二人も、そしてベルキウスも、それに倣った。


「重大な人間をひとり、死なせた。私の過失だ」


「なんとも、猛烈な武将がひとりいた。アルサス・シュヴァルツという。俺はそれを知らず、討てそうなところを逃した。過失と言うなら、まあ、俺にもある」


「そんな猛将を見逃すとは、おぬしらしくもない、グラウ」


「もうひとり、いた。これはという剣士がな」


「その猛将はどこにいる?」


「アルサスはハイデルまで退却した。もうひとりは、死んだ」


 ザラ平原での戦いのあと、ハイデル軍の指揮官コマンダントベイル・グロースも死んでいた。その報せだけは、牢にいるときに確認した。あの指揮官が死んだというのは、この軍にとって、後顧の憂いをほとんど断ったということに等しかった。


「国境の“壁”はどうなっている?」


「大軍を進発させている」


 アレスが即座に答えた。


「大々的に、周辺地域に触れまわっての進軍だったそうだ」


「ポルトは?」


「街を出るな、と言ってある」


“壁”のファルク・メルケルなら、まずポルトをとそうとはしない。そんなことは読めていた。無視できるなら無視し、自分たちを即座に追撃しようとするだろう。


 ポルトに残した部隊は一万だけである。あとは、ここまですべて率いてきている。ただ、本国からの補充が続いているはずで、いまは二万ほどに増員されているはずだ。ザラの戦いを挟んで、ポルトとの通信はかなりやりづらくなっている。こちらの通信を遮断しようとする動きがあるのだ。それをやっているのは、おそらくハイデルの敗残兵だということも分かっている。そこの攻防は苛烈だった。


“壁”の青竜軍がポルトを無視するというなら、背後をける。いかに精兵揃いだと言われていても、背後からの二万の追撃は無視できまい。


 一方で奪取しようというなら、一月ひとつき以上は耐えられる。いずれにしてもその間に、こちらはブラウブルクをとす。その後は、あんな街は焼き払ってしまってもいい。都の壁さえ越え、この国の頂点に居座る男――つまり、教皇――を椅子から引きずり下ろすことができればいい。軍も、教会も、民も、その下にしかないのだ。


「ポルトについては、それでいい。あちらは大将軍インペラートル殿に任せよう」


「それで、敵の位置だ」


 オーリオが、四人の座る中央に地図を広げた。


青の道ブラウ・シュトラーセを、三万が向かってきている」


 彼が指差したところに、黒く塗られた場所があった。グリーゼヒューゲル、とある。


「街道からは外れるが、ここに丘陵地帯が広がっている。ぶつかるなら、ここだ」


「時はかけられぬ。三万の質だな、オーリオ」


「都の留守番をしていた兵で、近衛軍ガルドを除けば、最後に割ける兵ではないかな。ザラからの撤退した兵を、そこに組み込んでいるらしい。それでも、三万」


「指揮官は?」


「留守番をさせられていた。ヨハン・ベルリヒンゲンに遠征軍の指揮を取って代わられた。そう聞けば、質はだいたい、わかる」


 ベルキウスは地図に書き込まれている内容を、あとはすべて頭に刻み込んだ。計算の上でだが、ここで三万を破れば、都に残る防備の軍は、おそらく一万に満たないのではないか。一千名ほどで組織されていると言われる近衛軍ガルドがそこに加わるが、問題はそれだけだ。


「まったく、この国の軍の頂点にいる男どもは、何を考えているのだろうな。都に近づけば近づくほど、無能な指揮官ばかりが出てくる」


 グラウが、退屈そうに言った。


「面白い男ばかりだったぞ、ここまで俺が斬ってきた敵は」


 その言葉に、ベルキウスは思うところがあった。彼の言うとおりである。あまりにも、ブラウブルク周辺の防備が甘い。しかしポルトも、マルバルクも、ザラで戦ったハイデルの軍も、都を出ている軍隊ばかりが精強に過ぎる。“壁”などその最たる例ではないか。


 だから、自分たちは、面、つまり数と時間で戦うことをやめたのだ。点と点を糸で繋ぐような戦い方でしか、ここまで来られなかった。暗殺という姑息で不確かな手まで使い、脆弱になった僅かな間隙をうようにして、ここまで攻め上がってきたのだ。


 近衛軍ガルドが、あるいは都の防備に当たる軍がどれほどの質なのか知れない。しかし軍の配置、その均衡を考えると、わざと遠方に有能な指揮官を配置しているようにしか思えない。そして、その有能な者たちが、互いに連携をとるにも苦労するような場所に位置させられている。ファルク・メルケルでさえも、鍛えに鍛えた兵を用いているのではなく、元は傭兵だった者たちを取り込んでいるに過ぎないという。


 自分がこの国の統治者なら。そこまで考えて、ベルキウスはかぶりを振った。


 それは、考える必要のないことだった。青竜軍アルメ元帥マルシアル、エーリッヒ・フォン・ベルトハイムが、無能だというのなら、それでいい。教皇ハイメ三世が戦を知らぬというのなら、都合がいいだけだ。


「グリーゼヒューゲル。ここで、三万を砕く。さすれば都だ」


 三人が頷いた。ベルキウスは立ち上がると、部屋を出た。足はまだ元の通り力が入らないが、歩くことはできる。


 この軍営の造りも、攻め落としたときに、頭に入れている。糧食庫を見たかった。自分が牢にいる間に、軍が消費した分を、正確に把握しておくためだ。穀倉地帯というだけあって、食うものは潤沢にある。兵士たちにも、十分な思いをさせてやれるはずだった。詫びる必要はないと思っているが、命を張った兵に、相応のものを得させてやらねばならないという考えは、ベルキウスにもあった。


「三万の指揮は、ハ-ゲン・アウグストという男だ」


 どこからともなく声がして、ベルキウスは足を止めた。


「銭と縁故の力だけで指揮官コマンダントになった小心者よ」


「殺すのか?」


容易たやすいな」


 声は、直接、からだの内に響いてくる、いやなものだった。


「三日後には、ここを発つ。それに合わせろ」


「命じるのは、貴様ではないぞ」


「獣ごときが。竜の子とやらはどうなった? 貴様らにとっては、百万の軍隊よりも恐ろしいのだろう、そのわっぱが」


おごるな人間」


 突如、からだが胸から地に叩きつけられた。何の抵抗もできなかった。耳元で、突風が吹いたような感覚があっただけだ。


「ここで貴様の心の臓をえぐる。それもまた容易いことだというのを、忘れるな」


 爪か、牙か、なにかが自分の背に食い込む。倒れたベルキウスからは、黒い獣の姿も見えない。


 ただ、ベルキウスの心中に起こったのは、恐怖ではなかった。


「貴様らこそおごるな、獣よ」


 怒りが、からだの内から猛烈に湧き上がってくる。怒りだけではない。果たさねばならぬことへの渇望。この獣どもへの軽蔑。そして、欲。一刻も早く敵を消したいという欲だ。ひとりでも三万でも、百万でも、我らの道を遮るのならば、排除してやるのだ。こんな獣の御託ごたくに付き合っているいとまはないのだ。


 ついにブラウブルクが、手の届くところまで来ているのだから。


「私の為すべきことはひとつ。この国を滅ぼすことだ。そのために都を手中に収める。北方人ノルドどもを蹴散らす。邪魔な軍人がいれば消す。貴様らの手はそのために必要なだけだ」


 頭の内側で、何かが切れるような音があった。それが何だったのか、もう、わからない。気付けばベルキウスは激昂していた。


「理解したなら、そのアウグストとかいう軍人の首を喰い千切ってこい。ここで私の心の臓をえぐるというなら、早くしろ。ただし軍人の首だけは取ると誓ってえぐれ。さすれば、残った同胞が、かの都を陥落せしめるわ」


 殺せ。喉を焼き切るような勢いで、声がほとばしった。ふっと、背にかかる圧力が弱くなった。


「人間め。面白いことを言う」


 声は、耳元ではなく、どこか遠くから聞こえるようだった。ベルキウスは立ち上がると、周囲を見渡す。誰の姿もなかった。


「軍人は消してやる。だが代わりに、戦場いくさばに血の雨を降らせ。我らが求めるのも、そのひとつよ」


 そして、声も聞こえなくなった。


 ベルキウスは、また元の通り歩き始める。足の力は戻っている。全身に血が駆け巡っていくのが感じられるようだった。


 醜い獣ども。歴史の遺物。おそらく、この国を滅ぼす以上の何か、目的があるのだろう。しかしそれは、ベルキウスには関係のないことに思えた。連中の思惑がどうであろうと、赤竜軍レギオの益となるのならば、駒として使うだけだ。


「血の雨だと。笑わせるわ」


 命じられずとも、血の雨は降らせる。赤き竜が欲する熱を生み出し、加護を得るために、血は必要なのだ。いま、自分の内側に流れる血が灼熱を帯びているように、戦場いくさばもまた、熱を帯びる。


 そうしてここまで来たのだ。今更、この大地を血で染め上げることに、躊躇などなかった。


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