episode20 この戦を何と言う
血は駆け巡る、灼熱を帯びて
牢の中に、椀だけが突き出されてきた。すぐさま手に取り、中身をすべて飲み干した。
ただの水。僅かな量だが、それで、暗くなっていた視界が戻った。足音が遠ざかっていくのに気付いたのは、それからだった。呼び止めようとも気力が湧かず、結局、何も言わずにおく。
牢は、敵のものだ。地下の、罪人用の牢。しかし、そこに入れられているのは、いまベルキウスだけである。敵の兵士はみな死んだか、逃げた。牢に入れて生かしておくような、重要な人物もいなかった。今更、人質をとったとて、どうなるわけでもない。
石の床に横たわる。冷えなども、どうでもよくなっていた。空腹は、十日ほど経った辺りで感じなくなった。この牢に入れられて何日目になるのかも、よくわからない。陽の光がないので、日数を数えることができないのだ。兵士が、一日に一度か二度、水を運んでくる。はじめの内は、その回数で大体の時を数えていたが、意識がぼんやりとすることが多くなり、それもできなくなった。
渇きだけは水でごまかせるが、それだけである。飢えはなんともならない。もう、複雑なことは考えられなくなっていた。自分の、もともと細いと思っていた
戦のことを考えるのだ。自分に言い聞かせた。この程度で死ぬものか。あの、暗い森の城の戦いにおいても、自分たちは生き延びたのだ。敵は九万名だった。
九万を打ち破った。敵も、味方も騙した。それで、自分はいまここにいる。
自分を牢に入れた者たち。
分かっていて、ベルキウスはそれをやったのだ。
虫が
「無様だな」
いきなり、牢の外で声がした。
「這いつくばって、虫を食ってでも生き延びようという。
「罵るくらいなら殺せばいい。水を絶てば、私は死ぬ」
「ベルキウス。我らはおぬしを殺したりはせぬ」
「殺されるのかと思うほど、
「兵に示しがつかぬ。勝ったからいいものの、おぬしの策は味方も
「そうでもしなければ、勝てなかった」
「そうだ。おぬしが生きているのは、勝者であるからで、ただそれだけだ」
軽い音がして、眼を開けると、誰かの足が目の前にあった。気付けば、
引き
「どんなことをしても、私は勝たねばならなかった。この国を
「もう、わかった」
光が、一度に全身を照らした。あまりの明るさに、ベルキウスは
「よし、これから軍議だ」
アレスの声も、耳元で怒鳴るようなものだ。どうやら、自分にではなく、兵に向かって叫んでいるらしい。
「
声が一層膨らむ。ようやく、ベルキウスにも周囲の様子が掴めてきた。声は、兵士たちのものだ。地下から繋がっている通路を埋め尽くすほどの数である。その全員が、自分を見ていた。
「骨と皮ばかりの
アレスの言葉を、べルキウスはただ聞き流していた。許されるとか、許されないとか、兵の感情はどうでもいいのだ。ただ、ブラウブルクを攻めるために、駒は
兵の声が覆い被さるように降ってくる。その中を、べルキウスは肩を担がれたまま歩いた。自分を称賛するような言葉や、励ますような言葉も、頭上を通り過ぎていくような気がした。
リューデスハイムというらしいこの街は、耕作地域として開墾された土地らしく、軍の設備も充実していた。駐屯地としては、これまで陥落させたどの街のものよりも大きい。都ブラウブルクまでは十日ほど、その気になれば六日ほどの距離まで来ている。敵の喉元に剣の切先を突きつけたようなものだった。
連れられた部屋には、卓がひとつあった。卓には、皿に載った肉が置かれてある。
それを見て取った次のときには、ベルキウスはアレスの腕を振り払って卓に飛びつき、肉を喰らっていた。汁が溢れ、喉を滴ったが、構わず食った。どこからともなく、椀に入った汁や、
瞬く間にすべてのものを平らげたころ、目の前に三人が座っていた。グラウ・ティグリス。アレス・インサーニア。オーリオ・ロサ。誰が入ってきたのにも気付かなかった。
「けものだな」
「敵はどこまで来ている?」
「食ったその口から、はじめに出る言葉がそれか」
大口を開けて笑ったグラウが、腰を上げてベルキウスの前に膝をついた。そのときには、もう彼は笑っていなかった。
「おぬしの策に敵も、俺たちも
「策のすべてを伝えていなかったことは、おぬしらに詫びる気はない。無論、兵にも」
「誇り高き
「軍令に背いてでもああしなければ、今ごろ、われらは森の木の養分よ。おぬしらに武人としての誇りがあるように、私には私の、賭けているものがある。勝つためなら何でもできる。それが私の誇りだ」
この男たちに、文官であった自分のことなど解かるはずがない。自分も、武官の誇りなど理解できない。だが、戦いの中でなら死んでもいいというところだけは、一致しているはずだった。
「フォスは見事な剣士だった」
グラウはゆっくりと立ち上がった。
「おぬしの言い分は分かった。理解はできぬが、分かった。勝者として、おぬしを認める」
グラウは自席に戻り、杯を掲げた。
「
あとの二人も、そしてベルキウスも、それに倣った。
「重大な人間をひとり、死なせた。私の過失だ」
「なんとも、猛烈な武将がひとりいた。アルサス・シュヴァルツという。俺はそれを知らず、討てそうなところを逃した。過失と言うなら、まあ、俺にもある」
「そんな猛将を見逃すとは、おぬしらしくもない、グラウ」
「もうひとり、いた。これはという剣士がな」
「その猛将はどこにいる?」
「アルサスはハイデルまで退却した。もうひとりは、死んだ」
ザラ平原での戦いのあと、ハイデル軍の
「国境の“壁”はどうなっている?」
「大軍を進発させている」
アレスが即座に答えた。
「大々的に、周辺地域に触れまわっての進軍だったそうだ」
「ポルトは?」
「街を出るな、と言ってある」
“壁”のファルク・メルケルなら、まずポルトを
ポルトに残した部隊は一万だけである。あとは、ここまですべて率いてきている。ただ、本国からの補充が続いているはずで、いまは二万ほどに増員されているはずだ。ザラの戦いを挟んで、ポルトとの通信はかなりやりづらくなっている。こちらの通信を遮断しようとする動きがあるのだ。それをやっているのは、おそらくハイデルの敗残兵だということも分かっている。そこの攻防は苛烈だった。
“壁”の青竜軍がポルトを無視するというなら、背後を
一方で奪取しようというなら、
「ポルトについては、それでいい。あちらは
「それで、敵の位置だ」
オーリオが、四人の座る中央に地図を広げた。
「
彼が指差したところに、黒く塗られた場所があった。グリーゼヒューゲル、とある。
「街道からは外れるが、ここに丘陵地帯が広がっている。ぶつかるなら、ここだ」
「時はかけられぬ。三万の質だな、オーリオ」
「都の留守番をしていた兵で、
「指揮官は?」
「留守番をさせられていた。ヨハン・ベルリヒンゲンに遠征軍の指揮を取って代わられた。そう聞けば、質はだいたい、わかる」
ベルキウスは地図に書き込まれている内容を、あとはすべて頭に刻み込んだ。計算の上でだが、ここで三万を破れば、都に残る防備の軍は、おそらく一万に満たないのではないか。一千名ほどで組織されていると言われる
「まったく、この国の軍の頂点にいる男どもは、何を考えているのだろうな。都に近づけば近づくほど、無能な指揮官ばかりが出てくる」
グラウが、退屈そうに言った。
「面白い男ばかりだったぞ、ここまで俺が斬ってきた敵は」
その言葉に、ベルキウスは思うところがあった。彼の言うとおりである。あまりにも、ブラウブルク周辺の防備が甘い。しかしポルトも、マルバルクも、ザラで戦ったハイデルの軍も、都を出ている軍隊ばかりが精強に過ぎる。“壁”などその最たる例ではないか。
だから、自分たちは、面、つまり数と時間で戦うことをやめたのだ。点と点を糸で繋ぐような戦い方でしか、ここまで来られなかった。暗殺という姑息で不確かな手まで使い、脆弱になった僅かな間隙を
自分がこの国の統治者なら。そこまで考えて、ベルキウスは
それは、考える必要のないことだった。
「グリーゼヒューゲル。ここで、三万を砕く。さすれば都だ」
三人が頷いた。ベルキウスは立ち上がると、部屋を出た。足はまだ元の通り力が入らないが、歩くことはできる。
この軍営の造りも、攻め落としたときに、頭に入れている。糧食庫を見たかった。自分が牢にいる間に、軍が消費した分を、正確に把握しておくためだ。穀倉地帯というだけあって、食うものは潤沢にある。兵士たちにも、十分な思いをさせてやれるはずだった。詫びる必要はないと思っているが、命を張った兵に、相応のものを得させてやらねばならないという考えは、ベルキウスにもあった。
「三万の指揮は、ハ-ゲン・アウグストという男だ」
どこからともなく声がして、ベルキウスは足を止めた。
「銭と縁故の力だけで
「殺すのか?」
「
声は、直接、
「三日後には、ここを発つ。それに合わせろ」
「命じるのは、貴様ではないぞ」
「獣ごときが。竜の子とやらはどうなった? 貴様らにとっては、百万の軍隊よりも恐ろしいのだろう、その
「
突如、
「ここで貴様の心の臓を
爪か、牙か、なにかが自分の背に食い込む。倒れたベルキウスからは、黒い獣の姿も見えない。
ただ、ベルキウスの心中に起こったのは、恐怖ではなかった。
「貴様らこそ
怒りが、
ついにブラウブルクが、手の届くところまで来ているのだから。
「私の為すべきことはひとつ。この国を滅ぼすことだ。そのために都を手中に収める。
頭の内側で、何かが切れるような音があった。それが何だったのか、もう、わからない。気付けばベルキウスは激昂していた。
「理解したなら、そのアウグストとかいう軍人の首を喰い千切ってこい。ここで私の心の臓を
殺せ。喉を焼き切るような勢いで、声が
「人間め。面白いことを言う」
声は、耳元ではなく、どこか遠くから聞こえるようだった。ベルキウスは立ち上がると、周囲を見渡す。誰の姿もなかった。
「軍人は消してやる。だが代わりに、
そして、声も聞こえなくなった。
ベルキウスは、また元の通り歩き始める。足の力は戻っている。全身に血が駆け巡っていくのが感じられるようだった。
醜い獣ども。歴史の遺物。おそらく、この国を滅ぼす以上の何か、目的があるのだろう。しかしそれは、ベルキウスには関係のないことに思えた。連中の思惑がどうであろうと、
「血の雨だと。笑わせるわ」
命じられずとも、血の雨は降らせる。赤き竜が欲する熱を生み出し、加護を得るために、血は必要なのだ。いま、自分の内側に流れる血が灼熱を帯びているように、
そうしてここまで来たのだ。今更、この大地を血で染め上げることに、躊躇などなかった。
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