歴史
街のどこにも灯りがないので、月の光だけが足元を照らす。
“
ついていけなくなったのは、道が街から山道に入り、勾配がきつくなってきてからだった。ただでさえ暗く、月明りだけを頼りにして歩いているのに、山道はほとんど整備もされておらず、ふとしたときに石や木の根に足を取られそうになるのだ。
前を歩くソラスは、そんなものもないかのように、夜の山道を登る。後ろにレオンが続き、最後にリオーネが歩いていたが、やがてリオーネが遅れはじめた。何かに足を取られるというのではなく、続く山道に疲れはじめたようだ。レオンは彼女の後ろに回り、ほとんどその背を押すようにして、山を登った。
不自然な山道だった。使う者がいない道ということなら、荒れようにも得心がいく。しかしソラスの歩く姿を注視すると、何らかの目印を頼りにしているようなのだ。目印は大木のときもあれば、風の吹きこむ方向を確認するときもあり、月の位置を振り返るときもある。何にしても、確認はほんのわずかな時で済む、単純なもののようだ。しかし、その目印が何なのかというのは、規則性がない。知っていなければ通れない道、ということなのだろう。利用されず放置されている道、というわけもなさそうだった。
「“
レオンは問うたが、息が上がってうまく声が出なかった。
「書とは?」
一方でソラスは、息ひとつ弾ませず返答する。
「おまえたちのいう書が、紙に書かれた文字を
彼は、今度は足元の土を掌でなぞっていた。土埃を払うようにして何かを確認すると、また歩き出す。レオンらはそれにただ従う。
「人の歴史を紡いできたものが、すべて文字に残っているのではない」
「それはわかるが」
「“
山道の周囲は木々ばかりで、森の中を歩いている。レオンにはもう、街からどれだけ離れ、どこへ向かっているのかが、分からなくなってきていた。月がかろうじて見えるので、どうにか気持ちを保っていられる。
「月は、青の竜が創った最高のものだ」
自分の心中を言い当てられたかのような言葉。レオンは、はっとして立ち止まった。リオーネが足を止めていたからだ。その前のソラスも、立ち止まって夜空を見上げていた。
「夜は、命あるもののすべてが恐れを抱く。月だけが、その闇を照らす。どんな生きものも、月光を頼りに夜を生きることができる」
もうすぐだ、とだけ最後に付け加えるように言い、ソラスはまた黙々と歩きはじめる。リオーネも、レオンの方を見て一度だけ頷くと、足を進めた。
やがて、勾配が緩くなりはじめた。それにしたがって、
そして、前を歩くリオーネがついに足を止めた。彼女の背後から、思わず前を見上げたレオンの眼に、異様なものが飛び込んできた。
兵士である。二人、立っていた。暗さで判別しづらいが、青い軍服を身に纏っているように見える。
その兵士は、ソラスと密やかに言葉を交わすと、黙って道を開けるように身を引いた。ソラスに続いてリオーネ、レオンがその眼前を通るのも、まるで気にとめていない。眼は、どこか遠くを見つめていた。
彼らの前を通り過ぎたところで見えたのは、暗い穴だった。岩壁にひっそりと、人ひとりが通れるほどの穴が開いている。先は暗く、ここからでは見えない。洞穴である。ずいぶんと奥まで続いていることは、なんとなく予想できた。
「“
「竜の巣だと」
レオンは、耳を疑った。しかし、白装束に身を包んだ眼前の男が、今更、冗談など言うはずもなかった。
「おまえたちの求めるものが、ここにある」
言って、ソラスは穴に身を滑り込ませる。レオンは、リオーネと顔を見合わせた。
もはや、何を恐れても仕方ない。口には出さなかったが、互いの思っていることは、表情で読み取れる。すべてを知るために、ここにいるのだ。
先にリオーネが穴に入り、レオンも続いた。兵士たちは、最後までただそこに佇んでいた。
完全な闇かと思われた穴の中には、仄かな明るさがあった。白とも、青ともいえる明かりである。しかし、それがどこからくる明るさなのか、まったく知れない。レオンは目を凝らし周囲を観察したが、明かりの出所は分からなかった。ありえないことだが、岩の壁そのものが薄く光っているとしか思えない。
「なぜこんなに明るい」
レオンの問いが、狭い通路に響く。
「これが竜の瞳の、青い光なのか?」
「そうだとも言えるし、そうでないとも言える」
ソラスの声もまた、レオンの背後まで響いた。
「
「山が光っている?」
「じきに分かる。ほら、“
不意に、狭かった通路が開けた。
そこは、巨大な空間だった。あまりにも巨大すぎて、洞穴から抜け出して、外に出たのかとすら思えたほどだ。圧迫するようなここまでの通路が突然途切れ、広間に放り出されたような感覚だった。反響していた声は、空間の広さにその響きを弱くしている。山の中にこんな空間があるというのが、レオンにはにわかには信じられない。
何より、足元である。先刻から気がかりだった淡く、青白い光が、足元の岩盤からも滲み出ているのだ。岩の下に何か、源があるとしか思えない光だった。さすがに頭上までは照らさないが、眼の高さくらいまでなら、岩壁の色も見えるほどに照らしている。
「信じられない」
呟いたのはリオーネだった。
「見てください、兄上」
リオーネが呆けたように指差したのは、岩壁の一部である。
そこにあるのは、絵だった。
白い土からできた岩壁の上に、色が塗られたようになっている。青と赤が渦巻くように描かれ、違う色がその渦の周囲に放射状に塗られている。
「壁画だ」
「これがおまえたちの言う“書”だ」
レオンの言葉を、ソラスが首を振って否定した。
「文字がすべてではない。“
彼は、リオーネが指差した壁を見つめた。
「青い竜と赤い竜の争いがあった。二頭の竜はともに世界を創ったが、ともに治めることはできなかった。青い竜が命を生み出すのと同じように、赤い竜が殺し続けたからだと、人は言う」
「聖典だな。最初で最後の、神の争いだと」
「神の真実など、誰にも分からない。ほんとうに、神が仲違いなどするか? ほんとうに、青い竜は赤い竜を憎んだのか? わからぬ。人が知ることができるのは、人の残した歴史だけ」
ソラスは離れたところにある別の絵を示した。ふたりの人間が描かれているように見えた。
「王がいた。人の王だ。名は、ロット。青い竜が生んだ人間の、はじめの王になった」
その人間の隣に、またひとり、描かれている。
「王には弟がいた。名をブラウ。王とともに育ち、王になれなかった男」
「待て。逆ではないか? ブラウが王だ」
レオンは、思わず口を挟んだ。
この国に住む人間なら、誰もがその名を知っている。“巨城の守護者”、“剣王”。最初の王ブラウだ。兄がいたなどというのも初めて聞いたが、立場が逆である。ソラスは、王になれなかった男と言った。
そのソラスはレオンの指摘を、鼻で
「誰が語った歴史だ?」
それだけ言うと、彼は言葉を続ける。
「最初の王の治世は難しいものだった。それはそうだ。人々は王など頂くことが初めてだったのだから。ロット王は苦しんだ」
次の絵。一人の男と、他に小さく描かれた群衆らしきもの。
「弟はそれを好機に立ち上がった。人々を先導し、兄王の治世を否定した。兄は耐えられなかった。屈辱と、羞恥のせいで。実の弟に国を
赤い竜が、再び絵画に現れた。描かれているのは竜と、黒い人影。人は
「兄王ロットの焦りは尋常ではなかった。もはや民衆は自分に従わぬ。それで、彼は赤き神に
レオンの袖を強く引くものがあった。リオーネが、絵に鋭い視線を投げかけていた。
「哀れな王に、神は力を与えた。獣の力だ。人など容易に従わせる力だった。民衆は彼の力の前に
自然の広間を取り巻く壁画は、さらに続く。次は、黒いものが人々を包む絵だった。
「しかし、愚かなロットに、神の力など扱いきれるはずがなかった。抑えきれぬ力はついに、彼の姿を、心をも、けだものに変えた。“
ふと、
「さて、獣の王を屠るべく立ち上がった者がいた。ブラウだ。彼は兄がそうしたように、神の力を求めた。ただ、赤い竜にではない。赤い竜の与えた力を挫くためには、青い竜の力が必要だった。そこで彼は禁忌を承知で、儀式を行った」
「禁忌とは、まさか降竜の儀か?」
壁の絵は、青い竜を描いていた。ソラスははじめて壁から視線を外し、レオンを見遣った。
「そう。彼は兄がそうしたように、竜の力を自らの躰に降ろそうとした。しかし、失敗したのだ」
「失敗?」
「赤い竜が熱と力を求めるように、青い竜は命の輝きを求める。極北の地で死に瀕するブラウの
絵画は、一度にその様相を変えた。白く描かれた人の姿が現れたのだ。
「極北の地で生きる民族があった。彼らは信じられないような寒さの中でも生きる術を知り、慎ましやかにその命を繋いできた者たちだった。わかるな。それがわれらの祖、
ソラスの視線は、リオーネに向けられた。
「白の民は、ブラウの願いに応えた。竜の力を宿す贄となる者を差し出すことを決めたのだ。それほど、獣の王には民も恐れを抱いていたのだろう。村でもっとも美しく、もっとも清い信心を持った者が選ばれた。驚くことにそれは、若い娘だった」
レオンも思わず、自分の傍らにいる妹に視線を落とした。彼女は、青い瞳を大きく見開き、ソラスの
「娘はその
ソラスは、リオーネに向けていた眼を岩壁に戻す。剣の絵が現れた。
「しかし娘だけでは、
「それが、
「ブラウは、
足元を見ろ、とソラスが言った。レオンとリオーネは、それに従う。青白く光を放つ岩の床。彼は、止めていた足を動かしはじめた。巨大な空間の、さらに奥に向かっている。レオンらも後を追う。
岩の階段があった。そこだけは、明らかに人の手が入ったように整えられ、岩壁に沿うようにして、上へと続いていた。それを、ソラスは登り始める。足を踏み外さないよう、レオンはまた、リオーネの後ろを歩いた。岩壁には他にも、様々な絵が遺っている。
「この“
「しかし、聖典は? こんなことは書かれていなかった」
「聖典は誰のものだ? おまえたち信徒か? そうではなかろう」
その言葉で、レオンは登っていた階段を一段、踏み外しそうになった。
「自分たちの仰ぐ最初の王が“
信じ難い思いだった。では、聖典は偽書ということになる。それだけではない。この国の歴史、教会そのものが、塗り替えられた上に成り立っているものになってしまう。獣の王の存在など、最早、この国では誰も知ることができない。人の歴史が、この国の歴史が、上書きされたものだと、誰が知っているだろうか。この国を治めてきた者たちが、ひた隠しにしてきた過去を、誰が暴けるだろうか。
驚きと呆れ。レオンはただ足を進めることで精一杯だった。
洞穴の上へと向かう。向かうほどに、熱気が強くなるのを、レオンは感じていた。つい先刻まで、夜の冷えが感じられていたのに、いまは熱だけを感じる。そして、見上げると、青白い光が階段の先から
「光を、ブラウらは追った。輝く光に導かれるように向かった先に、その“石”があった」
登り切った。熱が、はっきりとわかるほど肌を刺激してくる。光。凄まじいものだった。
「これが
レオンは、思わず声を上げた。信じられない、というリオーネの呟きも、ほとんど聞こえていなかった。
青白いものが、地から湧き出ている。
黒と、その青が混ざったようなものが、岩窟の奥から湧きだしているのだ。その勢いは緩やかだが、とてつもない熱を発している。流れ出たものは川のようになり、岩窟のさらに奥へと流れ込んでいるようだった。流れるものから、青白い火が吹き上がったとき、レオンの脳裏にはあの、教会で見た炎の色が蘇っていた。
「夜、青い竜の力が最も強くなるときにしか現れない。石は、石ではなかったのだ」
「これは、なんだ、ソラス」
「青く、溶けた岩。神の力を宿した炎。青き竜が人に与えた、最後の希望。石の扱いに長けていた
レオンはもはや、何かを尋ねることもなかった。熱で喉がひりついていたが、気にもならない。ただ目の前のものに心を奪われていた。
「ブラウは獣の王と、魔物たちに打ち勝った。しかし王を屠ることまではできず、ある地に封じたとされている。聖女が剣に祈りを捧げ続ける限り、王の復活はない」
しかし最後の言葉で、レオンは我に返った。
「聖女が、祈りを捧げる限りだと?」
「そうだ。やはりおまえは聡い、レオン・ムート」
そこで、また人の気配がした。レオンは、気だけを周囲に向ける。自分たちに向かってくる気がある。
「南の各所では、死の風が吹いたそうだな。剣から遠い南では、そういうこともある。なぜか解るか? 聖女が、祈りを捧げることをやめたからだ」
「私は」
リオーネが、耐えかねたように口を開いた。
「私は、祈りを捧げていた記憶もありません。獣の王についても、何も知らないのです。やめたと言われても、何のことか」
「リオーネ、待て」
レオンはそこで、リオーネの言葉を遮った。
人の気配。もう、隠そうともしていなかった。視界の端に、いくつも人影が現れる。
「ソラス。何のつもりだ」
「何のつもりか、だと? おまえたち、ここがどこか、もう一度教えてやろうか」
気付けばレオンらの周囲に、数人の人間が立っていた。眼だけを動かして確認する。青い光があるとはいえ、それでも判るほど、銀色に輝く髪。現れた全員が、そうだった。
「記憶は、残りませんよ、
数人の中から、一人だけ、歩み出てきた。老人だった。銀の長髪を束ねた、腰の曲がった老翁である。
「青き竜の力を宿すとき、その者は人でなくなる。人であったときの記憶など、残りはしません」
レオンが背中にリオーネを隠すようにすると、老翁はくつくつと低く笑った。
「青き民の子よ。何故、
鋭い気配を、レオンは背中に感じていた。ソラスが剣を抜いている。見なくともわかった。
「それを知って
老翁の銀の眼が、そこで細められた。
「
(リントアウゲン 了)
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