兄妹
小屋は、
この街に軍の駐屯地はなく、何かあればロヒドゥームの城から軍が駈けつけることになっているらしい。しかしすぐに行き来できるような距離でもないので、この小屋のように、寝泊りに使えるものを街の各所に配置しているのだという。馬留めまであったのは、軍馬での往来が主だからなのだろう。
夕刻になる前に、ソラスが小屋から出て行った。手続きがいる、とだけ言い残してである。それが、レオンとリオーネをこの小屋に宿泊させるための手続きだというのか、それともほかの用事なのかは分からなかった。
とにかく、もう一度呼びに来るまでここで待っていろと言われた。それで、レオンはリオーネとともに、小屋の中で陽が暮れるのを待った。
陽が沈んでいくのにしたがって、小窓から吹きこむ風は冷たくなっていく。何度か戸外で陽の光を浴びて暖をとったが、それでも
毛布と一緒に渡したその食糧に、リオーネはなかなか手を付けなかった。木の実と麦の粉を練って乾燥させた保存食で、味も悪くない。
はじめに掛けるべき言葉を、レオンも迷っていた。ソラスが言ったことは、すぐに呑み込めるものではない。
聖女は死なない。次の竜の子が見つかるまで、ということらしい。黒い獣たちはリオーネを“
目の前の少女が、不死の存在である。
何度ソラスの言葉を
しかし、不死というのは、あまりにも現実離れしすぎている。たとえばいま、自分がこの少女を剣で貫いても、死なないというのだろうか。純白の肌、華奢な躰つき、揺れる大きな瞳。剣で貫けば当たり前のように命を奪えるとしか思えない。それが剣であろうが、槍であろうが、棒であろうが同じことだ。
それに、不死というなら。この妹がこの旅で感じてきた恐怖は何だったというのか。獣からも、あるいは人の手からも、命からがら逃げ延びてきたのだ。血も流してきた。血は赤く、人に流れている血と何ら変わりはない。そして肌で感じた恐怖は、偽りのない命の危機を彼女に知らせてきたはずだ。それすら、ほんとうは死なない
様々なことが、それこそ旅の初めからのことが頭の中を駆け巡って、レオンに何も言わせなかった。
リオーネは食糧をすべて口に含み、水を少し飲んでから、また俯いている。レオンとは、あえて目を合わせないようにしている。そんな印象だった。
陽が暮れ、小屋の中が暗くなっても、二人とも動けなかった。建物の外では人が行き来する声と音がするが、それも少なくなっている。やがて、痛いほどの静寂に変わった。
火は付けるな、とソラスは言い残していった。しかし火が欲しい、とレオンは思った。焚火か、小さな炉に薪を
リオーネが僅かに身じろぎして、毛布の裾を引いていた。寒いのか、
背から毛布を掛けてやった。彼女は動かなかった。
「冷えるか」
結局、最初に出た言葉はこれか、とレオンは意外な気持になった。リオーネはいっそう強く毛布を握りしめた。
「湯を沸かそうか。火はだめだとあの男は言ったが、少しくらいなら、いいだろう」
リオーネは顔を膝の間に埋めるようにしたまま、首を横に動かした。それならばと、レオンが彼女の背に掌を当てたとき、その背がびくりと震えた。思わず、レオンも手を離しそうになったが、そのまま彼女の背を
何も、言葉はなかった。それはレオンだけでなくリオーネも同じで、僅かな衣擦れの音だけが聞こえるだけである。リオーネの
「何を聞いても驚かないと決めていたのですが」
くぐもった声が聞こえ、レオンは手を止めた。
「あの獣が言ったとおりでした」
「なに?」
「髪の色とか、眼の色とか、ノルンの他の子とは違っていると思っていたけれど、ほんとうに違っていたのは、もっと」
言葉はそこで途切れたが、彼女が何を続けようとしたのかは、訊かなくてもわかった。そして、訊きだすことなどできない。
「私は、化物なのですね」
「違う、おまえは」
「死なない人間を、兄上は見たことがありますか」
彼女が頭を上げ、毛布が床に落ちた。青い瞳は潤んでいたが、やはり、リオーネは泣いてはいなかった。ただ、ひどく疲れたような表情だった。支えるようにして、レオンはその肩に手を添えた。細い
「自分が普通ではないと、分かってはいました。けれど、兄上や父上がそうであるように、自分は生きて死ぬのだと、疑ったことなど、ありませんでした」
「それは」
「私は、兄上とともに死ぬと言いましたが、そんなこと、できるはずがなかった」
リオーネの肩に置いた手は冷たい。
二年の間、それだけは変わらなかった。
いつだったか、原野で、この少女の肌に触れたときのことを思い出した。
「いや、おまえが言った通りだ」
自分でも深く考えないまま、レオンは口走っていた。
「リオーネ・ムート。兄はレオン・ムート。父はレーヴェン・ムート。ノルンの
あの、原野で彼女に名をつけた日。あのとき自分は、何を思って彼女を妹にすると言ったのか、レオンは思い出していた。自分や父レーヴェンのほかには、誰も彼女を知らなかった。彼女もまた、何も知らなかった。そんな、自分が何者なのかも知らない少女をどうしたかったのか。彼女の言うように、化物だと知っていれば、家族に迎え入れることはしなかったのだろうか。
それは違う、とレオンは思った。
自分はただ、彼女と共にありたいと思っただけなのだ。だから、今日まで共に生きてきた日々を
「化物ではない。リオーネ。おまえは、おまえだ。不死であろうが、俺の妹だ」
冷たさなど感じない。いま手が冷たいのは、自分に意志の熱が足りないからだ。
「前にもそう言ったろう」
一筋だけだった。彼女の瞳から零れ出たものが、一筋だけ、頬を伝って落ちていった。それを、レオンは親指で
「おまえはほんとうに強くなった。兄として誇りに思う」
落ちた毛布を拾い上げ、リオーネの肩に掛ける。
「旅立つとき、父上は俺に言われた。獅子の勇気を持てとな。おまえを守れ、とも。俺は獅子の子だ。当然のことだった」
あの原野をまた、思い出した。父の背を見送ったとき、不思議と自分は落ち着いていた。リオーネを守ることに、それほどの重圧も感じていなかった。それがなぜなのか、今になって、レオンにはわかる気がした。
「旅の中でおまえは、いつも勇気をもって戦ってきた。あの教会でも、戦の中でも、この小屋でも。俺がおまえを守ってきただけではない。おまえも、俺を守ってきた。それを忘れるな。獅子の勇気は、おまえの中にもある。おまえもまた、獅子の子なのだ」
決して化物と自分を
「まだすべてを、ソラスから聞いていない」
「はい、兄上」
「おまえが不死と言うからには、理由があるはずだ。それを知らねば」
彼女のことだけではない。剣についても、まだ知りたいことがいくつもある。途方もない事情が、その裏には潜んでいるのだろう。彼女が以前に記憶を取り戻したと言った、母と思しき人物についても探らねばならない。
しばらく、何も言わなかった。リオーネも、レオンの胸に顔を埋めたまま、動かない。
戸外の音はほとんど無くなり、虫の鳴くような音だけが窓から入ってくるだけだった。小屋の中の暗さに、レオンはようやく気付いていた。
「兄上の剣。いえ、父上の、剣」
リオーネがふと
「父上は、この剣で戦ってきたと、仰ったのですよね」
「そうだ。しかし、詳しくは
自身の持つ剣が、伝説の
「ベイル様が亡くなられたなんて、私はまだ、信じられません」
「父の無二の親友であった。ほかに、彼ほど父を知っている軍人が、いるかどうか」
「ソラス様は、
「父の名を聞いて、剣を抜いた男だぞ」
「だからこそ」
「
「勇気を、父上と兄上から受け継ぎましたから」
「よし」
やるべきことが、ようやく見えてきた。そんな気持だった。いや、見えそうだったものを、見失いかけていたのかもしれない。
戸口が音もなく開き、
「出るぞ」
ソラスはそう言ってから、一瞬だけ、目を留めた。すばやくレオンの顔を見て、リオーネを見てから、気を取り直すように
「
投げて寄越されたのは、大きな一枚の布だった。頭と顔をこれで隠せと言うのだろう。相変わらず、彼のリオーネへの態度は、ぎこちなかった。一方でリオーネは、放られた布をじっと見つめている。
彼女は布を手に取ると、ソラスを見上げた。
「リオーネ、とお呼びいただけますか、ソラス様」
レオンは聞こえなかったように振舞いながら、横目でソラスの表情を窺った。彼の、
「ついて来い。“
戸を開け、ソラスの姿が夜の戸外に消える。
レオンとリオーネは、並んでその後を追った。
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