真実を前に足が竦むのは怯懦か
昼の陽射しが、これまで訪れたどの街よりも、明るく感じられる街だった。光に包まれた街と言ってもいいほどだ。
陽の光でいえば、港の街フォルツハイムも強く差すときがあった。このリントアウゲンも海に面しているというが、それがなぜここまで強く感じられるのか。
目の前の壁だ、とレオンは思った。
白い岩壁が、街に入ってすぐ、眼に飛び込んでくる。実際は、目の前にあるのではない。いくつもの家屋、長く続いている道の先にある山の一部である。距離が掴めなくなるほど巨大なのだ。
木の一本も生えていない岩壁であるのだが、それは白かった。それを見たとき、はじめにレオンの頭を
さらに驚くべきことに、その奥にはどうも、集落がありそうなのだった。目を細めてみれば判る。山間、いや山中の集落というべきなのだろうが、切り立った岸壁がまず手前に見えるせいで、集落は山から飛び出したようにさえ見える。これもまた、どんな街でも見たことのない光景だった。
そんな光景が目の前に広がっているのに、街の中は決して暑くない。“
あまり見ていては眼を焼かれそうで、レオンは壁から、傍らのリオーネに視線を移した。彼女もまた岩壁と、その向こうの街に眼を奪われている。自分たちが歩いているのは
「すごいものを見ているのではないでしょうか、兄上」
「白い壁の家々なら、フォルツハイムでもあったがな。これは、そんなものとは比べものにならん」
レオンが言ったとき、ソラスが鼻を鳴らすのが聞こえた。
「
彼は吐き棄てるように言う。
「あれを見続けると、瞳を焼かれる。
顔全体を
通りを、三人で歩いた。それぞれに馬を一頭ずつ
それでも、行き交う人々が目を向けるのは主にレオンらで、ソラスの
そういうことも、まだ何もこの男からは
しかしこの男が知っていることが、自分たちがこの街を目指してきた理由にも繋がっている。それは、間違いなさそうだった。彼のリオーネに対する姿勢は、尋常なものではない。
一目、リオーネを見ただけで、聖女と言った。それから、ソラスはリオーネに過剰なほど視線を投げかけている。いまも距離を置きながら、横目で彼女を窺っていた。その度に、リオーネは居心地が悪そうに俯く。
「どこへ行こうとしているのか、そろそろ教えてくれ」
レオンが言うと、ソラスは立ち止まった。
「この街に用があるのはおまえたちのほうだと、俺は聞いていたが」
「それだ。おぬしは誰から俺たちのことを
軍人に知り合いがいないわけではないが、この東の地で関わりを持った軍人はいない。フォルツハイムでも、結局軍人の一人とも出会うことはなかった。
「俺たちは、知りたいことがあってここまで来た。あの場を助けられたことには感謝するが、何も言わぬというのなら、自分たちで目的を果たしたい」
「この街の何を知っている?」
「学問のことならここへと、フォルツハイムで」
「学問。学問か」
ソラスは小手を
「何を知りたい?」
「妹のこと」
皆まで言わずとも、伝わる。妹の持つ銀色の髪と青い瞳は、この男も目にしている。しかし驚くべきことに、いま白い
ソラスはまたリオーネに目を向ける。灰色の眼は鋭い。レオンは、黒い獣とこの男との対話を思い出した。
返事はない。ソラスは止めていた足を進め、レオンらもそれに続く。
「“
馬の蹄の音。雑踏の声。レオンはその中でも聞こえるように、はっきりと問うた。
「王だ」
レオンも、リオーネも、僅かに歩を速め、ソラスの背を追った。彼の返答は、よく聞き耳を立てなければ、人混みに消えてしまいそうだった。
「人の王よりも早く、この地を席巻した王」
「獣の王か。それで、あの獣はその息子だと」
「獣――
ソラスの声色に、僅かだが変化があった。嘲笑しているようだった。
「どういう意味だ」
「太陽は、赤の竜が創ったものの中でも、最高の傑作だからさ」
「おぬしは? 白の民だと、あの獣は言っていたが」
「歴史を学んでいるようで、まるで知らぬことだらけだな、おまえは」
気付けば通りをかなり歩いていたようで、あの白い岩壁はますます近くなっていた。
ソラスが手招きするほうへ行くと、そこに馬留めがあった。小さい屋根まである。小屋のようだった。見上げると、その屋根に木札が掛かっている。札には青い紋様が描かれていた。
「入れ。
すでにソラスは馬の手綱を留め、小屋に入っている。レオンはリオーネと顔を見合わせ、まず
「どう思う」
「いやな気は感じません」
リオーネは首を振った。
「それでも、どうすればいいのか」
「あの髪か」
「私が何なのか、あの方は知っているのでしょう。それが、どうしてか怖くて」
気持ちは、理解できる気がした。レオンですら、ソラスの口から出てくることを恐れているところがある。おそらく彼の知っていることというのは、自分たちが想像だにしないものなのだろう。どれだけ書物を漁っても知ることのできなかったことである。
リオーネからすれば、自分でも知らない、自分の身の上を知っている相手である。言い表しようのない恐れというのがあるのだろう。小屋の中に入れば、それが告げられる。そう思えば、足が止まるのもよく分かった。
「兄上、ごめんなさい。知りたいと思っていたことがわかるというのに、私は」
「構わんさ。俺も実のところ、聞きたくないという気持ちがあるのだ」
言うと、リオーネは微かに笑う。
こんなものか、とレオンは思った。すべては、リオーネに
そして、そうだとしても、自分は、真実を目の前に足が
情けない。レオンは息を一つ吐いた。
「行こう」
「はい、兄上」
馬から離れ、二人で小屋に入った。
陽光が埃を映す室内には、小さな卓と椅子がいくつかあった。ソラスはひっそりと、そのうちのひとつに腰掛けている。
「
レオンが腰掛け、リオーネがそのすぐ傍らに腰を落ち着けたところで、ソラスは口を開いた。
「おまえの学んだ歴史とやらには、俺たちの名はなかったようだがな」
「
「すべて。頂く神から、生きる世界まで」
「青の民とは?」
「我ら
「
「どうやら、そのくらいは知っているらしいな」
「
「これだ」
ソラスは
「
それはこの街の名だ。レオンがそう言うと、ソラスは首を振った。
「この街がなぜその名を冠しているのか、ということだ」
レオンも、無論リオーネも、そんな由来は知るところではない。何も言えずにいると、銀髪の軍人はさらに言葉を続ける。
「石だ。青く美しい。そして鉄より遥かに堅い。そういう石があるのだ」
白い指が、陽光の差してくる先を示す。
「
「おい、つまり」
ソラスはそこで、不意に表情を緩めた。
「聡いな、レオン・ムート」
「聖剣ヴァルムングも、そうなのだな? それが、手と知恵か」
かつて獣を
つまり、ブラウ王に
「ブラウ王はなぜ」
「おい、そんなことはどうでもいい。もういない王の話など」
レオンを遮るように、ソラスが手に持った剣を振って、鞘に戻す。
「問題は、なぜおまえがその剣を持っているか。なぜその少女と共にいるか、だろう」
今度はレオンが、自分の剣を抜く番だった。
「それは、俺の剣と同じ、つまり、
「そんな、馬鹿な」
「それは、俺が言いたい」
ソラスは掛けていた腰を上げる。
「この剣を打てるのは
「レーヴェン・ムート。雪の獅子。かつて
名を聞いて、ソラスは腕を組む。嘆息がレオンにも聞こえてきた。
「レーヴェン・ムートか。なんということだ」
「知っているのか」
「知っているか、だと。何も知らん
ソラスの声色が、急に怒気を帯びたものに変わる。
「レーヴェン・ムート。雪の獅子。北伐の“英雄”ヨハン・ベルリヒンゲンの副官。我らの兄弟を何百と殺した男よ。その男が、その剣を持っていただと。どういうことだ」
レオンは殺気を感じ取り、即座に立ち上がった。抜いた剣の柄に力を込める。一方でソラスも、収めていた剣を鞘から抜き放っている。
勝てるか。一瞬だけ、考えた。あの獣を圧倒した男。直後、関係ない、と思った。
「そのうえ、
父のことを言っている。同胞を殺したという。それはいい。事実ならば、知らねばならない。父に、レオンも知らぬ過去があるのだろうというのは、なんとなく気がついていたことだ。しかしその物の言い方に、レオンの語気も、知らず強いものになる。理解できても、感情はどうしようもなかった。父を悪く言われることは、自分が貶されることより遥かに感情を逆撫でされた。
「俺は、この
「待って。待ってください」
悲鳴が上がった。リオーネだった。気と気がぶつかり合うその間に、銀髪の少女が割って入ってくる。
「ソラス様」
名を呼ばれ、ソラスは意外なほどの反応を見せた。膨れ上がっていた殺気が急速に
「私は、リオーネ・ムートです。“獅子の娘”です。でも、貴方がたは私を
リオーネは、声も肩も振るわせていた。しかしレオンは、剣を棄ててその背を抱くことができなかった。そうさせない何かが、いまの彼女にはあった。
「教えてください。私たちは、知りたいだけです。それでも怒りを収めてくださらないのなら、私も斬ってください。兄上と死にます。私は、ムートの子です」
ソラスの灰色の瞳が揺れていた。剣を握る手も、どういうわけか震えている。
沈黙が下りた。永遠とも思える沈黙だった。
そしてソラスが、構えていた剣を下ろしたとき、リオーネも腰が砕けたようにへたり込んだ。レオンは、すぐに彼女の背を抱いた。呪縛が解かれたような感覚だった。リオーネは、震えたままだった 。
「兄上」
しかし、恐怖か怯えかで流しているであろうと思った涙が、彼女の瞳からは零れていなかった。それが、レオンには意外だった。大きな青い瞳は、それでもソラスを見つめ、離していなかった。
瞳の奥にあるもの。深い青の奥に、強い光があった。
「すまぬ。助けられた」
リオーネを懐に抱きながら、レオンはソラスの方を窺った。一方で、彼の全身からは力が抜けていた。もはや殺気も放っていない。ソラスはゆっくりと椅子に腰掛けると、額を手で覆った。
有り得ぬ、という呟きが聞こえた。
「貴女は死なない、
ソラスは顔を上げないまま、低い声で言った。
「貴女は絶対に死なない。次の竜の子が現れるまで、絶対に。そういう宿命なのですよ」
レオンは、彼の言葉の意味を、やはり理解できなかった。リオーネには、まだ聞こえていないようだ。
ただ、訳も分からぬ
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