真実を前に足が竦むのは怯懦か

 昼の陽射しが、これまで訪れたどの街よりも、明るく感じられる街だった。光に包まれた街と言ってもいいほどだ。


 陽の光でいえば、港の街フォルツハイムも強く差すときがあった。このリントアウゲンも海に面しているというが、それがなぜここまで強く感じられるのか。


 目の前の壁だ、とレオンは思った。


 白い岩壁が、街に入ってすぐ、眼に飛び込んでくる。実際は、目の前にあるのではない。いくつもの家屋、長く続いている道の先にある山の一部である。距離が掴めなくなるほど巨大なのだ。


 木の一本も生えていない岩壁であるのだが、それは白かった。それを見たとき、はじめにレオンの頭をよぎったのは、ノルンの風景である。故郷の街から見える、雪の積もった山々。白い山など、“水の季節フリーレ”の、あの風景の中でしか、見たことがない。しかし雪も降っていないのに、目の前の山はそれと変わらぬほど白く光って見えるのだ。


 さらに驚くべきことに、その奥にはどうも、集落がありそうなのだった。目を細めてみれば判る。山間、いや山中の集落というべきなのだろうが、切り立った岸壁がまず手前に見えるせいで、集落は山から飛び出したようにさえ見える。これもまた、どんな街でも見たことのない光景だった。


 そんな光景が目の前に広がっているのに、街の中は決して暑くない。“火の季節ブレンネ”であるのにこうも涼しいのは、山から吹いてくる風のせいなのか、それとも北の土地の特徴なのか、レオンはしばし考えた。白い壁から吹き下ろす風は、たしかにどれほど暑い空気も冷やしてしまいそうではある。


 あまり見ていては眼を焼かれそうで、レオンは壁から、傍らのリオーネに視線を移した。彼女もまた岩壁と、その向こうの街に眼を奪われている。自分たちが歩いているのはふもとの通りで、家屋などの建物も並んでいるのに、どうもその辺りには目が向かないのだ。レオンが声を掛けると、リオーネもはっとしたようになる。


「すごいものを見ているのではないでしょうか、兄上」


「白い壁の家々なら、フォルツハイムでもあったがな。これは、そんなものとは比べものにならん」


 レオンが言ったとき、ソラスが鼻を鳴らすのが聞こえた。


スガーンだ」


 彼は吐き棄てるように言う。


「あれを見続けると、瞳を焼かれる。青い竜ブラウリントに瞳を焼かれた“獣の王リー・アイン”のようにな」


 顔全体を覆面マスクで覆っているので、彼の表情は見えない。声色からも、感情の読めない男だった。


 通りを、三人で歩いた。それぞれに馬を一頭ずついている。青灰ヘルブラウ雪風ヴァイゼンはもちろん、ソラスの馬も、軍馬らしい大柄なものである。並ぶと、通りが狭く感じるほどだった。


 それでも、行き交う人々が目を向けるのは主にレオンらで、ソラスの風体ふうていにはそれほどの反応が無いようだった。全身を白い装束で包んだ者などそうはいないだろうが、気にしているふうはなかった。軍人だというから、日頃からこの街にはよく出入りしているのかもしれない。


 そういうことも、まだ何もこの男からはけていない。一方的に、かねばならぬことがあると言われ、ここまで連れてこられたようなものなのだ。


 しかしこの男が知っていることが、自分たちがこの街を目指してきた理由にも繋がっている。それは、間違いなさそうだった。彼のリオーネに対する姿勢は、尋常なものではない。


 一目、リオーネを見ただけで、聖女と言った。それから、ソラスはリオーネに過剰なほど視線を投げかけている。いまも距離を置きながら、横目で彼女を窺っていた。その度に、リオーネは居心地が悪そうに俯く。


「どこへ行こうとしているのか、そろそろ教えてくれ」


 レオンが言うと、ソラスは立ち止まった。


「この街に用があるのはおまえたちのほうだと、俺は聞いていたが」


「それだ。おぬしは誰から俺たちのことをいた?」


 軍人に知り合いがいないわけではないが、この東の地で関わりを持った軍人はいない。フォルツハイムでも、結局軍人の一人とも出会うことはなかった。


「俺たちは、知りたいことがあってここまで来た。あの場を助けられたことには感謝するが、何も言わぬというのなら、自分たちで目的を果たしたい」


「この街の何を知っている?」


「学問のことならここへと、フォルツハイムで」


「学問。学問か」


 ソラスは小手をかざし、白い壁――スガーンを見た。


「何を知りたい?」


「妹のこと」


 皆まで言わずとも、伝わる。妹の持つ銀色の髪と青い瞳は、この男も目にしている。しかし驚くべきことに、いま白い風防フードで覆われているソラスの髪もまた銀色であり、瞳は灰色なのだった。すべてを知っているであろう男にそれを言うのが、奇妙ではある。


 ソラスはまたリオーネに目を向ける。灰色の眼は鋭い。レオンは、黒い獣とこの男との対話を思い出した。


 返事はない。ソラスは止めていた足を進め、レオンらもそれに続く。


「“獣の王リー・アイン”とは何なのか、教えてくれ」


 馬の蹄の音。雑踏の声。レオンはその中でも聞こえるように、はっきりと問うた。


「王だ」


 レオンも、リオーネも、僅かに歩を速め、ソラスの背を追った。彼の返答は、よく聞き耳を立てなければ、人混みに消えてしまいそうだった。


「人の王よりも早く、この地を席巻した王」


「獣の王か。それで、あの獣はその息子だと」


「獣――黒の民ティーフヴァルツは、すべてが親であり、すべてが子だ。すべてが兄弟でもある。それにしても、グリアン太陽か。不遜な名を」


 ソラスの声色に、僅かだが変化があった。嘲笑しているようだった。


「どういう意味だ」


「太陽は、赤の竜が創ったものの中でも、最高の傑作だからさ」


「おぬしは? 白の民だと、あの獣は言っていたが」


「歴史を学んでいるようで、まるで知らぬことだらけだな、おまえは」


 気付けば通りをかなり歩いていたようで、あの白い岩壁はますます近くなっていた。


 ソラスが手招きするほうへ行くと、そこに馬留めがあった。小さい屋根まである。小屋のようだった。見上げると、その屋根に木札が掛かっている。札には青い紋様が描かれていた。


「入れ。青竜軍アルメのものだ」


 すでにソラスは馬の手綱を留め、小屋に入っている。レオンはリオーネと顔を見合わせ、まず青灰ヘルブラウの手綱を、次に雪風ヴァイゼンの手綱を、木の杭に留めた。ソラスの姿はもう、小屋の中に消えてしまっている。


「どう思う」


「いやな気は感じません」


 リオーネは首を振った。


 雪風ヴァイゼンが静かにリオーネを見つめていて、レオンは思わず馬の首筋を撫でた。この馬は、彼女に何かあればすぐに察知できる。ソラスがリオーネに害意を放っていれば、その時点で気付けるような馬だった。リオーネもレオンと同じように雪風ヴァイゼンを撫でる。青灰ヘルブラウが通りを行く人の流れに目を遣っている。この馬は利口で、図太かった。


「それでも、どうすればいいのか」


「あの髪か」


「私が何なのか、あの方は知っているのでしょう。それが、どうしてか怖くて」


 気持ちは、理解できる気がした。レオンですら、ソラスの口から出てくることを恐れているところがある。おそらく彼の知っていることというのは、自分たちが想像だにしないものなのだろう。どれだけ書物を漁っても知ることのできなかったことである。


 リオーネからすれば、自分でも知らない、自分の身の上を知っている相手である。言い表しようのない恐れというのがあるのだろう。小屋の中に入れば、それが告げられる。そう思えば、足が止まるのもよく分かった。


「兄上、ごめんなさい。知りたいと思っていたことがわかるというのに、私は」


「構わんさ。俺も実のところ、聞きたくないという気持ちがあるのだ」


 言うと、リオーネは微かに笑う。


 こんなものか、とレオンは思った。すべては、リオーネにまつわる謎を解き明かすため、黒い獣から彼女を守るために始めた旅だった。その終着点が、この街なのかもしれない。


 そして、そうだとしても、自分は、真実を目の前に足がすくむような男だった。妹のためと言いながら、実際のところ、その妹とこうして笑い合える現状を、崩したくないという気持ちがある。真実を知っても何も変わらぬと、リオーネに言ったのは自分であるにもかかわらず、である。


 情けない。レオンは息を一つ吐いた。


「行こう」


「はい、兄上」


 馬から離れ、二人で小屋に入った。


 陽光が埃を映す室内には、小さな卓と椅子がいくつかあった。ソラスはひっそりと、そのうちのひとつに腰掛けている。風防フード覆面マスクはすでに取っている。整った顔が、レオンらに向いていた。


白の民ズィルヴァイスだ。俺も、その少女も」


 レオンが腰掛け、リオーネがそのすぐ傍らに腰を落ち着けたところで、ソラスは口を開いた。


「おまえの学んだ歴史とやらには、俺たちの名はなかったようだがな」


黒の民ティーフヴァルツと、何が違う?」


「すべて。頂く神から、生きる世界まで」


「青の民とは?」


「我ら白の民ズィルヴァイスの手と知恵を借り、黒の民ティーフヴァルツに遅れてこの土地を治めながら、我が物顔で歴史を語る貴様らのことだ」


 けなされているというのが、レオンにもはっきりと解った。しかし、だからといってどう言葉を返せばいいのかはわからない。


黒の民ティーフヴァルツに遅れて、と言ったな。それは、ブラウ王が獣たちを南に追いやる以前のことを言っているのか?」


「どうやら、そのくらいは知っているらしいな」


白の民ズィルヴァイスの手と知恵というのは?」


「これだ」


 ソラスはおもむろに、立てかけていた剣を抜いた。剣身に陽光が光る。


竜の瞳リントアウゲンを知っているか?」


 それはこの街の名だ。レオンがそう言うと、ソラスは首を振った。


「この街がなぜその名を冠しているのか、ということだ」


 レオンも、無論リオーネも、そんな由来は知るところではない。何も言えずにいると、銀髪の軍人はさらに言葉を続ける。


「石だ。青く美しい。そして鉄より遥かに堅い。そういう石があるのだ」


 白い指が、陽光の差してくる先を示す。


スガーン。全体は、剣の山スラウ・クラウと呼ぶ。そこにしかない石で打った剣。それこそが重要なのさ」


「おい、つまり」


 ソラスはそこで、不意に表情を緩めた。


「聡いな、レオン・ムート」


「聖剣ヴァルムングも、そうなのだな? それが、手と知恵か」


 かつて獣をことごとく屠ったという伝説の剣。竜の瞳リントアウゲンというのは、そのもとになった石のことらしい。鉄より硬い石。信じがたいが、実在するとレオンは思った。何しろ、伝説の獣すら実在しているのだ。今更、伝説は伝説、と断じることはできない。


 つまり、ブラウ王に聖剣ヴァルムングを与えるべく、竜の瞳リントアウゲンから剣を打った者たちがいたのだ。ソラスの言うことを信じるなら、それが白の民ズィルヴァイスということになる。


「ブラウ王はなぜ」


「おい、そんなことはどうでもいい。もういない王の話など」


 レオンを遮るように、ソラスが手に持った剣を振って、鞘に戻す。


「問題は、なぜおまえがその剣を持っているか。なぜその少女と共にいるか、だろう」


 今度はレオンが、自分の剣を抜く番だった。


「それは、俺の剣と同じ、つまり、竜の瞳リントアウゲンから打った剣だ」


「そんな、馬鹿な」


「それは、俺が言いたい」


 ソラスは掛けていた腰を上げる。


「この剣を打てるのは白の民俺たちだけだ。父の剣だと言ったな。それは、何者だ」


「レーヴェン・ムート。雪の獅子。かつて青竜軍アルメだった」


 名を聞いて、ソラスは腕を組む。嘆息がレオンにも聞こえてきた。


「レーヴェン・ムートか。なんということだ」


「知っているのか」


「知っているか、だと。何も知らん孺子こぞうが」


 ソラスの声色が、急に怒気を帯びたものに変わる。


「レーヴェン・ムート。雪の獅子。北伐の“英雄”ヨハン・ベルリヒンゲンの副官。我らの兄弟を何百と殺した男よ。その男が、その剣を持っていただと。どういうことだ」


 レオンは殺気を感じ取り、即座に立ち上がった。抜いた剣の柄に力を込める。一方でソラスも、収めていた剣を鞘から抜き放っている。


 勝てるか。一瞬だけ、考えた。あの獣を圧倒した男。直後、関係ない、と思った。


「そのうえ、聖女カリーンが同胞殺しの娘とは。何がどうなっている。神の悪戯いたずらにしても質が悪い。我らの剣と、竜の子を」


 父のことを言っている。同胞を殺したという。それはいい。事実ならば、知らねばならない。父に、レオンも知らぬ過去があるのだろうというのは、なんとなく気がついていたことだ。しかしその物の言い方に、レオンの語気も、知らず強いものになる。理解できても、感情はどうしようもなかった。父を悪く言われることは、自分が貶されることより遥かに感情を逆撫でされた。


「俺は、このを雪の中から拾い上げた。父は持てるすべてをこのに注いだ。剣を交えたくはないが、それ以上、父と妹を侮辱することは許さん」


「待って。待ってください」


 悲鳴が上がった。リオーネだった。気と気がぶつかり合うその間に、銀髪の少女が割って入ってくる。


「ソラス様」


 名を呼ばれ、ソラスは意外なほどの反応を見せた。膨れ上がっていた殺気が急速にしぼんでいる。たじろいでいる、とすら言えそうだった。


「私は、リオーネ・ムートです。“獅子の娘”です。でも、貴方がたは私を聖女カリーンとおっしゃる。私には、その意味が解りません」


 リオーネは、声も肩も振るわせていた。しかしレオンは、剣を棄ててその背を抱くことができなかった。そうさせない何かが、いまの彼女にはあった。


「教えてください。私たちは、知りたいだけです。それでも怒りを収めてくださらないのなら、私も斬ってください。兄上と死にます。私は、ムートの子です」


 ソラスの灰色の瞳が揺れていた。剣を握る手も、どういうわけか震えている。


 沈黙が下りた。永遠とも思える沈黙だった。


 そしてソラスが、構えていた剣を下ろしたとき、リオーネも腰が砕けたようにへたり込んだ。レオンは、すぐに彼女の背を抱いた。呪縛が解かれたような感覚だった。リオーネは、震えたままだった 。


「兄上」


 しかし、恐怖か怯えかで流しているであろうと思った涙が、彼女の瞳からは零れていなかった。それが、レオンには意外だった。大きな青い瞳は、それでもソラスを見つめ、離していなかった。


 瞳の奥にあるもの。深い青の奥に、強い光があった。


「すまぬ。助けられた」


 リオーネを懐に抱きながら、レオンはソラスの方を窺った。一方で、彼の全身からは力が抜けていた。もはや殺気も放っていない。ソラスはゆっくりと椅子に腰掛けると、額を手で覆った。


 有り得ぬ、という呟きが聞こえた。


「貴女は死なない、聖女カリーン


 ソラスは顔を上げないまま、低い声で言った。


「貴女は絶対に死なない。次の竜の子が現れるまで、絶対に。そういう宿命なのですよ」


 レオンは、彼の言葉の意味を、やはり理解できなかった。リオーネには、まだ聞こえていないようだ。


 ただ、訳も分からぬ怖気おぞけが、レオンの全身に走っただけだった。

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