青と赤の瞳 白と黒の民
やけに静かな街道だった。
どうやらこの辺りの陸地も“鮫の牙”なる海賊たちの縄張りであるらしい。通行して痛い目を見ることを嫌がって、近くの集落の民もあえて通ろうとはしないようだ。聞けば、脇道がいくらかあって、生活のためにはそれを主に使っているらしい。たしかに昼間だが、規模の大きな商隊や旅人たちと行き会ったくらいである。
そのことを教わって、レオンもリオーネとともに、街道から外れたところで馬を歩かせていた。教えてくれたのは、農作物を提げた近くの住民である。銭を渡すと、リントアウゲンまでの大まかな道筋も
眼の高さを越えるほどの背の高い草が、海沿いの街道との間を隔てている。徒歩だと、街道で馬車や荷車の通行するのが音だけ判るが、草が目隠しになって見えない。これで、民も賊を恐れずに通行できるのかもしれない。
馬など持っているとすぐに襲われるぞ、というのも、その百姓の言っていたことだ。
賊に対する恐れはない。先日、その“鮫の牙”なる海賊とは、ひとつ事を構えたばかりだ。そして、話も付いている。ただ、面倒なことになるくらいなら、接触するのは避けた方がいい、とレオンは思っていた。
ガイツは結局、かなりの金を
レオン自身も、海賊を相手にして、力の差は示したつもりだ。関係の結び方はいろいろあって、レオンらには銭は使えない。巧みな交渉ができるわけでもない。剣の腕しかない。ガイツがそう言った通りだ。だから、いま最も自信のあるところで、勝負した。ハイシュという頭領はともかく、弟のシフや、以下の手下たちは、もう自分に剣を向けはしないだろう。
百姓に銭を渡したのは、銭での交渉にも慣れておかなければならない、と思うところがあったからだ。
結局、フォルツハイムに至るまで、剣を交え続けてきた。人間相手なら、違うやり方を身に付けなければ、この先疲れるばかりだ。
「スヴェンはもう、ロヒドゥームのお城に着いたのでしょうか」
傍を歩く馬の上で、リオーネが言った。
「どうかな」
別れて、三日になる。フォルツハイムからロヒドゥームの城までは、馬なら、一日と少し
連絡を取り合う手段はない。気にかけることも、あえてしなかった。別れたら、あとはお互いに、竜の加護があるかどうか。レオンはそう思っていた。スヴェンも思っているだろう。
「あいつには、竜の加護がある。というより、手繰り寄せるような男だと思う」
不器用だが、実直という言葉が、実に似合う男だった。そういう男は、人も運も引き寄せる。レオンは、大きな心配はしていなかった。
心配なのは、スヴェンと別れてからのリオーネの心中だった。ただ、心配というよりも、気になることがある、といった方がいいかもしれない。何しろ三日の間、スヴェンのことを口にしない日がないのだ。ロヒドゥーム城に到着したかというようなことも、先刻、はじめて言ったことではない。
「どうだ、スヴェンに教わって、剣は上達したか」
リオーネを見ると、表情が明るいものに変わっていた。
「それは、そうかもしれません。私のような、剣の初歩も知らない人間には、スヴェンのように教えてくれる
そこまで言って、リオーネは慌てたようにレオンを見る。
「兄上のことを悪く言ったように、なってしまいますか」
「いや、いい」
レオンも、自分の教え方が下手なことは、フォルツハイムで嫌というほどに実感している。だからこそリオーネの稽古も、スヴェンに任せていたところがあるのだ。
「リントアウゲンまで行けたら、私の剣を見てください、兄上」
「そうしよう。あいつの剣筋が、おまえの剣にも表れるかな」
そう言うとまた、リオーネは微笑むのだった。その笑みは、レオンがこれまでの旅で見たものとも、ノルンの街にいた頃に見ていたものとも、違うもののような気がする。そして彼女がこの三日で、スヴェンの名を出すたびに見せていた
「いい名だったな、
「本当に、そう思いますか」
「思う。スヴェンも喜んでいたろう」
意地の悪い
相手は妹である。いまは軽く、踏み込んでもいい。レオンは自分の性格が馬鹿らしくなり、思わず笑った。
「おまえ、スヴェンに惚れているな」
「えっ」
「何をおっしゃっているのですか」
「いい男だぞ、あれは」
「やめてください、そんな冗談」
「冗談なものか」
「笑っていらっしゃいます」
「それは、読みが当たったのだからな」
「兄上、いい加減に」
そこで言葉が途切れた。はっとしたような表情に変わったリオーネが、馬上で背後を振り返る。レオンは
どうした、と
「声がします」
馬が鼻を鳴らす。二頭とも脚を踏み鳴らしはじめる。すぐにでも
「行け、前を」
先に
細い、ほとんどが草に追われた道だった。馬は疾駆しはじめている。同じように通りを行く人々が上げる、悲鳴や抗議の声が背中に消えていく。
「兄上」
振り返ったリオーネの青い眼が揺れていた。
「逃げられません」
それを聞いてとったとき、レオンはもう、
「何人いる」
「ひとりです」
「
言って、レオンは
剣を抜く。意識を周囲に張り巡らせた。声は、自分には聞こえない。頼りになるのは五感だけだ。
息を吐く。吸う。短い間隔で、それを三度やった。四度目。吐いた。吸った。吐く。吸う。
跳び
直後、レオンの立っていたところに、黒い塊が飛来する。
来た、とだけ思った。今更、驚きもない。レオンは、目の前の獣の赤い瞳を見つめ返した。いつか見たものと同じで、赤い。
黒い
「言葉が通じているのは、もう、知っている」
レオンはゆっくりと、口から言葉を
「貴様らの仲間を斬ったのは、この俺だ」
獣は身を低くし、唸りを上げる。
話しながら、
「ノルンの森で、俺を殺していればよかったな。仲間を一人、
獣が牙を剥き出した。
「その剣だな、我が兄弟グィーを殺したのは」
心の臓に、直接響いてくるような声。聞いたのは、あの教会での闘い以来だった。
あの青い炎のことは、解らないままだ。いま、ここで闘っても、同じように炎に包むことができるのか。
ひとり。リオーネの言葉を信じた。
レオンが踏み込むのと、獣が跳びかかってくるのは、ほとんど同時だった。しかし僅かに、あちらが速い。剣を振り切るより前に、太い爪とぶつかった。受け止め、そこから、また
なんとか、自分だけに敵意を向けさせる。このままここで耐え、機を窺うしかない。
黒い旋風が向かってくる。剣。受け続ける。腕がもぎ取られるかというほど、重い爪。レオンも剣を小さく振るって対応する。
「貴様の言うとおりよな」
レオンの突きを
「あのとき、殺すな、などと言うのではなかったわ」
刹那、レオンの脳裏に、あの滅びた村での夜の光景が蘇った。左の掌を、これ以上ないほど強く握りしめる。あのとき、と言った。剣で貫かれた。傷は癒えたが、多くのものを
「貴様か」
知らず、レオンは雄叫びを上げていた。友の顔が
一歩、踏み込んだ。あの、川の向こう。夢で見た川の向こうに踏み込む。生と死の境。
すぐ前に、黒い巨体。剣で突いた。突いたと思ったが、離れた。追う。爪がくる。肩をやられた。構わなかった。
左の頬が、生暖かい。自分の血。左肩を
獣が唸っていた。やはり、赤い光が弱い。何かが、その足下を濡らしていた。血か。足りない、と思った。あの夜、友が流した血は、そんなものではない。
「血が足りぬ」
言ったのは、レオンではなかった。獣が、レオンから眼を離していた。
集中していたものが、一度に解けた。音。
見知らぬ男が、そこから出てきた。百姓か。ほんとうに、ただ出てきたという感じだった。レオンと眼が合った。そして、獣を見た。悲鳴を上げる。
「やめて」
リオーネの悲鳴が、レオンの背を押した。
獣は、少し離れたところにいた。牙が、男の喉元に
男の
獣が、レオンを見つめていた。口元から血が
「
獣の眼の光が、強くなった。怒っているのは、レオンだけではなかった。
「よくぞ言ったものよ。そこな銀の娘のほうが、よほど
怒りが、レオンの中で急速に静まっていった。
銀の娘。リオーネのことで、間違いなかった。化物じみたと言った。化物が、そう言ったのだ。しかしレオンはその言葉で、何か、自分の奥底にあった巨大な疑問の答えを、唐突に突き付けられた気がした。
「どういう意味だ」
レオンの問いに獣は答えず、代わりに
どこからともなく、風が吹いた気がした。
「貴様は殺す。その剣は折る。銀の娘も殺す。あの方の障りとなるものはここですべて
言った獣の背後から、何かが飛び出してきた。
今度は白い塊だった。
塊は着地すると、獣に襲い掛かる。人だった。ようやく、レオンにもそれが判った。ほとんど地を
剣を
獣は次々と繰り出される剣を
「白の民が」
獣の声は憎しみに満ちていた。
「卑しき青の民に
「穢れているのはどちらか、自らをよく見てみるといい」
現れた白装束の人間は、獣が声を発することにも動じていないようだった。声色は男のように聞こえる。
「
「人の世など。いずれあの方が戻る。そう遠くない」
獣はそう言い残し、
白装束の男はそれを追う素振りを見せず、剣を
静寂が降り、そこでようやくレオンは、リオーネのことを思い出した。彼女は、言いつけの通り、
「その剣」
リオーネのもとに歩み寄ろうとしたレオンの背を、男の声が呼び止めた。
「あやつが狙っておったのは、その剣だ」
レオンが持ったままの剣を指差し、そのまま男はつかつかと歩み寄ってくる。そしてレオンの剣に手を伸ばした。なぜかそれを、レオンは拒めなかった。
「おぬし、あの獣のことを知っているのか」
「何もかも知っている。おまえは、何も知らんようだがな。この剣をどこで?」
男は剣を手放さないままレオンに問うた。白い
「父の剣だ」
「父とは」
男の言葉は、そこで途切れた。
視線が剣から外れている。眼を見開いて、別の一点を見つめていた。
「“
男が見つめていたのは、リオーネだった。ただ、男がその口から発したのは、まったく別の名である。リオーネは突然、自分に向いた視線に怯えているように見えた。
レオンが、リオーネのもとへ歩み寄る男を制しようとしたところで、別の声が上がった。少ないが、人だかりができていた。先刻の
「
軍人という肩書を聞いたからなのか、全身が白い装束に覆われた男を見たからなのか。人々が驚いた表情で立ち去っていく。
「おぬし、まさか
「そうだ」
人が去ったのを確認し、男は
リオーネが声を上げた。レオンは、息を呑んだ。
出てきたのは、あまりに白い肌と、銀の
「俺は
(岐路に立って 了)
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