人の姿をした獣
相手が踏み込んできた。
その一歩がとてつもなく大きい。さらに、どこからともなく剣が出てきて、それを受ける。徒手の相手だと思っていたスヴェンは、それで少なからず意表を突かれた。どこに剣を隠し持っていたのか。
二合、打ち合った。それで、相手の
また、跳びかかってきた。こちらの剣の速さも、相手には分かっているはずだが、臆する様子など全くない。さらに異様なのは、自分のことよりも、自分の持っている剣のほうに、相手の意識が向いていることだ、とスヴェンは感じていた。剣筋で、それは分かる。
「何もするな」
叫んだ。剣を抜いているシフと、その周囲の手下どもに向かって、である。力の差は分かっている。邪魔なだけだった。自分が立ち合っているかのように剣を構えていたシフは、抗議の声を上げる。ただそれも、彼の眼前で再び、剣どうしがぶつかる音に搔き消された。
剣に掛かってくる圧力は強い。しかし剣の技術や速さというよりも、すさまじい
いつまでも受け続けることはできない。そう思ったとき、不意に圧力が弱くなった。相手がふらりと離れていく。
「違うな」
そんな声が聞こえた。また、
「もう用はない」
じわり、と影が地に溶けたように見えた。
黒い衣。それが地に落ちたのだと判ったとき、スヴェンはほとんど反射的に剣を振るっていた。猛烈な勢いで、その剣に飛びついてくるものがある。獣だった。黒く太い前脚の、鈍色の爪が剣を押さえ込んでくる。
別の方から、もう一方の爪がくる。剣先を下げ、大きく後ろに跳躍する。爪が、スヴェンの前で風を起こした。およそ、獣一匹が脚を振るったような勢いではない。全身から汗が噴き出す。
退がりそうになるところを
スヴェンが大きく息を吐き出すのと、獣がこちらを向いて構えるのは、同時だった。頭を低くしている。狩りをする獣の動きそのものである。しかし獣とはいえ、どういう生き物なのか、スヴェンにはさっぱり判らなかった。虎のようでもあり、巨大な猫のようでもあり、獅子のようでもあり、そのどれでもないようにも見える。
周囲には海賊どもがいるのだろうが、それらは完全に意識の外にある。自分と、獣しかしない。黒い、怪物。赤い眼もスヴェンだけを捉えている。
理解は追いついていない。先刻まで人の言葉を発していたはずのものが、消えたようにいなくなり、この獣が飛び出してきた。いや、あの人影が獣に
化け物め。
怒りが込み上げてきた。こいつだ、と思った。マルバルクの城で上官を、同輩を食い
しかも、仲間だけでは足らず、あの兄妹をも爪にかけようとしている。
怒りは駆け巡り、スヴェンの全身を熱くさせる。自分の中で、何かが切れるのが分かった。
跳びかかった。スヴェンの方から、仕掛けた。剣先が、敵を捉えたと思った。しかし虚空を切る。すかさず、爪。地を滑るようにし、
傷など、どうとでもなる。スヴェンは姿勢を低くし、獣に詰め寄った。真横に剣を振りぬく。
不意に獣の姿がかき消え、直後だった。脚のどこか。熱い。やられた、と思った。しかしそれはいま、自分の足元に獣がいる、ということだ。スヴェンは空いているほうの腕を伸ばし、何かを
相手が跳び
降り立ったとき、感覚だけで剣先を背後に突き出した。今度は、しっかりとした感触がある。振り返ると、獣が
左の前腕。ぬめりが見えた。間違いなく、突き刺している。背と、腕。しかし致命的なものではない。スヴェンも腹と、脚をやられているが、そんなものは気力で抑え込めばよかった。
息を吐きだす。自分のものではないような音とともに、熱い呼気が口から出た。
敵の赤い眼が、そのとき歪んだ。
「人の姿をした、獣よな」
言葉を発した。しかしそれすらも、スヴェンにとってはどうでもよかった。それよりも、獣が
振り返った。視界を覆うように、真黒なものが飛び込んでくる。剣。拾えない。
左腕。迷わなかった。頭を
怪物が、叫び声と共に、弾かれたように離れた。
スヴェンは
獣は突かれた眼を、両の腕で抱えるように押さえている。まるで、人間が痛みを堪えているような仕草だった。
刹那、間断ができた。
どこからか近づいてくる音があった。馬蹄の音。
獣の背後から、馬が飛び出してきた。人が乗っている。剣を抜き、獣に躍りかかった。獣は、瞬時に身を
「その者を手当せよ」
馬上の男は、壮年か、老年と言ってもいいくらいに見えた。スヴェンは脳が揺れるような感覚の中で、それが自分に言われたことなのかと思った。しかし何のことか理解できずにいると、いきなり、何者かに両脇を抱えられた。
「おい、死んでないよな」
声はシフだった。
何が起こっているのか、よく分からない。ただ、引き
騎馬の男が、そのまま、獣と相対している。男は馬を巧みに扱いながら、じわりとスヴェンを隠すような位置まで動いている。自分を護るつもりなのだ、というのがそのときになってはじめて、スヴェンにも理解できた。途端、胸中に羞恥にも近い感情が起こる。
「離せ」
言ったが、
「構うな、賊が」
「うるせえ。黙ってろよ。
シフが、必死の形相だった。
騎馬の男を見た。跳びかかってくる獣を、剣の先であしらうように相手している。討とうという気がない。それが、見て取れた。俺に戦わせろ。スヴェンは言いたかったが、振り絞っても、出るのは喘ぐような声だけだ。
腕を固めろ。いや、血が止まってからだ。そんな声が耳元で交わされている。それにも、スヴェンは腹が立った。賊に助けられて延びた命などいらない。
「俺は、賊になど」
そこまで言ったところで、左腕にこれまで感じたことのない感覚があった。
おそらく、砕けているであろう腕の、傷口から肩にかけて。なにかが這い上ってくるような感じだった。眼だけを動かして、スヴェンは左腕を見た。
黒いものが、染み出すようにして腕から現れていた。
悲鳴。上げたのはスヴェンではなく、周囲にいた男たちだ。スヴェンはただ、自分の腕から眼を離すことができなかった。這い上ってくるようなものは、これなのか。肩の辺りの感覚は嫌と言うほどあるのに、指先の方は、まったく何も感じなくなっている。それも、気味が悪かった。
騒ぐ男たちの声に重なって、また馬蹄の音が聞こえた。気付けば、あの騎馬の男が、傍に馬を停めていた。男は下馬すると、すぐにスヴェンの傍に駆け寄って、腕を取った。
「おぬし、私の声が聞こえるか」
聞こえている。スヴェンが頷くと、男の眼が微かに和らいだ。しかし、表情は険しいままで、依然として腕は離さない。
「あの獣は」
「ひとまず、追い払ったというところだ」
「あれは、討たねばならぬ」
「それよりも、おぬしのことだ」
「俺のことは、どうでもいい。あれを討たねば、俺の友が」
スヴェンの脳裏を、銀色の髪が
再び、スヴェンの胸に燃え上がるものがあった。自分の腕から這い寄ってくるものを、それで燃やし尽くしてやる、とさえ思った。あの怪物が何をしたのかは知らないが、こんなところで
それでも、腕から黒いものは消え失せない。怒りが、スヴェンの中でどうしようもないほどに猛っている。人の姿をした獣。その通りだと思った。しかし、この潰れた左腕をこのままにしていては、心まですべて獣になってしまう。そんな気がした。そうはならぬと、友に誓ったではないか。
「おい、おぬし」
傍らに
「俺の腕を、斬り落としてくれ」
「何言ってやがる、おい」
どういうわけか、シフが大声を上げている。男は、表情を変えなかった。
「おぬしを名のある武人と見込んでの頼みだ」
剣の腕は、先刻、見た。年嵩だが、確かなものを持っている。
男はスヴェンを見つめ、腕に視線を
「おぬし、名は?」
「スヴェン・ベンゲル」
「私はヨハン・ベルリヒンゲン。スヴェン殿、おぬしは剣士だな」
「まあ、そうだが」
「片腕で剣を振るうのは、苦労するぞ」
そんなことは、斬ってから考えればいい。スヴェンは何も言わず頷いた。男の名にはどこか聞き覚えがあったが、それもいまはどうでもいいことだった。
「板のようなもの。なければ、太い枝を持ってこい」
ヨハンという男が、賊に指示を出した。シフが、それに応じてすぐに手下を走らせている。賊がなぜこうも自分のことに手を貸すのか、スヴェンには理解できなかった。
「近くに、村でもあればな。どうしても、血が出すぎる。休める場所が欲しい」
「南に、ロヒドゥームの城が」
「そうか。ロヒドゥームはもうすぐなのだな」
「おぬし、軍人か」
男が一人、棒のようなものを持ってきた。そこらで拾ってきたもののようだが、ヨハンはそれをスヴェンの口に突っ込んだ。
「気を失うだろうから、言っておく。死んだら、ヨハン・ベルリヒンゲンを恨め」
腰に提げた剣を抜き放って、ヨハンが言った。スヴェンは思いのほか冷静に、その言葉を聞いていた。恨みなどしない。むしろ、ついそこで出遭った、見ず知らずの男の生死を任されてもそう言える男に、今更ながら敬意を抱いていた。
這い寄ってくるもの。ここで斬らねばならない。剣に続いて、腕も一本失う。
ヨハンが剣を振り下ろす。スヴェンは光る剣身から眼を離さなかった。気を失おうが、生き延びる。獣にもならぬ。スヴェン・ベンゲルとして生きてやる。
生きてあの兄妹に会うと誓ったばかりなのだ。
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