episode18 岐路に立って
花嵐
頭上の雲は、いつまでも晴れなかった。
この東海岸では、一つひとつの雲が青空にある、という感じではない。ただ灰色の薄い雲が、幕のように青空を覆い隠すのだ。晴れ間はほんの僅かにしか訪れず、あとはずっと曇っている。どれだけ雲が流れても、途切れることはない。雨が降るわけでもなく、ただ雲が続いているので、どこか気分も晴れないままである。内地で暮らしていたスヴェンには、あまり好きになれない天気だった。
「行こうか」
声を掛けられた。首を傾ぐと、脚があった。レオンが、自分を見降ろしている。
「おい、俺の剣は持ってるか、レオン」
「おう。何だ、提げる気になったか」
「いや」
それきりスヴェンは何も言わず、また空を見上げた。街道から少し外れたところの野原で、休んでいるのだ。反対に顔を向けると、少女が馬の傍に腰を下ろしているのが見えた。銀色の髪が、海から吹く風に揺れている。横顔からでもわかる、青く大きな瞳が、その海を見つめていた。
はじめから、奇妙な印象はあった。年の頃は十を少し過ぎたくらいだと聞いたが、そうは思えないほど大人びている。言葉にも、細やかなところがある。それが、こちらの考えを見透かしたうえで選んだ言葉のようで、こんな少女が、と思うことも何度もあった。
髪と瞳の色については、兄のレオンに
この国の人間ではないのかもしれない。しかし赤の国に、同じような人間がいるとも思えない。すると、ほんとうにこの少女は、自分と同じ人間なのだろうか、とすら思えるのだ。青い瞳には、何もかもを呑み込んでしまいそうな深みがあった。それでいて、強烈な輝きを感じることもある。
自分はもしかすると、あの瞳に魅了されてここまで来たのかもしれない。そんなことを考えると、自然と溜息が出た。
このまま、この兄妹と旅を共にする。悪くない考えだった。成り行き任せにここまできたが、なるべくしてこうなったとしか思えなくなるほど、旅を愉しんでいる自分がいる。
街道を北へ行くと、この国の北端、リントアウゲンに行き着くらしい。未だ訪れたことのない街である。見てみたい、という素直な好奇心が湧く。そこで、また路銀を稼ぐため、レオンと何か仕事をしてもいい。リオーネの謎を解くために書を探してもいい。学問は好きではないが。
目の前を虫が飛んでいって、思わずそれを目で追った。思考が中断される。
立ち上がった。ずっとこうしていると、願望ばかり浮かんでくる。どれも、甘さすら感じるような願望である。自分は何のためにこの東の果てまで来たのか。スヴェンは、一度固く目を瞑って、開いた。視界がはっきりとする。
「行くよ」
レオンを振り返る。彼はスヴェンを見て
「リオーネは、寂しがる」
「だろうな。俺が気にしているのも、それだけだ」
「おまえ」
レオンの脚をかわして、スヴェンは笑った。レオンも歯を見せている。こんなことを言い合える男とも、別れることになるのだ。
家族も、昔馴染みの者たちも、風に吹かれて死んだ。村ごと消えた。軍には志を同じくする仲間がいたが、友という感じではなかった。命を張り合う同輩。今思えば、付き合いには打算もあった。
そういうものがない、純粋な友。歳下だが、スヴェンはこの男をほんとうに好きになっていた。マルバルクの森を出てから、いや森の中の洞穴で目を
フォルツハイムを出る最後の夜、二人で話し合ったことだ。レオンは旅の中で癒せるものもあるのではないかと言ったが、スヴェンはやはり、自分を鍛え直すのも軍で、と思う。一からやり直すのである。過去、軍人だったスヴェン・ベンゲルは、洞窟の中で、あのとき死んでいたのだ。
マルバルク城を取り戻すための要請はする。しかしスヴェンが城を取り戻すのに足る軍人かどうかは、別の問題だった。
目の前に、鞘に入った剣が差しだされてくる。スヴェンは、手に取るのを
「剣も持たずに一人旅か?」
「もっと長い間、預けるつもりだったものだ」
「ほんとうに必要なときに、抜けよ」
自分が必要なときに剣を抜く。それが自分の中の狂気を呼び起こす。スヴェンには、そう思えてならなかった。
「おまえたちのために、抜く」
「なに?」
「自分のためでなく、おまえたちのために。目の前で助けを求める民のために、剣を振るうことにする」
レオンはスヴェンの言葉に、頷くことも、首を振ることもしなかった。ただ、真剣な表情だった。それは難しいと思っているのかもしれない。しかしこの男こそ、そうやって剣を振るっているのではないのか。フォルツハイムでの振舞いは、歳下とは思えぬほど、立派なものだった。
スヴェンは剣を、腰から提げた。もとは二本、提げていた。一本は敵にへし折られた。これが折れたとき、どうなるのか。考えたくはなかった。
「達者でな。竜の加護を、スヴェン」
「また会えるさ、友よ」
スヴェンは
「ひとつ、頼みがあるのだがな、リオーネ」
手綱を取って、スヴェンは言った。
「この馬、まだ名付けてもいないのだ。拾った馬だからと思っていたが、この先長く乗りそうな気もする。名付けてくれ」
「私が、ですか」
リオーネの返答は、頓狂なものだった。スヴェンもいきなり過ぎたかとは思ったが、彼女はううんと首を
「“
「あのような
「いや、いいと思う。少なくとも、これから
言うと、リオーネは伏せていた眼をぱっと上げてスヴェンを見つめた。言葉を誤った、と思ったが、遅かった。同時に、
青い瞳が困惑に揺れている。いまは、呑まれるな。スヴェンは、あえて笑顔を作った。
「そんな、スヴェン」
「もともと、俺の方が厄介になっていた旅だ。二人の旅に、戻るだけだろう」
リオーネは、兄を振り返る。いつの間にか彼女の背後で
「スヴェンの決めたことだ、リオーネ」
スヴェンも頷くと、腰に下げた剣を右手でリオーネに示した。左手は、
「レオンからは、この剣を受け取った。俺はこの剣に、戦う意味を約束した。おまえには、馬の名を貰った。この馬には、必ず生きてまた会うことを約束する」
剣の柄から手を離し、リオーネの頭に置いた。柔らかい銀の髪。名残惜しいが、また出会うときにこうして触れられれば、それでいい。
「わかっていたのですが、寂しいです」
「そうだな。俺も寂しい。しかしお前が泣くのを見ると、余計に寂しくなるから、よしてくれ。おまえにはきっと、竜の加護がある。また、会おう」
リオーネの頬に光る一筋の涙を、親指で
そのまま、スヴェンは馬に
「行こう、
曇天の空気を切り裂くように、馬は
背中に残った寂しさは、しばらく
“
戦場に出れば、何かが変わるかもしれない。自分の、ひとつめの剣が折れたのも、戦場だった。あの大剣の猛将。再戦することがあるのか。
ふと
前方を遮っている、一団があった。スヴェンは騎乗したまま、ゆっくりと近づく。殺気というより、害意が自分に向いている。
いきなりか。腰の剣は、あえて触れなかった。
「止まれ、そこの」
互いの顔が見える距離まで近付いたところで、スヴェンは眉根を寄せた。知っている顔だ。全員ではないが、少なくとも、止まれと声を張り上げた男は知っている。男も、こちらに気付いたようで、また声を上げた。
「
海賊の頭領の、弟。たしか名は、シフといったはずだ。眼を怒らせている。肩の大きな
「海賊が
冗談を言ったつもりだったが、シフも周囲の者たちも、こちらに険しい視線を向けるばかりである。いやな空気を感じた。害意は、まだ消えない。
「物々しいな。俺から
「
シフは大きく息を吐くと、部下に武器を下げさせた。なんのことか、と問うと、彼はじろりとこちらを
「
「なに?」
「ここいらで数日、野盗が出るって噂になってんだ。あんなふうにな」
シフが親指で指し示したのは、
「身ぐるみ剥がされちまってる。
「なんだ、自警団の真似事でもしているのか」
「いちいち
賊には賊の
「誰が奪おうと、罪は罪だがな」
「軍人みてえなことを言いやがる。おい、出遭ったからには、銭でも置いていってもらおうか。その馬でもいいぜ」
気付いてはいたが、周囲を男たちが取り囲むようにしていた。
「貴様らが、俺から奪うのか。笑わせるな」
「一人で、威勢のいいことだ。あの黒髪の野郎の分も、
くだらないとさえ、スヴェンは感じていた。レオンに一振りであしらわれた男である。さらに、数を
「
「おい」
怒鳴り声。構わず、スヴェンは馬の
瞬間、その腕を取って、地に投げ飛ばした。それがシフだったというのは、投げてから気付いた。背中から地面に叩きつけられたシフは、眼を見開いて息を詰まらせている。
男たちが声を上げた。一斉に剣を抜き放っている。
これは面倒なことになってしまった、と思ったとき、視界に異様なものが映り込んできた。
影が、地に立っている。
黒い人の形をしたもの。影のようなものが、街道の真中に立っている。それを見たとき、スヴェンは全身が粟立った。
スヴェンに向かおうとしていた男たちも、その視線を追って、異形に気付いたようだ。口々に何かを囁いている。ただ、誰もが、近付けずにいる。彼らなりに、目の前のものが危険だというのを、感じ取っているらしい。
スヴェンは、地面で背中を丸めているシフを蹴り飛ばした。彼は跳び上がるようにして起き、黒い影を認めると、すぐに身構えた。
「なんだ、銀の娘はおらぬのか」
骨にまで響いてくるような声が、全身を震わせた。黒いものが発したようだった。さらにその黒い人影の、顔の位置に赤い光を見て取ったとき、スヴェンの
「なんだ、おい」
「黙れ」
「
「黙れと言っている」
シフは、明らかに怯えていた。スヴェンの掌にも、汗が
リオーネに害をなそうとしているのだ。
スヴェンはついに、剣を抜き放った。異形が、そのとき眼を光らせた気がした。そして、
「その剣が、グィーを滅したのかな。剣士は黒髪の、偉丈夫だと聞いていたが」
相手が何を言っているのか、スヴェンには理解できない。一言一言が、刺すように危険を知らせてくるだけだ。
まさか、これほど早く剣を抜くことになるとは、思っていなかった。それもまさに、レオンに言った通り、あの兄妹のために抜くことになった。
振るえるのか、いまの俺に。スヴェンはもう一度、柄を握る手に力を込めた。目の前の敵は、明らかに常軌を逸した何かである。
剣は一振りだった。双剣を振るい、猛牛と呼ばれた男は、もういない。ここにいるのは、立ち直ろうとしているただ一人の男だ。
ここで剣を振るえば、何かが変わるのか。この者は、何なのか。リオーネに、何をなそうとしているのか。わからない。
「まあよい。その剣、見せてもらおうか、人間」
ただひとつわかっているのは、絶対にここで斬らねばならぬ、ということだけだ。
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