鎮火祭
大聖堂に踏み入ることにはならない、とドロゼルは言った。
それだけ言うと、彼はもう背を向けていた。見る間にその背が離れていく。音もなく、影そのものが移動しているようだった。シュローヴは、その後を慌てて追った。
建物を出て、人混みに紛れる。ドロゼルはただ歩いているだけだが、誰ともぶつかることなく、また人々が彼を避けるようでもない。人の間をすり抜けていく影だ、と思った。自分にはそんなことはできないので、通行人と肩をぶつからせながら、道を歩く。いやな眼を向ける者はいない。自分が聖職にあるというのは、着物を見れば誰でも分かる。
黒い背は、時折、視界から消える。見失ったと思うと、思いもよらない方向に現れる。それが何度も続く。人混みをかき分けるシュローヴの息が上がってきたころ、影がはっきり見えるようになった。なぜだと思って周囲を見ると、人ひとりいなかった。
「あの建物は、貴方の家ではありませんね?」
ドロゼルは路地の壁に背中を預け、何でもないふうに話している。シュローヴのことも見ていない。ただ、質問の内容は自分に向いているようなので、ただ頷いた。
「私用で外出をしている、というところですか?」
「違う。私用ではありません。あれは、教会も知っています」
「あれ、とは? 孤児たちのことですか」
この男は、いったいどこまで自分のことを調べているのかと思ったが、すぐに考えるのをやめた。どこまでも、知っているに違いない。呼吸を落ち着けながら、シュローヴはまた首肯する。
「立派な心掛けですよ。貴方のような人を、聖職者と言うのでしょうね」
「そのようなことを、話すためにここへ来たわけではないでしょう」
言うと、ドロゼルは薄い笑みを浮かべる。皮肉を言われているのか、冗談を言われているのか、それとも何の意味も籠っていないのか、よく分からなかった。口調は平坦である。
「
「まさか。昨年であれば、そうでしたでしょうが。今日は、教皇猊下と
「何名ですか」
「それは。多くとも数十名、三十名ほどではないでしょうか」
正確なところは、わからない。
ドロゼルはそういったシュローヴの説明を、無表情に聞いていた。説明に対する返答もない。あまりに何も言わないので、また口を開きかけると、耳元から突然声がした。
「“
見たことのない男が、不意に立っていた。男はシュローヴには
「追ったか、ヤン?」
「はい。教会周辺、東側に身を潜めているのではないかと。ただ、民の間に紛れています。巧妙で、簡単には居場所を暴けそうにありません」
「まだ、暴くな。こちらの存在を匂わせるだけでいい。数だけは、把握しておけ。後出しにはなるだろうが、合図は出す」
何のことなのか、シュローヴには一切理解できない。ヤンと呼ばれた男は、何かの指示を受けたのだろう、速やかに、また音もなく去っていった。
「ひとつ、質問をしてもいいかな、シュローヴ殿」
ドロゼルが、視線を地面に向けたままで言った。質問をしたいのはこちらの方だ、と思ったが、シュローヴは何も言わなかった。
「教会の人間が、“
「それほど、多くは」
「祭の前後でも?」
そう考えると、人の出入りは
月の初めに一度、講話のために司教以上の者が必ず出向くことはある。しかし、その程度だ。そう言うと、ドロゼルはまた返答もなく、眼を伏せた。
「軍と教会の間を往来する荷駄や車の検閲。これは、誰が行っていますか」
「軍の方は、分かりません。教会に入るものは、僧兵が行っています」
「厳しい検閲なのでしょうね」
「いえ。もう、形式的なものですので、実のところ、それほど厳しくは」
自分が何を
「我々はいま、直感で動いています。詳細は語れませんが、聖職にある方々の命は、できることなら守りたい」
「それは」
「際どいところを、戦うことになります。シュローヴ殿は大聖堂に行かれよ。そして、何者も外には出さないでください。貴方も、外には決して出ないように」
その言葉を最後に、ドロゼルは再びシュローヴに背を向けた。すぐ近くの角を曲がって歩き去ろうとする。
「ドロゼル殿」
血で満たすとは、どういう意味なのか。それだけを
すぐには、動き出せなかった。シュローヴは、頭の中でドロゼルの言葉を
行かなければならないのか。自分に、何ができるというのだ。
あのドロゼルという男たちはいい。軍人だ。戦うことが仕事で、血を見ることにも慣れているのだろう。際どいところと言っていたが、シュローヴには、それがどういう意味なのかも分からない。
自分の足が
同じことが、三度、繰り返し頭を巡った。四度目で、シュローヴは足を動かした。
歩いた。やがて、それは駆け足に変わった。頭には、血に
ここで何もせず、その屍を見ることになる方が、自分が死地に向かうことよりも怖かった。なぜか、自分が死ぬという感覚はない。自分が、そんな大事に巻き込まれて死ぬほど、重要な人間ではないと思っているからかもしれなかった。
駆けて、教会の門を
なぜか、聖堂の大扉に、番兵がいなかった。
扉に飛びついた。しかし、シュローヴは考え直し、ゆっくりと、音が出ないようにそれを開ける。すぐに、数人の男たちが並んでいるのが見えた。濃紺の法衣を着ている。間に合った。いや、これからなのか。
すぐに、シュローヴは身を低くした。扉を背に、座り込むようにする。本来なら、自分がこの場にいるはずがない。その上、見つかり、事情を
儀式が、まさに行われていた。
火が灯っている。大きな、鈍い色の杯の中。杯は浅いので、炎はシュローヴのいるところからも見えた。杯の傍で、大きな板のようなものを持った男が、その火に風を送る。火と風。赤の竜の象徴だった。何を中で燃やしているのか知らないが、風に揺らめいても、火は消える様子がない。風が吹くたび、火は勢いよく燃え上がるばかりである。
幸いと言うべきか、参列している者のすべての視線は、その杯に注がれている。シュローヴのほうを、つまり開閉した扉の方を見る者など、いそうにない。
教皇が、別の杯を両の腕に抱えていた。傍に二名、従者が付いている。おそらく、水の注がれた杯だ。濃紺の法衣が石の床を擦る。教皇は祭壇に登る。杯からは、一滴の水も零れることはない。風が吹きつけても、従者に支えられた教皇は杯をしっかりと掲げていた。
シュローヴは、儀式に目を奪われている自分に気付いた。慌てて、その場に座り直す。
「水と土の母、海と大地の主よ、最後の子たるわれらに加護を、
聖堂に教皇の声が響いたとき、杯の水が一度に火に向かって注がれた。
音。一瞬の、爆発のような蒸気。暗転。
同時に、シュローヴの背後にある扉が、音とともに揺れた。強い衝撃だった。何かが、外から扉に向かってぶつかったような衝撃だった。背中が、強く押されたようになり、シュローヴは思わず跳び退きそうになった。
耳を澄ませた。なにかの音。声だった。男の声。複数聞こえる。ふとシュローヴは、番兵のいなかった理由を考えた。見廻りか。聖堂の内に教皇がいて、見回りのために扉を空けることがあるのか。でなければ、まさか。振り返りそうになった。
「開けるな」
別の声が聞こえた。シュローヴは、顔を前に向けたまま、息を止めた。ドロゼルの声で、間違いない。そこにいるのか。
金属のぶつかり合うような音が何度か重なって聞こえ、声は止んだ。なにかがぶつかり合うような鈍い音が続く。嫌な
儀式は続いていた。しかしそちらの方を、もうシュローヴは見ていなかった。膝を抱え込んで、
争闘の音が止んだ。それでも、シュローヴは膝を抱えたままだった。もう、自分の歯の鳴る音しか聞こえない。
やがて、再び、教皇が祈りの言葉を捧げるのが耳に入ってきた。
儀式はもう佳境のようだったが、もうシュローヴはそちらを見なかった。立ち上がり、扉に手を掛けた。
「シュローヴ殿ですな」
いきなり、耳元で声がして、シュローヴは声を上げそうになった。しかしその口が、誰かの手で塞がれた。
「ヤン・クラーです。声は出さずに」
そんなことができるはずがない、とシュローヴは思った。目の前に、人の
「この
頷くしかなかった。口を塞がれたまま首を縦に振ると、ヤンは手を離した。手招きされる。
聖堂の前は、酸鼻を極めていた。見たくもないのに、視界には必ずと言っていいほど
その屍の海とも言えそうな中に、ドロゼルは
「あえて、こうするしかなかったのです、シュローヴ殿。協力に感謝します」
ドロゼルの声は、いつものように平坦だった。
自分は何もしていない。シュローヴは言った。自分は、震えていただけだ。しかしドロゼルはそれ以上何も
「これで、連中は気付いた。血眼になって我らを探し殺そうとするだろうな、ヤン」
「私は」
ドロゼルが、そのときふっと、表情を緩めた気がした。
「都を出ろ。道を辿れ。そして、潰せ」
ヤンが、はっきりと頷いた。
「分かっているな、ヤン。これは、おまえにしかできないことだ。私は、この都を離れるわけにいかぬ。残っている全員を、連れていけ」
「はい」
刹那、沈黙が下りた。
「行け」
ヤンが足音もなく立ち去った。周囲にあった人の気配も、瞬く間に消える。恐ろしいことに、あれだけあった屍は、跡形もなく消えていた。
残ったのは、ふたりだけだった。ドロゼルが右足を引き
「貴方には、話しておこうと思う」
目の前の男は、これまでに一度も見たことがないほどに、疲れているように見える。
「教会の人間が、数多く死ぬ。そういうことが、あるかもしれません」
「なにを」
「この争いで、確信した。なるべく、貴方には生きていてほしい。教会の深いところには、足を踏み入れない方がいい」
もう、踏み入れている。そう言葉が出かかった。今は余計なことだと思って、シュローヴは口を
「皆殺しを試みたが、失敗した。そういう事実だけは、作った。あえて襲撃の瞬間を狙い、失敗させた。暫くは、敵も大きな動きは見せられないでしょう」
ドロゼルが、長い息を吐いた。
「教会の人間を?」
それだけを、やっとのことで言うことができた。ドロゼルはゆっくり立ち上がり、シュローヴを見つめる。彼の方が背が低いため、こちらが見下ろすようにはなる。しかし、その瞳の威圧してくるものに、シュローヴはたじろいだ。
「しかし、なぜです。なぜそんなことを」
「叛乱」
ドロゼルが何を言ったのか、シュローヴはすぐには理解できなかった。
「馬鹿な。何者が」
「おそらく、
視界が揺れるような感覚に、シュローヴは襲われた。思わず、教会の塔を見上げた。
「すぐに、
「言って、どうする? 相手が誰なのか、貴方は判ったというのですか」
「いま、軍だと」
「教会だとも言いました。それが猊下に近しい者であればどうなるか、わからぬ貴方ではあるまい」
余計なことをするな、と言われているように、シュローヴには聞こえた。
「敵には、こちらの正体を掴ませたくない。シュローヴ殿がこれを密告しようとすれば、連中はすぐに貴方を消しにくる。あるいは貴方を拷問し、我々のことをすべては吐かせようとするでしょう。悪いが、シュローヴ殿に自分の身が守れるとは思えない」
それについては、返す言葉もない。散乱した
「何を根拠に、叛乱などと」
「武器の密輸を護っている者を締め上げたのですよ」
この日を狙って敵が密かに集まっていたことと、武器の道とやらが東からこの
「推測の域は出ません。武器の道は、部下に辿らせます。まずは、東へ」
しかしその推測は、ほぼ当たっている。シュローヴは思った。でなければ、あれほど血を見るような事態が起こるはずがない。何者かが、間違いなく教会の、教皇も含めた聖職者たちを抹殺しようとした。
大量の武器が、裏の道を通って軍に運び込まれている。戦に使うのならば、秘密裏にする必要は無い。軍の上層には教会がある。教会の眼を盗んで行う必要があったからではないのか。
ドロゼルの論は、筋が通ってしまっている。
しかしシュローヴはそこまで考えて、さらに自分の
教皇以下、
教会の、東の塔。大扉。
あの扉の奥への道を、叛乱の徒は開こうとしているのではないだろうか。扉は固く閉ざされている。しかしそれも、
それに、扉が開いてしまえば。
王を封じる鍵そのもののうち、ひとつはもう、欠けているではないか。
「国を覆す。それだけが、目的ではないのだとしたら」
ドロゼルは、再び姿を消そうとしていた。その足が、止まった。異様なものでも見るかのように、シュローヴを見ていた。
言葉は発せられなかった。お互い、無言で見つめ合った。考えを読み合うような、しかし肚の探り合いとも違う、奇妙な感覚だった。ドロゼルの瞳が、自分を見つめていた。
思えば、先に接触したのは自分だった。ドロゼルはそれに乗ったのではなく、自分が話しかけるのを待っていたのではないか。
国が傾くとか、魔物が目覚めるとか、そんな話をしたくて、近づいたわけではない。ちょっと面白そうな男だと思っただけだ。教会のありように
自分は、生命を受けたときより、青き竜の
「私の知っていることをお話しする。明かしたいことはひとつだ。東に部下を向かわせるのは、それからでも遅くない」
出会うべくして出会った。この男と自分は、もう一蓮托生なのだ。
もしかすると、自分はいま、奮い立っているのかもしれない、とシュローヴは思った。
(無銘の道 了)
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