銀の風は吹いたか
宝石を見ているようだ、と思った。
いくつもの瞳が、無垢な光を
街の入り組んだ路地の中、ふっと開けたところに、噴水の広場がある。噴水そのものは枯れていて、いまや人が集まるだけの場所になっているのだが、そこに、シュローヴは数十人の童とともにいた。
昼間、こうして街の隅のとある場所で童を集め、
「剣の話をしてください、シュローヴ様。剣士の話を」
「もう一度、ブラウ王の
いつものように、神と竜の子の
「勇者になろうという子がこれだけいるとは。この国の未来は明るいな」
童らはまた、それで笑う。
半分は冗談だったが、半分にはシュローヴの願いもあった。
都に届く戦況の報せは、どれをとっても良くない。遠征軍は壊滅したというし、指揮官だったヨハン・ベルリヒンゲンは消息不明という。南方のハイデル軍を率いるベイルという指揮官も死んだらしい。赤の国の軍はますます北上し、途上の村々から略奪を繰り返している。
ここへ来て、ようやく戦時下にあるという感覚を覚えたのか、都の壁の中でも、大人たちが騒ぎ始めていた。今夜は
当然の動きだが、シュローヴは漠然とした違和感も持っていた。一応は、聖職に就いている身である。これでいいのか、という思いもあるのだ。こんな時であるからこそ、青の竜の加護を願うべく、祭りは盛大に行ってもいいのではないか。自分たちのためではない。民の不安を、少しでも和らげることにはならないか。
童たちがこうして自分の下に集まり、
「獣の
不意に少女が漏らした言葉に、
獣。この街の、教会の地下に眠る王。
あの暗い、墓地のような印象すら受ける祭壇の姿を、シュローヴは瞬時に思い出した。同時に、背中を冷たいものが走り抜ける。扉の向こうには、あれ以来一度も足を踏み入れていない。近づくことすら、避けた。
いったい、自分のように秘密を知っている者が、この教会にどれだけいるのか。誰にも、
「黒い獣の王は、いまも生きておるのだ。私がそう言えば、勇者らはどう言うかな?」
「やっつけます、俺が」
一人の少年が声を張り上げると、周囲の子らもそれに続く。聖剣でやっつけよう。竜の子の加護があるから大丈夫。純粋な言葉に、シュローヴは自分の言ったことを後悔した。この子らに、それを言ったところで何にもならない。この子らだけではない。誰も、信じはしないだろう。この都の下に、伝説の怪物が眠っているなど。
「さて、では、私は青き竜のため、祈りを捧げよう」
「もう行ってしまわれるのですか」
名残惜しそうな視線を向ける童たちの頭を撫で、シュローヴは頷く。ちょうど、童たちの向こうから、女たちがこちらにやって来るのが見えた。手に手に衣服を持った彼女らは、童たちの親代わりだった。
「竜の加護を」
言ったが、そのときにはもう、少年たちは駆け出していた。笑顔で彼らを迎える女たちの懐に飛び込んでいく。
その様子を見つめていたシュローヴの傍に、女がひとり、歩み寄ってきた。年老いた、修道女であった。
「子どもたちは、不思議がっております。大人たちの様子を見て、彼らも感じるところがあるのでしょうね」
「戦など、まだ知らなくてよい。私はそう思う」
老女は、困ったように眉尻を下げる。女たちをまとめているのが、この修道女だった。孤児を引き受け、育てる。シュローヴの始めた小さな施設の、ほとんどを仕切っているのが、彼女だ。もとは青竜教会にいたが、年齢を理由に教会を出て、いまは街中に暮らすようになっている。
そういった者しか、自分のやろうとすることに賛同しなかった。若い男の修道士は勿論、修道女も、孤児を引き取って養おうなどということに、手を貸してはくれない。青い竜の加護は
心ある者が、都にも幾分かいて、僅かなものだが衣食は保障できている。銭は、シュローヴの得ているものを回せばよかった。司祭となって、蓄えもできている。贅沢に暮らそうとも思わないので、苦しくはなかった。
「便りは届いているかね」
「今朝、二通。飛脚が運んできたものが」
シュローヴは頷き、老女と別れ路地に入った。
孤児らを住まわせている建物からは離れたところに、老女の住まいがあった。といっても、彼女はほとんど孤児らと寝食をともにするので、ここには誰もいないことが多かった。まれに、手伝いの女たちが出入りするくらいだという。その女たちも、夫や住まいを失くした者が多い。
建物に入り、すぐに階段を上がる。雑多なものが置かれた部屋。
二通とも、弟子からのものだった。それぞれ、国の東の方にいる者たちである。西の山脈には足を踏み入れるなと言っているし、戦果が南から“
一通は、
“銀の風が吹いた”。シュローヴは弟子たちに、そう書くよう指示した。
もし、旅の中で、銀髪と青の瞳を持った者と出会うようなことがあれば、即座にそう便りを送れ、と言ってある。弟子たちも何を言われているのか分かっていないだろうが、それ以上のことを伝えるわけにもいかない。竜の子などという
そも、彼らが竜の子なる者と出会う可能性など、無いに等しいものだと思っていた。この国の中で、ただ一人の人間と、それもいるのかいないのか、分からないような人間と出会うことができるとは思えない。
一枚目を読み終え、二枚目。差出人の名を見たとき、シュローヴは思わず頬を緩めた。フリーダ。最も手の掛かった、そして最も愛おしかった弟子の名である。
教会の前に捨てられていたのを拾ったのは、シュローヴだ。よくあることで、彼女が特別というわけではない。他にも同じような孤児はいた。シュローヴが孤児を養う施設を創ったのも、その数が多すぎるからなのだ。
どこか
ただ、女ということが、彼女の能力を発揮させない環境を作った。教会でも、要職に就くのは皆、男だ。だからこそシュローヴは、彼女を
命を守るための技として、薬を学ばせることにした。剣や槍などの武器で身を護るには、鈍すぎるところがあったからだ。構わず、本人はすぐに旅に出ると言い張ったが、説き伏せ、学ばせた。こうして便りを送ってくるということは、その技が生きているのだろう。
便りの内容は、やはり旅の報告だった。ただ、それは初めの部分だけで、“
崩落した家屋、死んだ草花、冷たさだけが残った人間の亡骸の様子。彼女らしく、詳細に書かれてあった。薬のことを書き留めるときも、思わず筆を動かすのを見つめてしまうほどに書いていたものだ。なぜ、“
その文字に懐かしさを感じながら、シュローヴは読み終えた紙を折りたたむ。紙の裏、その隅に何かが書いてあった。走り書きのようなそれが、目に留まった。
銀の風、とあった。
シュローヴは、息を呑んだ。
次の瞬間、背後に人の気配を感じた。全身が総毛立ち、跳び
「そう、驚かれるな」
黒い衣を身に纏った男が、部屋の戸口に立っていた。僅かに口の端を吊り上げている。シュローヴの反応を、愉しんでいるようでもあった。
「ドロゼル殿か。妙な真似は、やめていただきたい」
「なに、食い入るように書簡を読んでいらっしゃたのでな」
自分が気付く前から、部屋にいたというのか。シュローヴは、速くなった鼓動がようやく落ち着いてくるのを感じた。
ドロゼル・ナハト。会うのは久しぶりだった。もともと、教会のことを探ろうと言うので繋がりを持ったが、いつからか姿を消していたのだ。いなくなったものとばかり思っていたが、一度、町人に姿を変えて接触されたときも、同じように驚いたものだ。気配を消したり、変装したりということが異常に巧みで、軍人と言ってもまともな仕事をしているのではないということは、よくわかった。
「それほど重要なものですか、それは」
「まあ、そうですね。旧友からのものです」
適当な嘘を言ったが、どうせこの男は信じていないだろう、とシュローヴは思った。
「なにか御用ですかな」
尋ねると、ドロゼルは音もなく近寄ってきた。
「シュローヴ殿に、力を貸していただきたい」
「何事ですか」
「それを言う前に。教会の中は、どうなっているのですか? 今夜の
シュローヴはフリーダからの便りを懐に突っ込むと、首を振った。
「中止というのは、あくまで街での催しのことですよ」
「では、やはり教会の内部で、密やかに行うというのですね」
なぜか、その質問をするドロゼルの眼は、鋭かった。やはり、という言葉が、気になった。
「いったい、それが何だというのです」
「その場所を、シュローヴ殿はご存知か?」
どうにも、ドロゼルの語気が強い。数回しか会ったことのないシュローヴにも、彼がこれまでとは違う様子でいるのが分かった。
祭が行われる場所なら、知っている。教会の敷地内にある大聖堂だ。そこには竜杯と呼ばれる杯があって、そこに火を灯し、その後水で満たすのが、
シュローヴが頷くと、ドロゼルもまた頷き、背を向けた。
「どうしようというのです、ドロゼル殿」
いやな予感はしている。自分がその場所を教えることによって、何かに巻き込まれそうなことも感じている。それでも、シュローヴは尋ねた。
ドロゼルは背中を向けたまま、沈んだ声を発した。
「祭が水でなく、血で満たされる。私がそう言えば、貴方はどう言うかな?」
先刻、シュローヴが童たちに問うたような言い方だった。
しかし、ドロゼルの声に明るいものはない。
シュローヴも、笑わなかった。
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