海の男
地から熱が昇ってくる。十日ぶりの街だった。
熱に交じって、匂いも立ち昇ってくる。土や石の匂い。そして、鉄の匂い。これが
フォルツハイムの港に近い海上に、
「匂いが濃い。なぜだと思う、シフ」
「あれだよ、兄貴」
自分のすぐ後ろを歩いていた、弟のシフが一点を指差した。
港の、桟橋のいくつもかかった、その端。
「連中を連れてこい」
命じると、供の者たちが縄を
ハイシュは
「顔をよく見ろ」
男二人の、震える背に向かって、ハイシュは静かに言った。
「
「勘弁してください、
男たちは、
「何が勘弁だ。手前らのような
シフが、二人を背から蹴飛ばした。屍の中に、男たちが頭から突っ込む。
「悪かった。許してくれ」
「そうだ。心から
泣き叫ぶ男たちを部下に任せ、ハイシュは
「船に運べ。一人残らず。ひとりひとり、必ず海に還すのだ」
海の上で生まれ、海の上で死ぬ。死ねば、仲間が海に還してくれる。ハイシュだけでなく、弟も、子分もそう思っている。こんなところで腐っていくのは、海の男として、死ぬことそのものよりもつらいことだった。
人生のほとんどを、海で生きてきた。
生まれたのも船の上で、育ったのも海の中である。物心つくころから“小鮫”と呼ばれてきた。父は、“鮫の牙”と言われる、海の賊徒の頭目だったからだ。
幼いころから、周囲にいるのは全身が日に焼けた、いかつい男ばかりであった。母はどこかの
海で過ごし、海と語らう。街に入るのは、何かを奪うときだけ。言葉で教わったわけではない。自分たちの生き方がそうだというのを、男たちの背から感じ取っただけだ。海で生きているといっても、百人以上が食っていけるだけの漁法を知っているわけではない。奪えないなら、死ぬしかない。だから、生き残るのは強い男だけだ。強い男に、ハイシュはなりたいと思って育ってきた。強ければ何でも奪えるし、仲間も慕ってくれる。
仲間の数は、父の代から増え続けている。はじめは大型船一艘に全員が収まっていたが、いまでは大型船が二艘、小型船が十艘にもなっていた。その船団を、いまは自分が率いている。父が頭領を降りると言ったとき、自然と、自分がその後を継ぐことになった。
父は、祖父の代から運輸の仕事を生業にしていたようだが、あるときを境にして、完全にやめてしまった。それからは、奪う生活に変わったのだという。運んではいけないものを運んだからだ、とだけ父は言った。
その仕事は、いまはもう別の業者がやっているが、働いているのは皆、父の息のかかった者たちである。この近海を航行するときは、いくらかの銭を自分たちに納めることになっていた。そうしてさえいれば、他の賊が船を襲うことはない。
だから、フォルツハイムで子分が三十名以上死んだ、と聞いたときは、何が起こっているのかまったく見当もつかなかった。生きて帰ってきた者たちに
大事な子分が死んだことにも腹が立つ。しかし、そんなところに子分が首を突っ込んでいることに、そもそも怒りを感じていた。理由が分からなかったので、さらに厳しく問い詰めると、借金の返済ができなくなった職人どもの話に乗せられ、用心棒の真似事を買って出たのだという。
奪うことでなく、くだらない銭のいざこざに片足を突っ込んでいる。縄で縛った男二人は、子分を死なせた挙句、その
数名の部下が、街から駆け戻ってきた。金貸しの男は仕事場におらず、銭も何もなかったという。ただ、街の者から、坂を上った高台にその金貸し、ガイツ・クラーゲンの屋敷があると聞きだしていた。
港から街を北上し、高台へと向かう。この街には何度か船を入れたことがある。高台まで行く用事ができたのは、これが初めてだった。いつもなら、浜や港で飲み食いをするか、女を探すだけだ。
行き交う街の者は、大げさなほどに自分たちを避けて通るか、路地に逃げ込んでいく。鮫だ、という
屋敷は、大きなものだった。白い土で固めた塀がそれを取り囲み、門が構えてある。ただ、鉄の門は閉められていて、その向こうに男たちが固まって立っていた。武器を持っているのが、遠目からでも分かる。あれが、ガイツの私兵と言うやつなのだろう。
部下が、鉄の門に鎖をかける。
「引け」
ハイシュが言うのと同時に、子分の男たちが一斉に声を上げる。鎖が引かれ、鉄の門と擦り合う。鈍い音で、門が揺れる。四十名を超える海の男たちに引かれ、
兵の内側で、私兵たちが声を掛け合っている。表情には恐れと焦りが見えたが、かといって何かを起こそうという気もないらしい。ただ、成り行きを見ているというだけのようだ。
「おい、金貸しの手下ども。
シフが怒鳴り上げるが、その声にもただ怯えているだけである。ハイシュは、その様子を見て落胆した。こんなやつらに、俺の子分が殺されたのか。
門と塀を繋いでいた部分が、音を立てて壊れた。鉄の門が鎖に引かれ、土埃を立てて倒れる。
五十名の部下とともに、屋敷に足を踏み入れた。
「ガイツを出しな」
シフが言う。
見れば、私兵の数は三十もない。委縮しているのは、数で劣っているのがわかったからなのか。武器も携えているが、剣なり槍なりを、ただこちらへ向けているだけに見えた。
ハイシュの手の合図で、五十名の部下が一斉に剣を抜いた。
「出てこい、ガイツ。無駄に、部下の血を流させたくないだろう」
これだけ言ってもまだ、私兵たちは動きを見せなかった。ハイシュは、そこにおかしなものを感じ始めた。数で負けているのが分っていて、戦う気も見せていないのに、逃げないのだ。こちらの部下は、いつでも襲い掛かれる。この期に及んで逃げ出すこともせず、武器も向けてこないというのは、どういうつもりなのか。
「待ってくれ」
私兵の並ぶ向こうから、太った男が出てきた。
「もう、限界だ。欲しいものを、何でも言ってくれ」
「あんたがガイツか」
「そうだよ。見ての通り、しがない金貸しだ」
脂汗を滲ませた男が、両手を擦り合わせている。これがガイツという男なのだろう。媚びるような笑みを、弟に向けていた。
ただ、ハイシュの視線は、さらにその後ろへ向いていた。
二人。ひとりは短い
ガイツの私兵ではない。それは、はっきりと分かった。毛ほども隙が感じられない。先刻まで騒めいていた男たちとは、根本的に違う人間のように思える。
黒髪の男と、眼が合った。瞬間、ハイシュの全身に緊張が走った。
「俺たちの子分を、
「おい、おい。俺は、
「それについては、俺たちにも落ち度があった」
ハイシュはそこではじめて、口を開いた。シフが一度こちらを窺うように見て、口を
手を挙げると、縄に繋がれた二人の男が、前へ蹴とばされて出てきた。
「こいつらと、その子分が、勝手に職人どもと
「けじめだ」
ハイシュが低い声で言い、剣が振り上げられた。
「待て」
その剣が、別の声で止められる。ハイシュの視線の先にいた黒髪の男。一歩、前に出てきていた。
「殺すのか」
「そうだ」
名も知らぬ、若い男。その場にいるほとんどの人間が、訝しげに彼を見つめていた。そして若い男は、それにまったく動じてもいない。海賊が数十名並ぶ中、この男は自分しか見ていない。無視できない、とハイシュの中の声が言っていた。
「なんだ、
「黙れ、シフ」
弟の肩を掴んで
「無駄な血を流させたくない。そう言ったのは、おぬしらだ」
「俺たちにも、守らなけりゃいけない掟ってのがあるのさ、若いの。どこの誰だか知らんが、海の上の掟に口を挟まねえでくれるかな」
「その二人を殺したら、次はどうする?」
思わず、ハイシュは笑みを零した。この若い男は、何も解っていないわけではない。
「俺たちが落とし前をつけたんだ。次は、
金貸しを指差す。ガイツが、息を呑むのが分かった。
もともと、そのつもりで来た。子分どものやったことにはけじめをつけさせなければならないが、三十人の仲間を殺されたことに、何の報復も無しというわけにいかない。
奪われた分は、奪い返さなければならないのだ。
黒髪の男が、さらに一歩前に出てきた。金髪の男が、ガイツを背後に隠す。
「庇いだては、あんたの命を無駄にするだけだ」
「黙って殺させるわけにもいかんのでな」
「なんだ、金か? いや、金で動くような男には見えんな」
「まあ、恩義があると言うだけだ」
男の声には、落ち着きがあった。
「恩義か。よほど自信があると見える。こっちは、五十人ばかりいるんだぜ」
「悪いが、負けるとも思えぬ」
「
傍にいたシフが、前に出てきていた。すでに剣を抜いている。振り上げた。
やめろ、とハイシュが言うよりも先に、弟の手から剣が飛んだ。
黒髪の男が剣を抜いたのが、辛うじてハイシュには見て取れた。シフには、何も解らなかっただろう。手首を押さえ、驚愕の表情で相手を見つめている。
周囲で、子分たちが色めき立つのが感じ取れた。
「やめろ」
今度こそ、ハイシュは声を上げた。
「弟が、浅はかな真似をした。こいつの腕では、
そのシフが何もできなかったのを見て、部下たちも沈黙していた。自分の部下だけではない。ガイツも、彼の私兵も、
「ガイツは、職人から銭を取り返したかっただけだ。おぬしらは、部下が勝手に暴れただけだろう。おぬしらの子分は何十人も死んだというが、ガイツの兵も同じくらい、死んでいるのだ。これ以上、
黒髪の男が言うのを、ハイシュは黙って聞いていた。間違っているところはない。頭が切れるのか理屈っぽいのだけが鼻に付くが、言い分には一理あった。
「口の達者なやつだ」
「何とでも言えばいいが、血を見たくないのだ。銭で解決できることなら、この男がいくらでも持っている」
おい、と小さくガイツが声を上げた。それが自分でも思わず出た声だったのか、慌てて口を塞いでいた。
ハイシュは、もう一度黒髪の男を見た。敵意はまったく、感じられない。
「いいぜ。
言った瞬間、シフが抗議するような声を上げたが、ハイシュと視線が合うと、すぐに俯いた。
ハイシュが手を叩くと、部下が数名で屋敷に入っていった。その後を、ガイツと彼の私兵が慌てて追っていく。
黒髪と金髪、二人の男だけが、そこに残った。
「おぬしのような話の解かる男が頭領で、よかった」
「黙れ。相手が
「レオン・ムート」
「俺は、ハイシュ・ミュラ。こいつは、弟のシフ。レオン・ムート。いつかまた会ったら、そのときは俺と、立ち合おう」
「おぬしの剣は、受けたくないな」
レオンが、そこで初めて表情を崩した。若さが、その
その顔に、自分がそれほど嫌悪を感じていないことに、ハイシュはそのときになって気付いた。
強い男というのは、悪くない。そう思っているからなのかもしれなかった。
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