男ひとり、境に立つ
熱気が、屋外にまで溢れている。
フォルツハイムの南、港のほど近くに、
夕暮れの陽が海を照らしている。思わず目を細めなければならないほど、照り返しの光は強く、大きい。光は建ち並ぶ
その工場街と言えるところ、とくに鍛冶屋が並ぶ一帯には、暑い季節のもの以上の熱気が立ち込めている。レオンとスヴェンは、私兵団に続いてそこへ立ち入った。すぐに、上着を取る。熱は、肌にじっとりと絡んでくる。
上半身に何も身に付けていない男たちが、そこここにいる。汗に
色黒の男たちが、ちらちらと視線を投げかけてくる。歓迎の色などない。物珍しそうに見るわけでもない。
前方で、私兵の頭領が工房の一つに入っていくのが見えた。それを見ていた職人たちが声を上げる。近寄ろうとする者を、他の男が肩を掴んで止めているのも見える。誰でも感じ取れるような不穏な空気の中、レオンは隣を歩くスヴェンに目配せする。
私兵が皆、工房に入った。レオンとスヴェンは、戸口で立ち止まる。振り返った。職人たちと目が合った。驚いたように、男たちが声を上げる。スヴェンが、腰の剣の柄を叩く。互いに、視線を外さないまま、見つめ合った。レオンは、静かに気を放った。足元の土。そこに、見えない線を引く。そこを越えるな。黙したまま、視線だけで伝えた。何か言おうとしていた男たちは、それで黙り込んだ。
「いい判断だ。この者たち、慣れている」
スヴェンが小さい声で、自分にだけ聞こえるように言った。レオンも頷く。
鉄を扱う者、革細工をする者、布を織る者など、職人は様々なのだろうが、これほど敏感に気配を感じ取れる職だとは思えない。このフォルツハイムの、この工場街だから、そうなのか。争いや
レオンらが訪れたこの工房が、ガイツの取引相手だという。
なんでもない鍛冶屋としか思えない。私兵たちが中に入って、争うような音もない。声だけは聞こえてくるが、
ふと、積み上げられた箱が目に入った。商品なのだろうか、剣が無造作に入っている。柄が箱からはみ出して、こちらに出ていた。何の彫りも入っていない鍔、
そこで不意に、膠着した空気が変わった。足音。複数、近づいてくる。
並ぶ工房の向こうから、近づいてくる人影があった。それも大人数で、何事かを
工房の中は、外観から感じるよりも広かった。ただ、それでも熱気が籠っているのか、屋外よりもさらに暑い。その暑い中で、男たちが何か言い合っている。ガイツの私兵が五十名と、職人たちが数十人いるせいで、熱は増しているように思えた。
レオンが戸口から現れたのを見て、私兵たちはお互いに顔を見合わせていた。頭領と、向かい合っていた職人らしい男も、こちらに注目していた。
「おい、先生。入ってくるなと」
「話が違う」
先生というのはレオンのことで、スヴェンもそう呼ばれていた。指南役になったときからそう呼ぶように、ガイツから言われているようだった。
「なんのことだ」
「そこの職人に話がある」
レオンは、頭領の言葉を遮り、言った。
「妙な連中が現れた。あれは、なんだ?」
レオンの指さす先を、私兵たちが眼で追った。何名かが、戸口へと駆けていく。職人は、引きつったような笑みを浮かべる。汗が頬を伝っている。私兵の頭領が、その胸ぐらを掴みかけたとき、外から怒鳴るような声が聞こえてきた。
残っていた私兵たちが、弾かれたように駆け出す。レオンはその場で、職人たちの動きを眼で追っていた。戸口とは反対側、おそらく、勝手口があろう方向に、逃げ出すようにして走っていく。駆け去ろうとした最後の一人、レオンの脇を駈け抜けようとしたその腕を掴み、捻り上げた。
「おい、よしてくれ」
「逃げるのは勝手だが、問いに答えろ。あれは、なんなのだ」
職人は顔を歪ませ、叫んだ。
「賊だ。海賊だよ」
戸口の喧騒が膨らんでいく。レオンは掴んでいた手を離し、歩き出した。逃げた職人は無視する。鉄と鉄のぶつかる音が聞こえてきた。駆け出した。戸口はまだ、外に出ようとする私兵たちで
すでに、闘争が起こっていた。私兵団と、海賊の争い。しかしどうやら、それだけでもなさそうだった。闘争の数が、あまりにも多い。通りのありとあらゆるところで、怒鳴り声と悲鳴が上がっていた。
剣を抜く前に、レオンは何が起こっているのか、見定めようとした。剣と剣のぶつかり合い。それだけでなく、棒や斧のような、粗末なものを持って暴れている者も多くいる。
そういう混沌とした中に、武器を抜かずに声を張り上げている者たちがいた。見覚えのある顔。レオンらが稽古を付けた私兵の内の、何名かだった。武器を振り上げている者を羽交い絞めにしていたり、倒れた者に声を掛けたりしている。レオンが駆け寄ると、必死の形相を向けてきた。
「先生、俺たちは」
「それでいいのだ。話の通じる者だけでも止めろ。もう、どうにもならん。逃げるのだ」
スヴェンとともに、骨がありそうだと見込んだ者たち。逃げられるのは、そういう者だけになるだろう。ただ、もう争いそのものに収拾をつけることは難しくなっている。
「よいか、職人であろうと、共に逃げよ。俺は」
レオンの視線は、地面に倒れた
「ガイツの下へ、戻れ。俺は残る」
剣を
馬鹿か、俺は。レオンの脳裏に浮かんだのは、リューネブルクの廃墟で、賊を滅多斬りにした男の背だった。思い至らなかった。スヴェンの内にいる魔物のことを、失念していた。
果たして、路地にその魔物がいた。ちょうど男二人が、その剣を受けて倒れるところであった。倒れた男に、スヴェンが剣を突き立てるのと、レオンがよせと声を上げるのは、ほとんど同時だった。鮮血が路地の壁に飛ぶ。
赤い鬼。レオンにはそう見えた。振り返ったスヴェンは、レオンの姿を認め、
「俺は、やっぱり、もう、だめだ」
聞き取れたのは、そんな弱々しい声だった。掛ける言葉が、レオンにはなかった。
路地の向こうでは、まだ争闘の音が聞こえる。レオンは、スヴェンが
争闘から離れるようにして、二人で路地を抜ける。遮る者がいれば自分が剣を抜かねばなるまい、とレオンは考えていたが、結局、港を離れるまで、誰とも行き会わなかった。逃げ出していく男たちの姿が目に入った。レオンらに声を掛けてくる者もいたが、ガイツの屋敷に戻れとだけ言って、すぐに別れた。
争闘の音が聞こえなくなるところまで、二人で歩いた。
海に面した草地に、そのまま腰を下ろした。ガイツのところまで歩いて戻る気力が、スヴェンの方にはもう、残っていないようだった。血
「敵が剣を持って向かってくる。それで、俺の中の何かが、弾ける」
スヴェンは、空と海の境が
「なぜかな。あのときから、こうなのだ」
マルバルクの城。そして、森での戦いのことを言っているのだと思った。
「俺は、軍人なのかな、まだ」
レオンは、はっとして、すぐにスヴェンを見た。
「俺がいま、斬った者の中には、賊だけでない、
「それは」
「はじめに、賊が剣を抜いた。そして、私兵たちが。俺は、そのときにはまだ、俺だったのに」
そう言ったきり、スヴェンは沈黙した。レオンはそこで、彼の剣をまだ自分が持っていたことを、思い出した。返そうとすると、スヴェンは掌でそれをレオンの方に押し戻した。
「おまえが、持っていてくれ。勝手な頼みだが」
「おい」
「おまえは、剣を抜かなかった。それは正しかったと思う。剣は、正しく
スヴェンはゆっくりと立ち上がると、座ったままのレオンに背を向けた。
「戻ろう。血を落としたい」
水平線の境はもう見分けがつかないほど暗くなっていた。レオンは血に塗れたスヴェンの剣を持って、彼の後を屋敷へと戻った。
ガイツの屋敷は、夜だというのにまだ明かりが
「海賊だと。おまえたちは、なんてことを」
「それは俺が言いたのだがな、ガイツ」
ガイツの叱責に直立する私兵の背から、レオンは声を上げた。ガイツの顔が、それで途端に引き
「取引というのは、命のやり取りという意味だったのか。おまえは、銭の取引だけしている男だと思っていたのだが」
「おい、待ってくれ、レオン。俺だって、こんなこと思ってもみなかったよ」
ガイツの眼は、レオンの持つ
「別に、おまえを斬ろうというのではない。どういうわけかを、知りたいだけだ」
ほんとうだった。巻き込まれたという思いはあるが、怒りというほどのものではない。言うなれば、疲れだけがあった。
「どういうわけか、だと。俺だって知りたいさ、くそっ」
ガイツは吐き
「貸せと言う額が、この一年ほどで、途端に増えた」
落ち着いたのか、ガイツの口調はいつもの
「そして、返さなくなった。あの鍛冶屋は、どこかへ武器を輸出してる。それがどこかまでは、俺は知らん」
「そんな相手にでも、金を貸すのか」
「おまえ、この仕事を
「それでも、返せていたのだな」
「そうだ。それが、この半年ほど、めっきり返さなくなった。渋りやがるから、いよいよこっちも、こいつらを行かせたんだよ。レオン、あんたらを同行させたのは、職人どもがおかしな動きを見せるかもしれなかったからだ。海賊だなんて、誰が考えるか」
実際、そこについては、レオンとスヴェンが抑えることになった。ガイツの見通しは、的を射ていたのだろう。
職人は海賊と手を結んでいたのか。そんなことができるのか、少し考えた。あの工場街の職人の眼からは、どうも海賊までに思い至らない。今思えば、あの職人たちは略奪を繰り返す海賊たちと、港で渡り合ってきたはずなのだ。レオンは、ガイツから聞いた話を思い出した。この近くで略奪を繰り返す海賊たち。あの職人たちが、黙ったまま何も抵抗していないなら、工場街はあれほど人が集まっていないはずだ。
「大損だ。兵は二十名死んだ。職人は逃げた。海賊には目を付けられる。こんなことがあるか」
ガイツは、レオンにまた目を向けた。
「おい、あんたら、明日の朝が来たら、すぐに逃げな」
意外な言葉に、レオンは面食らった。
「なんだ、その顔は」
「いや。銭を払うから明日も同行しろとでも、言われるのかと」
言うと、ガイツは手を振って笑って見せた。
「
彼は両手を拡げ、天井を見上げた。
「この屋敷と、仕事場はな、俺の財産なんだよ、小僧。わかるか。俺のものだ。だが、あんたの命は俺のものじゃねえ。余計なものまで、背負わせるな。あんたらの腕は認めるが、二人じゃどうにもならねえよ。朝になったら、とっとと
明日には賊が来るだろうからな、とだけ言って、彼は私兵と話しはじめた。もう、レオンと話すつもりはなさそうだった。
部屋を出て、レオンは暗くなった屋敷の廊下で、立ち止まった。
恩を受けた。しかし、契約は今日までだ。ガイツの言ったことに、誤りはひとつもなかった。それでも、あの場で助けてくれと言われていたら、自分は手を貸していたかもしれない。
恩には報いるものだと教えられ、育った。それが仁義というものであり、人の道であると。しかしそれは、
廊下の向こうから、スヴェンがやってきた。血糊はすべて落としていたが、表情は冴えなかった。
今の話をするべきか、レオンは迷った。
スヴェンと、そしてリオーネは、何と言うだろうか。
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