声など無くとも
少年は、どこまでもついてきた。
南に向かっている。峠道で、ここを越えるた先に街があると聞いていた。それは行き交う人々に
この国はいま、敵国の侵略を受けている
その峠道を歩く後ろを、姿を隠しながら追ってくる者がいる。ルカという名の少年だった。
都を出て、
地方ではどうか知らないが、都では
師である
そのうえ、もとより誰かと生活を共にすることに馴染みがなかったから、一人で旅に出よ、と言われたときも、抵抗は何もなかった。
父は軍人で──といっても一兵卒でしかなかったが──北伐に出陣し、命を落とした。フリーダがまだ生まれたばかりの頃らしい。母は幼かった娘を教会に捨て置き、その後の行方は知れない。すべて、自分を世話してくれた
自分の境遇が恵まれないものだとは、思わなかった。よくあることなのだ。教会の手伝いをしているうちに、そう思うようになった。捨てられる
神の存在が、そんな子どもたちを救う。親に見られていなくとも、神だけは自分らを見ている。青の竜の瞳は、生きるものすべてを
ただ、旅というのは、楽なものではない。できると思うのと、実際にできるかどうかは、別の問題だ。女がひとりで、という言葉には反感を覚えるが、男たちの言うとおりでもある。
それを問題にしないのは、師シュローヴくらいだ。フリーダが
僧兵となる者は剣も槍も弓も、
代わりに叩きこまれたのは、薬についてだ。
傷も病も、薬なら癒せる。万能ではない。しかし、身を護る
書物と、薬師の手伝いから、十年学んだ。
危険は、目に見えるものから、目に見えぬものまで
役に立ったのは、ここでも薬の技だった。正確に言えば、薬と、それを人の体内に打ち込む針の技である。
フリーダの身に付けている修道服の袖や裾には、無数に針を隠している。針には、人を昏倒させたり、痺れさせたりすることのできる薬を仕込んでいるのだ。左右と手足で薬の種類を変えていて、状況によって
腕力で敵わぬ者が相手になっても、組み敷かれたり、羽交い絞めにされたときに、この針を打ち込むのだ。大抵の人間は、それで死にはしないが、動けなくなる。薬によっては、
力ずくで襲ってくる相手も、一人か二人を薬で昏倒させれば、気味悪がって近付かなくなる。それでも物分かりの悪い相手というのはいて、時間をかけて十数人の身動きを取れなくしたときもあった。
殺すことだけは、絶対にしなかった。薬を調合するときも、これ以上、強さを増しては人が死ぬというところで、量を調整する。殺すために学んだ薬ではない。
目に見えないものでは、疲労が大きな障害になった。病なら、自分で何とかできる。ただ疲労だけは、薬で誤魔化すことはできても、最後は
睡眠を十分にとれないのが、最もつらいことだった。なかなか慣れないもので、安全なところを選び野営もするが、ほとんど眠れない。あるとき水に映った自分の顔を覗いて、濃い
隈は、もう取れなくなっている。しかし、なぜかそれで、男に声を掛けられることは減ったから、いいのだと思うようにした。
このところは、争いになる前に逃げる
だからこそ、あのリューネブルクという街で賊に捕らえられたのは、油断したとしか言えなかった。
自分を救ったのは、見ず知らずの男たちだった。
不思議な組み合わせの旅人だった。元小領主だという青年、軍人の男。なぜか捕らわれの身になっていた少年。
何よりフリーダの心を動かしたのは、見たこともない風貌の少女である。銀の髪に、青い瞳だった。女のフリーダから見ても、はっとするほど美しく、目の前にいるのに、そこにいないような感覚さえあった。この世のものではない。そんな気さえした。
リオーネ・ムートというその少女と、兄のレオン・ムートが里を捨て出た旅に、スヴェン・ベンゲルという軍人が付き添っている。
それに全員から、害意も悪意も感じなかった。
銀の髪。青い瞳。古い伝承に、そんな記述はいくらでもあった。しかし、伝承である。伝説とも言えた。すべて、この国のはじまりに関する記述である。神の力を受け継いだ聖女。あるいは、この国を最初に統べた王の伴侶。あるいは、最初の竜の子。あるいは、かつてこの地に栄えた先住民の女王。フリーダの頭の中には、ありとあらゆる記録が詰まっている。どれを
フリーダの心中で、あの少女をどう考えるべきなのか、まだ整理はついていない。ただ、いずれまた、出会うような気はした。そのときは、何か大きなことが起こりそうだとも思えた。
自分を追ってきている少年。
三人の旅人から、ただ一人距離を置いていた。心の距離である。
レオンから、簡単な
なぜ自分を追ってくるのか、
峠の
山中には、食べることのできるものは、いくらでもある。薬について学ぶうちに
とくに、
気にすることなく、
「ひとつ、どうですか」
それほど大きな声でもなく、ぽつりと口に出した。反応はない。声が出せないと言うので、返事があるとは思っていなかったが、物音もなかった。
「もう五日、何も食べていないでしょう。
茂みの向こうに、いる。それは分かるのだが、音ひとつ立てない。それが、驚くべきことのように思えた。
「毒は選んでいませんよ。
五日間、こんなことを言いながら、一度も少年がフリーダのもとへ来ることはない。
「ルカ。こちらへおいでなさい」
はじめて、はっきりと、少年に向かって語りかけた。
ルカという名であって、姓はわからない。レオンから聞いたとき、おおよそのことは想像できた。修道院で育てられた者に、よくあることだ。どの家の者か、誰の子か分からない。レオンは語らなかったが、孤児なのだろう。つまり、自分と同じである。
待った。水場は暗くなっていく。
音もなく、ルカが姿を現した。暗闇から、影だけが人の形になって、出てきた。そんな印象だった。眼は、けもののそれだった。暗闇でも、光を放っている。しかし光を放つということは、死んではいないということだ。まだ、彼の心の中に人間はいる、とフリーダは思った。
焼けた
「食べなさい。あなたの食べたい分だけ」
言い終えるかどうかというところで、ルカが
食べてから、まだ焼いておらず、脇に寄せていたものに、ルカは眼を向けた。
「これも、焼けというのですね」
言うと、ルカは固まってフリーダを見つめ、ややあって首を振った。
「お腹が、減っているのでしょう。遠慮しなくとも良いのですよ」
ほんとうだった。フリーダも腹は減っているが、一晩何も食べなかったところで、どうということはない。それよりも、五日、何も口にしていない少年の方が気になっているだけだ。
枝に刺し、
焼けたものを、フリーダは食べた。味つけはないが、それでも十分に美味だと思える。たまに、これは食えたものではないという味のものに当たるときもあるが、今日のものはどれも味があって食えた。
ルカは、
月の明るい夜だった。風も程よく吹く。この頃の気温からしてみれば、涼しいと言えた。時折、森の奥で何かが動くような音がする。羽虫が飛んでいる音がしたが、火の熱に逃げる。
「なにゆえ、あの方々について行かれたのですか、ルカ」
今度もはっきりと、名を呼んで尋ねる。顔を伏せていたルカが、僅かに身じろぎした。
「あなたの心の傷は、レオンやリオーネといることで癒されましたか」
いきなりだった。フリーダがそう口に出した瞬間、いきなり、地面に組み伏せられていた。声も出なかった。ルカが、呼気荒く自分の肩を掴んでいる。
針。右足の針。四肢を麻痺させる薬が仕込んである。
刺すことはしなかった。
「違うのですね。あなたの傷は、あの方々に付けられたと。そうなのですか」
ルカの息がまた荒くなった。喉から、何かの音が出ている。声ではない。出ないところから、さらに絞り出したような音だった。首を縦にも横にも振らない。ただ、フリーダを睨みつけている。瞳に、邪悪なものが見えた。
復讐か。ぼんやりと想像していたことの通りだ、と思った。安堵に近い感情が湧く。
「
問うた。
「人を憎んで、傷付けたのでしょう。それが、つらかったのでしょう」
ルカはまだ、フリーダの眼を見つめている。邪悪な光。いや、それだけではない。奥には、人間のルカがいる。自分を殺さない。食べ物も、すべて奪わなかった。何かを求めている。復讐ではない何か。五日の間、自分についてきた。
自分に、何かを求めたのだ。
「あなたは人間です、ルカ」
肩に込められた手の力が、緩んだ。
「青の竜は、
手が、肩から離れた。
ルカは火から離れ、森の闇と、火の灯りとの境にいた。両腕で、自らの細い
フリーダは立ち上がり、今度は逆に、ルカの肩に掌を置いた。少年が、びくりと大きく震える。
そのまま、抱き締めた。ルカの荒れた呼吸が、それで寸時、止まったようになった。
「
抱いてみれば、ひとりの少年だった。止まっていたその呼吸が、戻りはじめる。呼吸の音は徐々に大きくなり、やがて途切れたものに変わる。喉から出る音。微かなものだが、
少年が溢れさせたものは何なのか。
いまは、
それも悪くないのかもしれない。
(死んだ者を、忘れない 了)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます