声など無くとも

 少年は、どこまでもついてきた。


 南に向かっている。峠道で、ここを越えるた先に街があると聞いていた。それは行き交う人々にいたもので、輸送業者か商人、あるいは飛脚のような男たちである。


 この国はいま、敵国の侵略を受けている最中さなかである。しかしこの道を異国の兵士が通ったという話はまったく聞かない。道が細く、大規模な行軍には向かないのだろう。戦のことに疎いフリーダでも、それくらいのことは想像できた。


 その峠道を歩く後ろを、姿を隠しながら追ってくる者がいる。ルカという名の少年だった。


 こうと思えば撒ける。賊や悪漢から逃げる術は、十分身に付けている。しかし敢えてフリーダはそうしなかった。理由がないのだ。このまま、この少年に付き合う理由も無いし、逆に、突き放す理由も無い。なにより、害意を感じない。結局、つかず離れずという距離でついてくるだけなので、放っておくことにしている。そのまま、もう五日ほど経っていた。


 都を出て、巡礼ミスィオンを続け半年になる。旅には、慣れはじめていた。


 地方ではどうか知らないが、都では巡礼ミスィオンなど古い慣習にすぎない。せいぜい十数年前までおこなわれていただけの儀礼的なものだ。ただ助祭や司祭など、上の階級を名乗るためにこなさなければならないというだけで、いまはそのためにすら都を出る者はいなくなった。


 師である司祭ブリストシュローヴだけは、その慣習をかたくなに守り続けている。だから、彼の下で学ぼうという修道士たちだけは、この巡礼ミスィオンもあるものだと分かっている。フリーダも、そのうちのひとりである。


 そのうえ、もとより誰かと生活を共にすることに馴染みがなかったから、一人で旅に出よ、と言われたときも、抵抗は何もなかった。


 父は軍人で──といっても一兵卒でしかなかったが──北伐に出陣し、命を落とした。フリーダがまだ生まれたばかりの頃らしい。母は幼かった娘を教会に捨て置き、その後の行方は知れない。すべて、自分を世話してくれた司祭プリストから聞いた話だ。フリーダの記憶に残っているものは、何もない。自分の名すら、教会で暮らすうちに付けられたもので、親に貰ったものではないらしい。


 自分の境遇が恵まれないものだとは、思わなかった。よくあることなのだ。教会の手伝いをしているうちに、そう思うようになった。捨てられるわらべは多い。ブラウブルクだからそうなのではない。どこでも、そうなのだ。子を満足に養える家というのは、実は多くない。しかし教会に放れば、生きていくことはできるかもしれない。親の気持ちは、なんとなく理解できた。


 神の存在が、そんな子どもたちを救う。親に見られていなくとも、神だけは自分らを見ている。青の竜の瞳は、生きるものすべてをあまねく見通す。自分を生んだのは母だが、その母の生命いのちを造ったのは青い竜だ。だから、自分にとっての神は、母でもある。フリーダも、そう信じている。母のため、信仰を守り広める。それが自分にできることだ。


 巡礼ミスィオンは、母の教えを広め、この世の救いを求める子らを救う旅だ。なぜその風習が今ではすたれているのか理解はできないが、行うのは当たり前だと思っていた。


 ただ、旅というのは、楽なものではない。できると思うのと、実際にできるかどうかは、別の問題だ。女がひとりで、という言葉には反感を覚えるが、男たちの言うとおりでもある。


 それを問題にしないのは、師シュローヴくらいだ。フリーダが巡礼ミスィオンに向かうと決め、そのときが来るまでに、ひとりで生きるすべを叩きこまれた。


 僧兵となる者は剣も槍も弓も、つかい方を教えられる。女であるフリーダは教えられない。巡礼ミスィオンに出るからという理由で、一通り習ったというだけで、遣えるとは言えたものではない。旅に出て、災難から自分の身を守れるほどのものには、ならなかった。シュローヴも、それほど巧みに武器を遣えるわけではない。


 代わりに叩きこまれたのは、薬についてだ。


 傷も病も、薬なら癒せる。万能ではない。しかし、身を護るすべを何も持たぬ自分にとっては、薬の技こそが剣であり、槍だった。修道士や、聖職に就く者のうちには、医師や薬師としての顔を持つ者もいる。教会に病の者や怪我を負った者が並んでいるのは、信仰だけを頼りにそれを癒そうと来ているわけではないのだ。


 書物と、薬師の手伝いから、十年学んだ。巡礼ミスィオンに出ることを決めたよわい十三のときから、気付けば十年である。しかも、それでもまだ、知らぬ病や毒はたくさんある。まだ学ばねばとは思っていたが、フリーダがむことを危惧した師が、昨年になってフリーダを都から出すことを決めたのだ。そして、水の季節フリーレになったとき、都を出た。


 危険は、目に見えるものから、目に見えぬものまで数多あまたあった。目に見えるものでは、賊などが田舎にはいて、女であると見るやいなや乱暴を働かれそうになったこともある。一度や二度ではなく、初めのころはいつもそうだった。


 役に立ったのは、ここでも薬の技だった。正確に言えば、薬と、それを人の体内に打ち込む針の技である。


 フリーダの身に付けている修道服の袖や裾には、無数に針を隠している。針には、人を昏倒させたり、痺れさせたりすることのできる薬を仕込んでいるのだ。左右と手足で薬の種類を変えていて、状況によってつかい分ける。隠しているから、傍から見れば、女が何も持たず旅をしている、というふうにしか見えないだろう。


 腕力で敵わぬ者が相手になっても、組み敷かれたり、羽交い絞めにされたときに、この針を打ち込むのだ。大抵の人間は、それで死にはしないが、動けなくなる。薬によっては、嘔吐おうとが止まらなくなったり、錯乱することもある。


 力ずくで襲ってくる相手も、一人か二人を薬で昏倒させれば、気味悪がって近付かなくなる。それでも物分かりの悪い相手というのはいて、時間をかけて十数人の身動きを取れなくしたときもあった。


 殺すことだけは、絶対にしなかった。薬を調合するときも、これ以上、強さを増しては人が死ぬというところで、量を調整する。殺すために学んだ薬ではない。


 目に見えないものでは、疲労が大きな障害になった。病なら、自分で何とかできる。ただ疲労だけは、薬で誤魔化すことはできても、最後はからだの内から湧いてくるものが満ちない限り、癒せない。


 睡眠を十分にとれないのが、最もつらいことだった。なかなか慣れないもので、安全なところを選び野営もするが、ほとんど眠れない。あるとき水に映った自分の顔を覗いて、濃いくまが浮かんでいたときには、声を上げて驚いた。


 隈は、もう取れなくなっている。しかし、なぜかそれで、男に声を掛けられることは減ったから、いいのだと思うようにした。


 このところは、争いになる前に逃げるすべが身に付いてきているから、針をつかうこともほとんど無くなっている。針も、そも、身を助けるために学んだものだから、遣わなくなることは、フリーダにとってもありがたいことだった。


 だからこそ、あのリューネブルクという街で賊に捕らえられたのは、油断したとしか言えなかった。死の風エンデである。まともに受けて、崩れ去った街を見るのは初めてのことで、そちらに気を取られすぎていた。


 自分を救ったのは、見ず知らずの男たちだった。


 不思議な組み合わせの旅人だった。元小領主だという青年、軍人の男。なぜか捕らわれの身になっていた少年。


 何よりフリーダの心を動かしたのは、見たこともない風貌の少女である。銀の髪に、青い瞳だった。女のフリーダから見ても、はっとするほど美しく、目の前にいるのに、そこにいないような感覚さえあった。この世のものではない。そんな気さえした。


 リオーネ・ムートというその少女と、兄のレオン・ムートが里を捨て出た旅に、スヴェン・ベンゲルという軍人が付き添っている。けば、そんな間柄あいだがらのようだった。なにがどうなれば、あの三人が繋がるのか知れないが、仲は良好のようだった。


 それに全員から、害意も悪意も感じなかった。巡礼ミスィオンの中で、人の悪意にはいち早く気付けるようになっていたが、あの三人に関しては、そんなことを警戒する必要すらなかった。不思議な感覚だった。リオーネなど、まるで自分が姉か母かのような眼差しを向けるものだから、フリーダもこれまでにないほど語らってしまったのだ。


 銀の髪。青い瞳。古い伝承に、そんな記述はいくらでもあった。しかし、伝承である。伝説とも言えた。すべて、この国のはじまりに関する記述である。神の力を受け継いだ聖女。あるいは、この国を最初に統べた王の伴侶。あるいは、最初の竜の子。あるいは、かつてこの地に栄えた先住民の女王。フリーダの頭の中には、ありとあらゆる記録が詰まっている。どれをひもといても、まさかと思うような伝説ばかりだ。


 フリーダの心中で、あの少女をどう考えるべきなのか、まだ整理はついていない。ただ、いずれまた、出会うような気はした。そのときは、何か大きなことが起こりそうだとも思えた。


 自分を追ってきている少年。


 三人の旅人から、ただ一人距離を置いていた。心の距離である。


 レオンから、簡単な経緯いきさつは聞いていた。ウォルベハーゲンの修道院から、ここまでわけあって自分たちを追ってきたということ。声を出せぬ傷を負っているということ。そして、それよりも大きな心の傷を抱えていること。その傷は、師を失ってできたものだということ。


 なぜ自分を追ってくるのか、かずとも分かる気がした。


 峠の中腹ちゅうふくに差し掛かったところで、道から逸れた。別に、撒こうというのではない。陽が暮れかけているから、視界が悪くなる前に食べられるものを探しておこうと思ったのだ。


 山中には、食べることのできるものは、いくらでもある。薬について学ぶうちにわかったことだ。躰を癒すものと、毒になるものの見分けをつける。すべての薬の調合は、そこから始まる。毒になるものでなく、食用にできるものは、あればすぐに見つけられる。


 とくに、きのこたぐいは、間違わなければ、十分に腹を満たすものになる。火さえ起こせれば、あとはどうにでもできると思っていた。


 火の季節ブレンネになっているのか、山の気温が高い。水場まで行くと、生えている植物やきのこは多いのだ。慎重に選び、食べられるものを集めた。人の気配は、やはりついて来ている。


 気にすることなく、たきぎを集めて火を点けた。水場はあった。人の行き来があるからか、石を積んでかまどにしたような跡も、そこここに見えた。


「ひとつ、どうですか」


 それほど大きな声でもなく、ぽつりと口に出した。反応はない。声が出せないと言うので、返事があるとは思っていなかったが、物音もなかった。


「もう五日、何も食べていないでしょう。わたくしが食べていても、口にされませんでしたし」


 茂みの向こうに、いる。それは分かるのだが、音ひとつ立てない。それが、驚くべきことのように思えた。


「毒は選んでいませんよ。わたくしが食べるものですから」


 五日間、こんなことを言いながら、一度も少年がフリーダのもとへ来ることはない。


「ルカ。こちらへおいでなさい」


 はじめて、はっきりと、少年に向かって語りかけた。


 ルカという名であって、姓はわからない。レオンから聞いたとき、おおよそのことは想像できた。修道院で育てられた者に、よくあることだ。どの家の者か、誰の子か分からない。レオンは語らなかったが、孤児なのだろう。つまり、自分と同じである。


 待った。水場は暗くなっていく。たきぎの弾ける音がした。


 音もなく、ルカが姿を現した。暗闇から、影だけが人の形になって、出てきた。そんな印象だった。眼は、けもののそれだった。暗闇でも、光を放っている。しかし光を放つということは、死んではいないということだ。まだ、彼の心の中に人間はいる、とフリーダは思った。


 焼けたきのこを、その眼が見つめていた。きのこは、よく火にあぶられて、匂いを漂わせている。


「食べなさい。あなたの食べたい分だけ」


 言い終えるかどうかというところで、ルカがきのこ食らいついた。ひとつ、ふたつを飲むようにして食べ、一緒に炙っていた山菜も皆、平らげた。あっという間だった。


 食べてから、まだ焼いておらず、脇に寄せていたものに、ルカは眼を向けた。


「これも、焼けというのですね」


 言うと、ルカは固まってフリーダを見つめ、ややあって首を振った。


「お腹が、減っているのでしょう。遠慮しなくとも良いのですよ」


 ほんとうだった。フリーダも腹は減っているが、一晩何も食べなかったところで、どうということはない。それよりも、五日、何も口にしていない少年の方が気になっているだけだ。


 枝に刺し、きのこと山菜をまた焼く。フリーダがもう一度だけと思って勧めると、ルカはまた首を振った。そして、焚火から離れたところで、膝を抱えてうずくまった。


 焼けたものを、フリーダは食べた。味つけはないが、それでも十分に美味だと思える。たまに、これは食えたものではないという味のものに当たるときもあるが、今日のものはどれも味があって食えた。


 ルカは、うずくまったまま動かなかった。盗られるものもないので、フリーダも食後の火を残したまま、そこで休む。


 月の明るい夜だった。風も程よく吹く。この頃の気温からしてみれば、涼しいと言えた。時折、森の奥で何かが動くような音がする。羽虫が飛んでいる音がしたが、火の熱に逃げる。


「なにゆえ、あの方々について行かれたのですか、ルカ」


 今度もはっきりと、名を呼んで尋ねる。顔を伏せていたルカが、僅かに身じろぎした。


「あなたの心の傷は、レオンやリオーネといることで癒されましたか」


 いきなりだった。フリーダがそう口に出した瞬間、いきなり、地面に組み伏せられていた。声も出なかった。ルカが、呼気荒く自分の肩を掴んでいる。


 針。右足の針。四肢を麻痺させる薬が仕込んである。


 刺すことはしなかった。


「違うのですね。あなたの傷は、あの方々に付けられたと。そうなのですか」


 ルカの息がまた荒くなった。喉から、何かの音が出ている。声ではない。出ないところから、さらに絞り出したような音だった。首を縦にも横にも振らない。ただ、フリーダを睨みつけている。瞳に、邪悪なものが見えた。


 うしなった、大切だったという人物。レオンとリオーネの名を出して、この反応。フリーダの問いに、否定も肯定もしない。


 復讐か。ぼんやりと想像していたことの通りだ、と思った。安堵に近い感情が湧く。


わたくしが憎いですか」


 問うた。


「人を憎んで、傷付けたのでしょう。それが、つらかったのでしょう」


 ルカはまだ、フリーダの眼を見つめている。邪悪な光。いや、それだけではない。奥には、人間のルカがいる。自分を殺さない。食べ物も、すべて奪わなかった。何かを求めている。復讐ではない何か。五日の間、自分についてきた。


 自分に、何かを求めたのだ。


「あなたは人間です、ルカ」


 肩に込められた手の力が、緩んだ。


「青の竜は、わたくしたち人間に心をお与えなさったのですよ。あなたの大切な方の思いは、あなたの心で受け継ぐのです。憎しみだけが、生きる糧ではありません」


 手が、肩から離れた。からだに掛けられていた重みも解ける。


 ルカは火から離れ、森の闇と、火の灯りとの境にいた。両腕で、自らの細いからだを抱き、震えている。


 フリーダは立ち上がり、今度は逆に、ルカの肩に掌を置いた。少年が、びくりと大きく震える。


 そのまま、抱き締めた。ルカの荒れた呼吸が、それで寸時、止まったようになった。


わたくしに話してみませんか。あなたがうしなった方への思いは、伝わります。声など無くとも。あなたが、ほんとうにその方を愛していれば」


 抱いてみれば、ひとりの少年だった。止まっていたその呼吸が、戻りはじめる。呼吸の音は徐々に大きくなり、やがて途切れたものに変わる。喉から出る音。微かなものだが、嗚咽おえつに聞こえた。フリーダの肩が濡れる。何で濡れているのか、すぐにわかった。


 少年が溢れさせたものは何なのか。


 いまは、かずにおいた。これから、いくらでも機会はある。もう夜が更けていく。ひとりでない夜は、久しぶりだ。しばらく、こんな夜が続くのだろうと思うと、フリーダは知らず、頬を緩めていた。


 それも悪くないのかもしれない。





(死んだ者を、忘れない  了)

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