生き残った者にできるのは
すぐにでも馬に乗り、北へ駈けたかった。ハイデルへ行きたい。行って、友の顔を見たい。しかし一方で、白く、色を失った顔など見たくはないという思いもある。レーヴェンの心にいるベイル・グロースは、まだ笑っている。いつも大きな口を開け、白い歯を見せていた男。最後に療養所で眠っている姿を見たときでさえ、起き出しそうな顔色だったのだ。
ひとりで、山に登った。三日続けて登った。“
兵が息を切らして駆け登るその山を、同じようにして駆ける。崖に座り込んで息を整える。そこからほとんど一日、レーヴェンはその崖にいた。
砦では三日の休暇が設けられ、兵たちも思い思いに過ごしている。大きな戦のあとだ。急いでいても、休みは必要だった。
近くの街まで外出することも認められている。銭を握りしめ、幾人かで連れ立って砦を出る若い兵の姿も見た。
“
そういう者たちも、城内では同僚と語らったり、馬の世話をしたり、武器を磨いたりと、好きにやっている様子が見える。夜になれば酒を飲んで騒ぐ男たちの声が聞こえ、賑やかではあった。戦のさなか、兵には束の間ではあるが、笑顔が戻っていた。
必要な休みで、必要な喧騒である。それはわかっていて、レーヴェンはあえてその輪から離れた。山に入ったのは、自分でもなぜなのかわからない。ただ、いろいろなことを考えようと思った。そして、ここを見つけた。
戦のことを考えた。それから、息子と娘のことを思った。レオンとリオーネのことを考えるときにだけ、沈んだものが明るさを取り戻す。しかし気付いてみれば、また沈んでいる。
ふさぎ込むことに意味はない。わかっていても、ふとしたときに友の姿が脳裏に浮かぶ。やはり、死ぬとは思えなかった。これまで生きてきて、様々な豪傑を目にしてきたが、ベイルほどの者は、他にいなかった。
都からやってきて、現在は消息が途絶えているというヨハン・ベルリヒンゲン。かつての上官は、きわめて優れた戦術眼を持っていたし、
あるいは、東海岸に城を持つかつての同輩、ヴォルフラム・スターク。飄々とした風体の奥に、豪胆さを秘めた男。人を操る術に長け、人脈の広さは計り知れないものがあった。
ベイルという男は、武勇と知略を、どちらも高い次元で持った男だった。そんな男が、なぜエーデルバッハ領という南部の中領地を守ることになったのか、先に軍から退いた自分には、わからない。自分で望んだのだ、と彼自身は言っていたが、能力からいえば、この“
ともに戦場を駆けた。理想を語った。これこそが誇り高き
ほんとうに、死んだのか。この眼で確かめていないからそう思うだけで、ほんとうは死んでいないのではないか。やはり、そういう思いになる。
戦に散ったなら、わかる。しかし毒刃に
背後の茂みで、音がした。思考が中断され、レーヴェンは振り返る。すぐに、溜息が口から出た。
具足に身を包んだ者が、茂みから息を切らせて現れていた。小柄である。休暇だというのに、兜まで付けていた。大きい瞳がその下にあって、真直ぐにレーヴェンを捉えている。自分が呆れたのが分かったはずだが、彼女は意に介する様子もない。
女だった。兜を脱ぐと、栗色の髪が零れるように現れる。そのときには、もうレーヴェンは女から視線を外していた。
カヤという名だった。ただ、その名すらもレーヴェンは尋ねていない。彼女が自ら名乗ったのだ。
もう三日とも、この崖に姿を見せていた。
「今日も、お願いに参りました」
背から、少女の声が飛んできた。レーヴェンは、崖から地平を眺めるだけである。
「私を、兵として認めてください」
レーヴェンは、何も答えなかった。
先の戦いが終わり、戦後の処理の
埋葬は兵が交代で行うことになっているのだが、手伝いもいた。近くの集落からこの砦に逃げてきた者などが、それに当たる。十分な食いものと寝る場所を与えられているから、民もそれには逆らわない。いやな仕事だが、担い手はいた。
カヤは、その手伝いを買って出た一人だった。レーヴェンも
ポルトから逃げてきた、ということは聞いた。だから、はじめは民の一人が軍人を慕って声を掛けてきただけのことだ、と考えた。しかし少女の口から出た言葉は、自分を兵の一人として
認める気など、当然ない。三日経っても、それは変わらない。むしろいまも、一人でいるところにこの少女がやってきたことに、
眼下では、変わらず人の行き来がある。皆、鎧や武器を解いて、身軽そうに歩いている。こういう眺めも、悪くないと思った。後ろで鎧を付けたままの少女は、直立したままである。
そうしているうちに、何をこんな娘に苛立っているのだ、と考えた。思い返せば、昨日もそうだった。何がそうさせる。友の死か。レーヴェンは自嘲するような気持になった。自分の半分も生きていないような娘に、友を
「戦で
生き残った者にできるのは、死んだ者を忘れないことだけ。ギルベルトに、口ではそう言いながら、自分は割り切ることができないでいた。それに、三日経って気付くとは。
「どういう意味でしょうか」
「なに、生きている者ができることなど、限られているということだ」
「私は」
少女が何か言いかけた、その横を通り過ぎる。後を追ってくる気配はない。それでいい、と思った。もしかするとあの少女も、戦で何かを
ただ、あれは少女だった。気持ちは分からなくもないが、兵士として何か役目を果たそうというのは、ずれていると思った。
リオーネの髪の色が、不意に思い出された。自分の姓を与えた、血の繋がらない娘。いま、どうしているのか。リオーネが剣を持つと言いはじめたら、間違いなく叱って、
調練が再開されたのは、翌日すぐだった。
レーヴェンは
この
僅か三百の兵でも、違いを作り出せる。矢に譬えるなら、
調練では、
調練の間は、無心だった。兵の動きを観察し、考えるべきことは考えるが、それだけで、雑念はない。ベイルのことも考えなかった。
夕刻まで調練を続け、終えるころには兵も疲労困憊といった様子であった。明日は緩やかに行い、その翌日はまた、激しい調練を行う。ファルクの宣言では、
練兵場で騒ぎがあったのは、翌日の夕刻、調練が終わったころだった。
鎧を洗うレーヴェンの下に駆けてきた兵が、練兵場で少女が暴れている、と言ったのだ。少女、と聞いたときには、レーヴェンの脳裏にあの栗色の髪の少女の姿が浮かんでいた。聞けば、兵士に手あたり次第に声を掛け、決闘を挑んでいるとかいう、内容も馬鹿げたものである。見る気も起きなかったが、レーヴェンは練兵場に向かった。
そこではまさしく聞いていた通り、少女が剣を握り、兵たちに大声をかけていた。兵士も大人である。ほとんど相手にせず、むしろ
「何が暴れている、だ」
言うと、兵は形容しがたい表情でレーヴェンから眼を逸らした。
レーヴェンの姿を認めると、兵たちは一度に表情を変え、その場に整列する。少女だけが取り残されたように、その場で固まっていた。
「いい加減にせよ、娘」
カヤは怯んだように身を震わせたが、すぐに剣を置いてレーヴェンの前に直立した。
「私を、兵として認めてください」
それを聞いた兵士たちが、肩を震わせる。ただレーヴェンの手前、笑うわけにもいかず、顔を
「なぜ決闘などという馬鹿なことを考えた」
「私の剣の腕を、レーヴェン殿に認めていただきたく」
「この者たちは調練を終えたあとだ。そんな兵に決闘を挑むのが、おまえの流儀か」
少女は顔を耳まで紅潮させた。眼に涙すら浮かべているのを見て、レーヴェンは呆れから掛ける言葉も失った。
「私は、ただ」
レーヴェンは何も言わなかったが、そこでカヤの言葉は途切れた。唇を震わせている。そこに血が
そこで、彼女の眼の光が意外なほど強くなった。おやと思うほど、意志の強さを感じる眼である。悔しさから、そうなっているのではなさそうだった。おそらく、向き合っているレーヴェンだけが分かることで、兵士たちにはまったく伝わっていないだろう。
「剣を置け、カヤ。そして、兵たちに
意外そうな表情になったのは、兵士たちのほうだった。事実、彼らはこの少女を相手にしていなかったのだろう。
「お
深々と頭を下げる少女に、兵は困惑していた。何名かは、助けを求めるようにこちらへ視線を送っている。レーヴェンが頷くと、兵が一人歩み出て、彼女の肩を叩いた。
あとは、もう兵士と少女の間でのことだ。レーヴェンは集団に背を向けると、
育ちが良いのだろう、とレーヴェンはカヤという少女について考えた。そして、純粋すぎるほど、純粋である。軍人にいきなり決闘を挑むようなところも、世間ずれしているという表現が正確で、粗野というのとはまた、違う気がした。そも、決闘ということも、それなりに高級な家柄の者が考えることだ。言葉の遣い方ひとつをとっても、そこらにいる平民の少女にできるものではない。
言葉遣いというのは、娘のリオーネを引き取ったとき、最初に教えたことでもある。あの頃、レーヴェンは
あのカヤという娘には、すでにその教養が身に付いている。出自が気になった。ポルトは商人の町と言われているが、もとは漁師の町で、荒くれ者が多い。ああいう娘は、名のある家の
自分が
「レーヴェン殿」
まだ言うか、とは言わなかった。黙って、少女の口から出る言葉を待つ。
「私を、兵として鍛えていただきたいのです」
「
「すでに、申し出ました。女だと、相手にされませんでした」
「私が言っていることと、相違ない」
「お願いします」
その場に平伏し、少女は振り絞ったような声を上げた。栗色の髪が、地面に投げ出される。
「母は、
「御母堂のことは、痛み入る。救うことができず、申し訳ない」
「何を。レーヴェン殿は、われらの恩人です」
「御尊父は、戦で亡くなられたか」
「そう聞いております。ですが、私は」
また、カヤが言葉に詰まった。平伏したままである。レーヴェンは、立つように言った。涙が、その頬を流れていた。
「私は、父をよく知っております。軍人でありながら、剣などからきしで、戦など出たこともないのも、知っておりました。戦に
レーヴェンは、思わず聞き入っていた。
「父の
「戦でも、首は斬られる」
「私には、わかるのです。娘なのですから」
彼女の言わんとしていることが分かり、レーヴェンは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「暗殺だったのでしょう、父は。この砦で、刺客に殺されたのだ。私は、そう思います」
「敵討ちをしたいと、そう申すか」
「戦を、終わらせたいのです。父は武人としては頼りなかったかもしれませんが、戦のことは憎んでおりました。母も、そんな父を愛しておりました。それで、銭の力で街を変えようとしたのです。そこだけは、軍人らしくあったと」
「兵士として剣を振るうことだけが、戦を終わらせる
「それも、分かっております。私が、その
見れば、腰には剣が差したままである。今更ながら、彼女がまだ鎧を身に付けていることに、レーヴェンは気付いた。
「
「十五です。男であれば、もう剣を振るっています」
男であれば。彼女が
戦を終わらせたい。目の前の少女は言った。大それたことだ。夢物語である。戦は、簡単に終わるものではない。しかし死んだ父が戦を憎んでいた、その思いを継いで叶えたいというのは、あって然るべき感情だ。
男であるか、女であるか。死んだ者の思いを受け継ごうというのに、それは関係ないのか。レーヴェンは、カヤという少女を見つめた。また、あの強い眼光である。瞳には自分が映っている。
友が死んだ。戦によってだ。汚い暗殺によって
ただ、それはあってはならないことだと、レーヴェンは思った。
「名は何という」
「カヤ・ヴルスト。
「調練で死んでも、私を恨むなよ。おまえの父の思いは、私には継げぬからな」
カヤはこれ以上ないほどに、大きな眼をさらに大きく見開いた。もう何も言わず、レーヴェンは少女に背を向けた。
自分が前を向いていることに、レーヴェンは気付いた。
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