正義
戦の分析は、端的に行われた。
軍議の間に集まっているのは
討った敵、討たれた味方の数。
いま、敵はかなり遠方まで後退していて、もはや“
問題となったのは、やはり北の戦況だった。北と言っても国土のほぼ中央である。その中央で、一匹の赤い獣が暴れ回っている。そういう印象だった。現状、入ってくる情報は、ほとんどすべて
ただ、この“
副官の
ただ、毒刃に
レーヴェン・ムートは卓上の地図に視線を落としていたが、実のところ何を見ているのかは、わからない。表情も動かなかった。たしかこの男とベイル・グロースは、
「早急に、北に向かわねばならなくなった」
ファルクは淡々と言葉を紡ぐ。地図を指で
「ポルト奪回のために呼び寄せた援軍七万であったが。これでは叶わぬ」
独り言。居並ぶ隊長たちは、それが分かってただ耳を傾けている。
「ヨハン殿も行方知れず。かつての英雄も、もう御歳か。ただの五日しか持たぬとは」
ギルベルトは、隣から猛烈な怒気を感じた。レーヴェン。相変わらず表情は変わらないが、全身に
「
「ポルトは致し方ありませんが、ハイデルの弱体化は。この砦への糧食をまかなっている集落の護り手が、足りなくなります」
ポルトを
ここも潰されれば、ここから北への出陣もまた、難しくなる。ギルベルトも、そこはよくわかった。砦のあらゆることが頭に入っているエルゼンなら、猶のことだろう。
ファルクは何事かをほんの小さな声で呟き、地図を見つめ続けている。
「ただひとつ、有りうるとすれば」
その白い指は、ポルトを押さえる。
「ここが手薄になっている、ということだ」
たしかに、四万を超える兵力を北上させているとあっては、さすがにこの港町まで、かつてのように堅固に守ることはできていないだろう。
「獲るか」
「待て。さすがに、すぐにというわけにはいかん」
エルゼンが、思わず出たギルベルトの言葉を制する。
「この戦で、砦はかなり、やられている。兵力までポルトに割けば、また敵の侵攻を招きかねん。その兵も、疲労してはいるのだぞ。損害もないわけではない」
「しかし、好機だ」
「本末を見失ってはならん、ギルベルト。もともと、それができぬから、都からの増援を要請したのではないか」
「ポルトに偵察を送れ」
ファルクが、不意に言った。
「かの街に残存する兵が、二万を下回るようなら、獲りにいく。二万を超えるなら、ここは無視し、われらは軍を北に上げる。察知されるようにな。そうなれば、どのみちあの港町から軍を引きずり出せる」
エルゼンが額を押さえた。
「引きずり出すのは、ともかく。ほんとうに、
「
あの断崖に囲まれた街に籠られるより、野戦に出てこられるほうが余程いい。いずれの選択をしても、糧道の確保の問題は解決する。ポルトを奪還できれば敵の増援は完全に停止させられる。戦えばいい。ギルベルトは単純に、そう思った。
兵の疲労は色濃い。そんなことは、誰に言われなくとも分かりきっていることだ。しかしどこかで強行的に軍を動かさねば、国自体の存在が揺らぐ。都に敵が迫るというのは、そういうことなのだ。
「しかし、そうなればまた、南よりの敵軍が気になりますな」
年長の
「
すぐさまファルクが言ったことに、はじめ誰も反応できなかった。
「何人討った、ギルベルト?」
「総数、五千ほどかと」
幾分か遅れて、ギルベルトも返答する。生きた捕虜を含めれば、もう少し増える。
「その五千の鎧を
それは、という声が誰からか上がった。
ファルクの口調に澱みはない。
「
「
「交易をしている者に銭を握らせろ。代わりに、ここを通る税は徴収するな。オルカン周辺で商いをしている者にも、同じように。銭で駄目なら、銀を持たせてもいい。塩でも構わん。屍を運ばせ、あの街の壁を
それで、ファルクの言わんとしていることを察した者が数名、顔色を変えた。誰かの呻く声が聞こえる。
オルカンの街。敵国の、戦場に最も近い街。堅牢な城郭都市である。ただしそれは、外から武器をもって攻められた場合に、ということである。
疫病にはどうか。効果はある、とギルベルトは思った。
ファルクの神経は、疑わない。それで南からの大軍の襲来を抑制できるのなら、それでいいと言うのだろう。ギルベルトは、眼だけを動かして周囲を窺った。顔色一つ変えなかった者。変えたが、すぐに
「
隊長が一名、震える手を挙げた。ファルクは発言を咎めない。
「正義に、
ギルベルトは、思わず口笛を吹いていた。そう言った隊長の勇気に、である。隊長の発言よりも、そちらのほうが気に入らなかったのか、年嵩の
「正義か」
若き
「正義とは何だ。
誰も、何も言わなかった。
「正義など、国が変われば、変わる。そのようなことを論じているうちに、わが都を踏み荒らされるわけにはいかぬ。われら軍人は、国あってのものだ。正義だ誇りだと言うのは、国を守った軍人だけが口にできることではないのか」
「しかし、青き竜は」
「神の思し召しではないと言って国を
はじめて、ファルクの語気が強くなった。何名かが、それに息を呑むのがわかった。しかし、それだけだった。発言を
レーヴェンの怒気が、
「
それを最後に、反対する者は出なかった。
ポルトへの偵察を明日の明朝に出す。それを受けて、今後の方針を数日後には決定する。城壁の仕掛けにも取り掛かる。
男は、自分を追うギルベルトに気付き、足を止めた。
「歩きながら話そう、“雪の獅子”殿」
「おまえ」
溜息混じりに苦い笑みを浮かべると、レーヴェンはゆっくりと歩を進める。
物見の塔へと続く回廊で、足を止めた。先刻まで戦場だった荒野を見下ろせる。屍は、まだ野に散っていた。数十名の兵たちが、それを運搬するべく荷車を出している。
砂混じりの風を、二人で受けた。
「残念だ、“大熊”のことは」
「知っているのか」
「名だけは。おぬしは、友であったとか」
レーヴェンは、微かに頷いた。何か言葉を待ったが、出てこないのだろう、風だけが流れていく。
「死んだ者を、忘れない。生きている者にできるのは、それだけだ」
彼の眼は、荒野の向こうを見つめている。
気持ちは、理解することならできる。ただ、共感はできない。ギルベルトは、そう思った。友は、その者だけの友であって、自分には見えない繋がりがある。不要な言葉をかけることはしなかった。
レーヴェンも、何か言うわけではなく、遠くを見つめたままだった。
「北だな、とにかく」
ぽつりと彼の口から出たのは、それだけだった。
「そうだ。北だな。戦は、まだ続くのだから」
「それで、死んだ者の鎧と、屍か」
「納得できぬという顔だな。誇り高き
レーヴェンの表情は硬いままだった。
「
「そういう男だ、あれは」
ギルベルトは、ファルクと出会ったころのことを思い出していた。
都だった。北伐が完了し、北での傭兵稼業に見切りをつけようとしていた。そのころから、ともに仕事をしている子分が百名ほどいた。彼らを食わせるためにも、戦が必要だったのだ。自分もそうだが、剣の腕以外、何も持たない男たちだ。
青の国は太平と言われるが、仕事は、探せば無いわけではない。海賊との
軍の大物が都を出る、という噂が立っていたのは、ちょうどそのころである。
引き合わされた軍人は、何が大物か、と言いたくなるような若者であった。肌は白く、傷のひとつもない。名家の御曹司か何か。ギルベルトはそう断じた。ただ、眼光だけが異様に鋭かったのは、憶えている。
話してみると、これが面白かった。理想を語らない。夢も語らない。自分の出自を誇るようなところもない。ギルベルトに出来ることと、戦の経歴だけを
「名家で生まれた。それだけが、
「
「誇りだとか、名誉だとか、そういうもののために命を張れる男がいるというのも、わかる。しかしそれが向かない男がいるというのも、俺は知ってる」
「ファルク殿は、そうでないと?」
「さてね。“雪の獅子”はどうかな」
レーヴェンは何も答えず、黙って風に吹かれている。陽が落ちはじめ、荒野を照らす赤色が濃くなってきていた。
ギルベルトは、薄暗がりが回廊を包むころまで、そこにいた。荒野の向こうに、昨夜まで見えていた明かりはない。代わりに見えるのは、
戦の行方を、少しだけ考えた。ポルトの奪回を目論んで
都の壁は高く、厚い。しかし、九万の兵を破った精鋭がいま、そこに近づいている。
早く、北に行きたいと思った。それは心配というよりも、
ギルベルトを突き動かすのは、ただ剣を振るうことへの渇望だった。
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