毒牙

 たしかにひとつの負けだったが、そのこと以上に気になることがあった。


 五千五百の兵の正体。


 ベイルが馬上で考えて続けていたのは、そのことだけだった。


 周囲には、百騎ほどがついていた。前後方に、さらに数百。本営は、すでに払っている。というより、打ち壊してきた。


 敵の策が、森の中に潜んでいるであろうことは、分かっていたつもりだ。だから、アルサスが最初に森に入り、青竜軍アルメの鎧を身に付けた一団に襲われた、と聞いたときも、動揺はなかった。そう来たか、と思ったくらいだ。


 しかし、さすがに読んでいなかったのは、背後から五千ほどに襲われたとき、誰しもが真直まっすぐに自分の首を狙ってきたことだった。五千と五百いた応援部隊は最後方の本営に置いていて、それが動き出したのだということもすぐに分かったが、狙っているのが自分一人だということを肌で感じたとき、ベイルは僅かに身震いがした。


 殿しんがりを務めていた自分の部隊は六千弱だったから、数で圧し負けるということはなかったし、兵士一人ひとりの質も、明らかにハイデル軍の方が高かった。不意は突かれたが、五千程度の突撃なら防げていたのだ。


 しかし、敵の攻撃が異質だった。こちらの防壁の一点を突破することに集中していたのだ。ちょうど、針の先がからだの深くまで刺さってくるように。そして、針の先端が目指していたのは、自分の首ひとつだった。


 それは、おそらく自分しか感じていない、とベイルは解っていた。数千の殺気を向けられた自分にしかわからない感覚。周囲の味方は、強烈な攻撃を受けた、という程度にしか感じていなかっただろう。


 針の先端にいた男。遣手やりてだった。今になってみれば、あれは赤竜軍の将軍だったのだろうというのが解る。剣を巧みに使う、ベイルよりも若い男だった。


 その男と、戦槌ハンマーで打ち合った。針の先端は、眼前にまで届いていた。あとは、自分が貫かれるか、どうか。そこだけだったのだ。


 貫かれるとは、毛頭、思っていなかった。しかし敵の剣は、想像以上に苛烈だった。打ち合い、馬をぶつけ合い、四,五合。馬首を返し、さらにもう四合ほど打ち合ったところから、自分が押されていることに、ベイルは気付いた。


 そして最後は、自分でも予想していなかったところで、戦槌ハンマーが手から抜けた。弾き飛ばされたのだ、というのが理解できたのは、その後だった。


 敵の剣は、確実に自分の首を落としていただろう。そうならなかったのは、黒馬に乗ったアルサスが、驚異的ともいえる突撃を見せたからだ。数千が自分を包囲しようとしている、その壁を打ち破ってきた。しかも、勢いそのままにあっさりと――少なくとも、ベイルにはそう見えた――敵将の首を飛ばしたのだ。


 そのときベイルは、名状し難い感情に襲われた。相反するような思いが、刹那、胸の中で交錯した。ただ、あの感情が何だったのか、思い返そうとは思わない。判ってしまえば、自分の中でなにかがしおれてしまいそうな気がした。


 それよりも、敵の正体だった。


 潰された東海岸の各駐屯地、その敗残兵。その前提からして、疑わしかった。ただ、ベイルも顔を知っている男がいたし、その男が長年において、青竜軍アルメで隊長を務めていたのも知っている。


 だから、どこまでが真実なのかが、問題だった。敗残兵を集めた、というところから嘘なら、それでいいのだ。


 馬を停め、休息を取った。ザラ平原から南にけ続け、いまはハイデルとの中間地点に差し掛かっている。川が、左手に流れていた。朝の薄闇の下を流れている。開戦前もここを北上してきていた。“青の道ブラウ・シュトラーセ”からは原野を隔てて東に逸れているが、適度に整備はなされている。街道が封鎖されたときのために、軍が管理をしている道だった。


 分隊長に、兵の点呼を行わせる。実際に裏切りにあったと思っている兵たちは、少なくない。ベイルも立ち会って、今のその心配は取り除かねばならなかった。裏切ったのは、ハイデルの兵士ではない。それは確信に近いものがある。青い鎧を身に付けた南方人ズートがかなりの人数で、森に紛れていたというのが、真実だろう。


 負傷した兵は手当てさせているが、ここからだと、まだハイデルまで三日はかかる。川の向こうの谷間に集落があるというのは、調べてあった。立ち寄り、宿を借りてもいいかもしれない。クラムというその村には、ハイデルに木材を売って稼ぐ者が多く、縁はあった。


 兵たちが数名で、河原に向かっている。水の補給だった。撤退してくる残りの部隊とは、ここで落ち合う。川が東から大きく蛇行して曲がっている、その端。窪んだ地形になっているのが特徴だった。


 ベイルも適当な岩を見つけると、そこで休んだ。ひとつ息を吐いただけで、からだが急速に重みを増す。瞼も重いが、思考は続けた。敵の正体。ベイルが恐れているのは、あれがほんとうに各駐屯地から集まった兵だった、という場合だった。


 そして、リューゲン・ヴァイプである。混乱の中、姿を見失ってしまっていた。あの争いの中で死んだと思いたい。しかし、その程度の男でもなさそうだった。あの男にしても、ほんとうはどこから来た者なのか。ポルトの将校。嘘であればいい。しかし一部分でも真実があるのなら。


「いったい、どこまで」


 呟きには、怒りと危惧が入り混じっている。自分でも分かっている。それでも、口に出して言ってしまっていた。


 川の水面に、明るさが出てきた。陽が姿を現し始めた。穏やかな流れを眺めていると、つい先刻まで、血で血を洗うような戦いに身を投じていたのが、夢のようにも思える。


 からだの痛みが、今になって感じられてきた。ベイルは立ち上がると、川岸に向かい、そこで身に付いた血を洗った。その間は、無心でいられた。すぐに手当てをせねばならないほどの大きな傷はない。負けてほとんど無傷というのが、妙な感覚だった。かつてはどんな戦いでも、勝とうが負けようが、全身に傷を受けていた。それが、誇りでもあった。


 それが今は、どうだ。ベイルの胸中にまた、複雑なものが去来した。


 顔を洗う。一度、強く目をつむり、見開いた。川面に映る、自分と目が合った。思えばこの戦の、初めからこういうことがあった。久しぶりの実戦で沸き立つものはあったが、気持ちのどこかに遅れてくるようなものもあったのだ。そういう何かが、この負けを招いたのではないか。


 ベイルは自分の頬を両の掌で叩くと、川から離れた。ちょうど、兵が駆けてくる。周囲の偵察に出していた兵士だった。この隊を追ってくる部隊がいるという。敵ではなく、副官のディック・コップフが率いる部隊であるらしい。兵士の声には安堵の色があった。


 ディックの部隊が最もぶ厚く、騎馬と歩兵を合わせて一万三千いた。アルサスの部隊が騎馬のみで一千。残してきた部隊が、どれほど残っているのだろうか。


 数刻待ったところで、馬群が現れた。先頭の者が、部下に指示を出してからベイルの下へ駆けてくる。供が二名ついていた。


「混乱の中、三千ほどをも失いました。申し訳ありません、ベイル殿」


「おぬし、腕を」


 すぐにベイルが言うと、副官は首を振った。


「血止めは済ませていますし、問題ありません。痛みはしますがね」


 それよりも、とディックは声を低くする。


「アルサスはまだ、残っています」


「なに?」


「残存部隊、まあ都の兵というところでしょうが、それを、助けると」


「あいつ」


 止めはしなかったのだろう。ベイルも、その場にいればそうしたかもしれない。目の前に救える命があれば、躊躇ためらうことなくからだが動く。アルサスというのは、そういう男だった。彼が率いる兵も、隊長がそうするなら、迷うことなく従ったはずだ。


「生きて戻るのでしょうが。敵は、都の兵だったのでしょうか?」


「そのことだが、ディック」


 ベイルはその場に座った。ディックは、察したように彼の供を離れたところで待機させる。


南方人ズートと通謀している者が、かなりいる。青竜軍アルメの、深いところまで」


「やはり」


「五千の応援部隊は、迷うことなく私の首を狙ってきた。ああいう動きは、全体の意思がまとまっていなければできない。先頭で剣を振るっていた男も、赤竜軍の将軍だったのではないかな」


「森の中で、合流した。あらかじめ、打ち合わせてあった。そこまで含めて、絵図を描いた者がいるということですな。リューゲン・ヴァイプとかいう、あの男でしょうか」


「それほどの男とは、思えんが」


「しかし、ベイル殿の首とは」


 ディックはその先を言わなかったが、考えていることは分かる気がした。


 言ってみればベイルは、国土の南の、ひとりの指揮官にすぎない。そのひとりの首をることに、それほどの価値を置くのだろうか。作戦としては、マルバルクの森を北に逃げ切ったところで成功だろう。その背後を衝こうとしたこの軍を、足止めすることさえできればよかったはずで、言ってみれば時間稼ぎだけでもいいはずだ。攻撃の意思が明らかに違っていて、作戦や命令といったもの以上の、執念のような黒いものを感じざるを得ない。


「ディックよ、この戦いの裏に、私は何かがいるような気がしてならぬ」


「何かとは」


「わからぬ。ただ、あの部隊だけは、異様だった。赤竜軍なのだろうが」


「待ってください。あれは、赤竜軍だったのですか? 敗残兵が裏切ったのでは」


「そこだ、ディック。私の考えでしかないが、裏切りでもないのではないか。そも、青い鎧を着ているだけで、中身は青竜軍アルメでも、何でもなかったのだとしたら?」


「この国の軍ですよ、あの鎧を付けているのは」


「私が言いたいのは、そういうことではないのだ。根っこの問題だ。今のこの国の軍は腐ってしまったと思っていたが」


 裏切るような男たちが数千人集まっていたのなら、自分たちも察することはできたのではないか。それができなかったのは、彼らに裏切りという感覚そのものがなかったからなのだとしたら。


 軍は、腐ったのではなく、異質なものが知らぬ間に入り込んでいるのではないか。そしてそれは、自分たちが想像もしていないほど深く、広くこの国に浸透しているのではないか。長い平和。その裏で長い年月をかけて。毒が人のからだを蝕むように。


「いったい、どこまで」


 どこまで、その毒はこの国を蝕んでいる。


「リューゲン・ヴァイプ。どこに行ったのでしょう」


 あの男が、その毒を撒き散らした。それは、有りうることだ。ただ、ひとりではできそうもない。見えない敵は、もっといそうだった。


「捜さねばなるまい。死んではいないと思う」


「私も、そう思います」


「ここで、アルサスを待ち続けることはできぬ。この先のクラムで、一日、滞留する。伝令を、アルサスに向けて出しておけ。それから、リューゲン・ヴァイプもそうだが、怪しい者がまだ潜んでいるかもしれぬ」


「哨戒の兵を増やします」


 ディックが駆け去ると、ベイルも兵のもとに戻った。すでに出立の用意は始められていて、兵たちの表情も締まったものになっている。出立を、ベイルは命じた。


 クラムまでは、すぐの道のりだった。谷間の小村へは、この川沿いに南下すればいい。もしかすると、途上でアルサスの隊が追いついてくるかもしれなかった。


 あの男が帰ったら、今後のことを話し合うべきだ、とベイルは考えていた。この戦で、はっきりした。小隊長カピタンに収まるような器ではない。いずれは指揮官コマンダントの地位をディックと争えばいいと思っていたが、それはもう、先の話ではなくなった。


 しきりに、斥候は出した。村に近づくにつれ、背の高い木が増え、やがて林に入った。異常は報告されない。同時に、後方から追ってくる部隊があるという報告もない。


 林の木々は高く、陽の光を遮っていた。右手側、西には山があって、ハイデルに運ばれてくる木々はあそこから切り出されてくるのだと思われた。そんなことを考えられるほど、行軍は静かなものだった。


 クラムの村には、先んじて二十名ほどが入っていた。村の長老と話を付けるために送った者たちで、ベイルらの隊が村に入ったときには、もう借りられる場所も確保されていた。さすがに一万もの人数すべてを屋根の下には入れられないということで、宿を借りられるのは僅かな人数だった。あとは、村の外れで野営である。それは仕方のないことだった。


 ベイルが入ったのは、村の南端にある建物だった。家主がいるらしいが、その者はベイルのために家を空けたらしい。戸口に見張りを立たせ、中に入った。


 鎧を解き、着物だけになる。戦槌ハンマー。剣。すべて外し、からだの傍に置いた。思わず、大きな溜息が出た。疲労が、一気に押し寄せてくる。その場に座り込んで、ベイルはぼんやりと戦のことを考えた。


 川の流れる音の上から、人が行き交う声も聞こえる。穏やかなものだった。兵士らには、食うものは糧食でまかなえと命じてある。無論、ベイルもそうした。村の者たちからは、何も譲り受けないし、奪わない。こんな小村では、当たり前だった。


 ハイデルに戻ってからやるべきことを、頭の中で整理した。何とか、すぐに北へ行った敵軍の背を追いたい。敵もただでは済んでいないだろうが、一月ひとつきもすればまた動き出すはずだ。こちらも、それよりは速く準備をせねばならない。


 また、準備するだけだ。次の戦いに備える。一度の負けで心は動かさない。北伐の頃、誰であったか、将校に教えられた。戦い続けるのだ。上に立つものは、心を動かすな。勝っても、負けても、戦の大局が見えるまでは何も決めつけるなと教えられた。それだけは、間違っていないと思えた。この戦の大局は、まだ決していないのだ。


 裏に何が潜んでいるのかも、見定めねばならない。もしそれが、軍の中枢にまで及んでいるとしたら、放ってはおけなかった。気付いている者が、他にいるとは思えない。というより、他にそんなことを考えそうな者は、いないだろう。


 そこで、家の戸口が、音もなく不意に開いた。


 なんだ、と声を出すよりも先に、ベイルは剣を掴んで立ち上がっていた。


「消えたと思っていたが」


「消えるわけには、参りません。貴方が死ぬのを、私は見たいのですから」


 リューゲン・ヴァイプだった。戸口の見張りは死んでいる。確かめずともわかった。彼の持っている細い剣が、血に濡れていた。


「死ぬのか、俺が」


「いろいろと、お気付きのようですので」


「おまえは、何なのだ」


「何でもありませぬ」


「この国に毒を撒いている者がいる。俺は、おまえもその内のひとりだと思っているのだよ」


 リューゲンは、かすかに息を吐いた。それから、笑った。細めた眼の奥にある爛々とした光。自分だけを見ている、とベイルは思った。


「一代の英傑。ほんとうに、そう思いますよ、ベイル殿」


「いったい、どれほどの毒がこの国を蝕んでいるのだ?」


「いま、ここで死ぬ貴方が、それを知って何とします」


「俺を殺せると思っているのか」


「ええ、まあ」


 もう何も、言わせるつもりはなかった。剣を抜いた。振るった。リューゲンの持っていた剣が飛んで、壁に突き刺さった。返す一振りで、首を飛ばした。笑顔のままの首が落ちて、からだが仰向けに倒れた。


 左の脇腹。なぜか、熱かった。見ると、小刀ナイフだった。死ぬ間際に、リューゲンが投げたのだろう。引き抜いた。痛みはあるが、それほど深く刺さってもいない。しかし手当てはいるだろう。その程度だった。兵を呼んだ。


 すぐに、数名が駆けてきた。戸口の屍体したいを見て声を上げ、屋内に転がった首を見てまた声を上げた。ベイルの着物が赤く染まっていることにも驚いたようだが、すぐに手当ての準備を始める。何人かが、また家から駆け去った。


 その足音が、妙にくぐもって聞こえた。耳がおかしくなったのか。ベイルは自分の蟀谷こめかみの辺りを叩いた。その感触が、いやに鈍かった。


 兵が来た。傷の応急処置に使う箱。その箱が、なぜかぼやけて見えた。からだが、左に倒れた。床に、頭を打った。


 目の前に、リューゲンの首があった。笑っている。眼の光は失せている。しかしベイルだけを、まだ見つめていた。


 兵たちが、何か言っていた。何を言っているのか、聞き取れない。なんだこれは、と思った。リューゲンの首。


 そうか。毒か。なぜか、納得したような気持に、ベイルはなっていた。


 また、人が増えた。誰なのか。視界がかすむ。なんの、と自分に活を入れる。視界が明瞭になる。ディックの顔だけは、判った。また霞んだ。


「おい、大したことはないぞ。ドミニクを呼べ。そうだ、ドミニクを」


 言って、ここはハイデルではなかったか、と思い返した。ここはどこだ。あの頑固な医者を呼べ。以前、黒い怪物に襲われたときも、あの医者がいたから死なずに済んだ。


 いや、自分を救ったのは、あの白銀の娘であったか。今は、どちらもいない。


「レーヴェン。娘ができたなら、俺に言えよ」


 ディックの声か、何かが聞こえた。いや、言ったのは自分か。わからない。ディックか。おい、うるさいぞ。俺が今呼んだのは、レーヴェン・ムートだ。あの男、今どこにいる。


 からだの中で、何かが動き回っていた。不思議と、痛みはない。ただ、何も見えなくなってきた。


「大熊はまだ死なぬ」


 叫んだつもりだった。


「死なぬぞ、俺は。そうだろう、レーヴェン」


 突然、からだが軽くなった。


 どうだ。やはり毒など、大したことはないではないか。こんなことで死ぬはずがない。化物の呪いでも死なずにいた俺が、たかが毒で。俺は、この国に沁み込んだ毒を抜かねばならぬというのに。


 躰は、もう浮き上がりそうなほどに楽になっていた。立ち上がった。立ち上がったつもりだった。


 毒を抜くのだ。


 叫んだが、それが言葉になったかは、わからなかった。




(ザラ平原の戦い  了)

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