暗転
敵兵と将の姿がある、と戻った兵士が言った。
部隊中央にいるヨハンでも目視できる位置に、いくつかの、松明のものらしき明かりがある。たしかに、一団が固まって、動かずにいる。さらに続けて、東西に走らせていた斥候も戻ってくる。五百ほどの小隊に分かれ、同じような間隔を空けて、敵部隊が待機しているという。不意を打たれるような位置に、潜んでいる部隊もないことがわかった。
七万を、鳥の翼のように展開している。左右の翼は敵、つまり森の方向にせり出し、中央のヨハンの部隊一万が最後方である。防御の陣だった。攻める必要はない。敵が実際に投降すればそれでよいし、罠であったとしても、倍の兵力なら余裕をもって受け切れる。
もう、こんなつまらない戦は終わらせたいというのが、ヨハンの本音だった。
夜の森と、星の出ていない夜空はほとんど区別がつかず、一枚の黒い壁のようにしてある。明かりはその下に小さく点在していた。その明かりのなかに、旗が立っている。
暗い森に入る。明かりが大きく見えるようになってきた。
旗の下には、さらに人が集まっている。人の輪郭が見えるようになった。
ヨハンは行軍の速度をさらに落とした。注意深く、周囲を見渡す。闇の中。右手に城があるはずだった。木々の間から篝火の明かりが漏れていて、城壁の様子も垣間見える。旗が立っている様子はない。ほんとうに、降ろされている。ただその灯りは、森の中で足下を照らしてくれていた。
さらに接近する。
傍のゴリアトと視線を交わす。夜でも、この距離なら目を合わせられる。意図しているところはすぐに伝わり、さらに自軍の前方へと指示が伝わる。
じわりと、部隊を進ませた。決して、警戒は解かない。
敵の顔が視認できる位置まで近づいた。
そこで、ヨハンの気に触れてくるものがあった。松明を焚いた集団。その部隊の間隙。木々の根元。
すぐさま視線を戻し、敵将の顔に注目した。見える。三人とも自分を見つめていた。
投降する将の表情ではない。
直後、背後で妙な音が鳴った。思わず振り向く。高く、耳障りな長い音。
今度は、前方で喚声が上がった。
やはり、策であった。しかし、準備していなかったわけではない。先頭の部隊は、すぐに武器を構えだした。
「迎え撃て」
ヨハンが言ったときだった。
視界が真暗になった。自軍の兵の、動揺した声。前方、すべての明かりが、唐突に消えた。人の姿が消え、先刻まで見えていた城も闇に溶けた。
音は鳴り続けている。笛の音か。これが合図だったのだ。
「落ち着け。前から来るぞ。防御を固めよ」
後方で笛を鳴らしているのは、あの敵将、アレス・インサーニアの一団に違いない。すべて殺せと指示を飛ばしたかった。しかし、前方の混乱が収まっていない。
「防御だ。これ以上、森に入るな」
ゴリアトも指示を飛ばしている。しかし、どうも両翼の様子がおかしい。止まらない。視認できないが、それは感じ取れる。突っこんでいる。その場に留まり防御、と打ち合わせたはずだ。
伝令。防御の指示。連続して馬を走らせる。
少しずつだが、心中に揺らぐものを、ヨハンは感じ始めていた。
両翼を担っていたのは、自分の隊と、その次に熟練された部隊だった。それを、最も練度が低い部隊と入れ替えた。攻めることを考えなかったからだ。それが、裏目に出ているのではないか。
闇。森。笛の音。先刻よりも、混乱の声が近付いた気がする。なぜ止まらない。
伝令が飛んできた。左右で戦闘が始まっている。すでに森の奥深くまで進んでしまい、連携が取れない。それを聞いて、いま何が起こってしまったのか、ヨハンははっきりと想像できた。
「後退っ」
伝令が返っていく。自軍の前方でも争闘の音があった。ここはまだ、防御に専念できている。
人の怒号と喊声、悲鳴。金属のぶつかる音。笛の音。闇の中で交錯している。部隊中央からでは、全容が掴めない。
背後からの笛の音が続いている。ヨハンはそこで気付いた。おかしい、と思った。たかだか一千の捕虜である。なぜ、笛の音が止まらない。兵士が馬を寄せてきた。
側面から、何者かに襲撃されている。闇の中から敵が現れている。地面から槍が飛び出してくる。騎兵が崩されている。そういう報告が入った。
真偽を疑うより先に、ヨハンは応戦の指示を出していた。
もう、後退しか考えられなかった。崩されすぎた。明かりを焚くように指示を出す。まだ、壊滅的な打撃を受けたわけではない。こちらは七万である。いま、自分のいる部隊だけでも一万人の兵士がいるのだ。一度の攻撃を凌げば、反撃に出られる。
しかし心中には小さな引っ掛かりがある。何だ、とヨハンは考え直した。耳障りな笛の音が、思考の邪魔をする。
武装を解いていた敵将の姿。ようやく思い浮かんだ。どこに消えたのか。
また、伝令が来た。兵士の顔は、闇の中でも判るほど白かった。
兵士の口からそう言葉が出たとき、ヨハンの中で絵図ができ上がった。おそらく敵の将が仕掛けてきた策を、自分は今になって見抜いてしまった。もう、止まらない今になって。
呑まれてしまう。
数十年感じたことのなかった寒気が、ヨハンの背を走り抜けた。
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