地鳴り
命以外の、すべてを捨てる。
ベルキウスは、九万の兵に攻囲されると分かったときから、そう決めた。
つまり、都からの七万の兵がやってくると分かったときである。加えて、南からのハイデル軍二万。自分たち
死ぬと決めて戦うことはしない。青の国の都ブラウブルク。そして、“
自分の役割は、そんなものではない。己の武勇で人を奮い立たせることなどできない。
代わりに、どんな汚いことでもやる。およそ十万の大軍相手にまともな戦などしていられない。自分にできるのは、命以外のすべてを捨ててでも――たとえそれで、人として失ってはならないものを失っても――、この局面を切り抜けることだった。
城の中は、静かなものだ。占領した城。将校と兵の気だけが、静けさの中に膨れ上がっている。闘気と殺気。城の中の小さな一室にまで伝わってくるようだった。
「おまえを殺してやる。兵からは、そう思われているようだぞ、ベルキウス」
「おぬしもそう思っているのではないか、オーリオ?」
「思ってるね。串刺しにして、城外に
「
ベルキウスの返答に、美男子は舌打ちで返した。
五名いる
ベルキウス以外の四人は皆、武芸の
その一方で、
その代わりになるようなことは、これまでだって何でもしてきた。軍学は極めるところまで学んだという自負があるし、
他の者にできないことをすべてやってきたからこそ、今がある。そういう僅かな誇りはあった。
「まもなくだ。まもなく。負ければ、私を殺せばいい」
「そのときには、俺もあんたも死んでる」
オーリオは投げやりに手を挙げると、居室から立ち去った。
夜の
今夜、生死をかけた戦いの
北への突破しか、考えていない。すべての犠牲は、そのために払ってきた。
十万の大軍が、今夜、ここに大挙し、押し寄せてくる。そのはずだった。勝ちを確信し、この城に殺到してくるはずだ。そうなるように仕向けた。
勝つために、何でもしてきたつもりだ。
周辺の都市のほとんどをまず支配下に置き、籠城のための素地を作った。実際に籠城などしても意味がないというのは、自身が一番、よく分かっている。それでも徹底した。ここで居座るのだと、あらゆる敵に思い込ませるためだ。すべての街で民を殺すだけ殺し、糧食を奪うだけ奪った。備蓄したもの量は、五万の兵を
仲間であるはずの兵士は、ほとんど全員騙している。南のハイデル軍を騙すためには、兵士たちにも本気の特攻をさせなければならない。策と分かっていて、誰が命を賭けるか。
アレスとともに北の軍に投降した兵たちも、皆、死ぬ覚悟で向かったはずだ。七万の敵軍に投降し、生きて戻れると思っている兵士はいないだろう。真実を知っているのは、
裏切り者のリューゲン・ヴァイプも使った。
ベイル・グロースを殺したがっている。暗殺に失敗して以来、妙な執着を見せている。おそらくは、あの黒い化物どもに
敵の
ベイル・グロース。ヨハン・ベルリヒンゲン。ベイルはともかくヨハンは
細い糸をより合わせ、今にも
何日も、敵と地図を見つめ続けてきた。妙に食欲が沸き、食っては吐いた。二日前からは、血の尿が出ている。兵士たちの恨みは、すべて自分に向いている。死んだ方が、楽になれるのではないか。一日に幾度となくそう考えた。踏みとどまれたのは、
居室の戸が叩かれる。兵の報告だった。戸を閉めたまま、ベルキウスは報告を続けさせる。
北の、七万が動き出した。軍を小隊に分け、ゆっくりと進軍してきているらしい。明らかに、こちらの策を疑っていた。しかし、動いた。ベルキウスの両手が震え出した。固く握りしめる。
「旗を伏せよ。グラウとフォスの部隊に伝達」
打ち合わせは、
旗を伏せる。武装を解く。ほんとうに、そうさせる。しかし小隊と小隊の間に、さらに半分に割った部隊を潜ませていた。この部隊だけが、大量の武器を持っている。小隊の前方には木を伐採して組み合わせ、草を被せ、楯を内側に組んだ仕掛けを置いている。鳥が上空からでも見ない限り、ただの
そして、ハイデルのベイルが率いる、二万。
ベイル・グロースなら、こちらが北への突破を狙っていることすら、見抜いてくる。その上で、背後を突く機は絶対に逃さないはずだ。だから、あえて目につくようにして、昼間にアレスの部隊を北へ動かしたのだ。
夜の森の中で、三つの部隊がぶつかり合うことになる。そこから先は、混乱を巻き起こすだけだ。最後に立っているのが青い旗か、赤い鎧か。夜が明けたとき、それが決まっている。青い竜と赤い竜の加護を、より強く受けた方が生き残る。
兵が駆け込んできた。南から、
報告を受けても、ベルキウスは暫く返答しなかった。
頭の中で、何度も同じ思考が巡る。
七万の敵。投降。ヨハンは信じたか。兵士の命。ベイルの精兵。迫ってくる。夜襲。力を測った。グラウ。どこまで暴れる。夜の森。埋伏。武器は足りているか。笛は鳴るのか。リューゲン。増援。混乱。誰が生き残り、誰が死ぬ。
もう、そこまで来ている。
地が揺れている。地鳴りがする。
全身を、その揺れが突き抜けていくのが分かる。震えている。地が、城が、自分が。
「合図とともに、
自分のものではないような声が、喉から出てきた。
兵が駆けていく。刹那、その背を呼び止めたいような気持ちに、ベルキウスはなった。ベイルの旗はどれほどの速さで迫っている。ヨハンの大軍はどこまで近づいている。問いたかった。しかし問うても、もはやどうにもならないところまで、仕掛けは動いてしまっている。
ベルキウスは地図の前に戻り、震える拳をもう一方の掌で抑えた。
長い息を吐く。
「森を染めるのだ。赤く、赤く」
誰にともなく、ベルキウスは呟いた。呟きは、闇に消えた。
地鳴りは止まない。
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