地鳴り

 命以外の、すべてを捨てる。


 ベルキウスは、九万の兵に攻囲されると分かったときから、そう決めた。


 つまり、都からの七万の兵がやってくると分かったときである。加えて、南からのハイデル軍二万。自分たち赤竜軍レギオは五万弱で、すべて精兵であるが、数の差は歴然としていた。


 死ぬと決めて戦うことはしない。青の国の都ブラウブルク。そして、“青の壁ブラウ・ヴァント”。とすまで、死ぬわけにはいかない。グラウなど、いつ死んでもいいとばかりに戦う。敵兵の血飛沫ばかり舞い上げるが、実際は、彼もからだを痛めぬいている。しかしなぜか、生きて戻る。兵はそれを見て狂喜する。マルバルクの城を陥落させたときの勢いなど、ベルキウスも見ていて鳥肌が立ったほどだ。


 自分の役割は、そんなものではない。己の武勇で人を奮い立たせることなどできない。


 代わりに、どんな汚いことでもやる。およそ十万の大軍相手にまともな戦などしていられない。自分にできるのは、命以外のすべてを捨ててでも――たとえそれで、人として失ってはならないものを失っても――、この局面を切り抜けることだった。


 城の中は、静かなものだ。占領した城。将校と兵の気だけが、静けさの中に膨れ上がっている。闘気と殺気。城の中の小さな一室にまで伝わってくるようだった。


「おまえを殺してやる。兵からは、そう思われているようだぞ、ベルキウス」


 将軍レガートオーリオ・ロサ。若く、男が見ても、はっとするような美貌を持っている。長い金髪ブロンドが揺れ、その顔は、皮肉に歪んでいた。


「おぬしもそう思っているのではないか、オーリオ?」


「思ってるね。串刺しにして、城外にさらしてやろうか」


細剣レイピアの達人に言われては、ぞっとしないな」


 ベルキウスの返答に、美男子は舌打ちで返した。


 五名いる将軍レガートのうち、グラウ・ティグリスとフォス・ヴァルパイン、アレス・インサーニアはすでに城外にいる。アレスなど、敵陣にいる。投降を装って、七万の敵軍の只中にいるからだ。ここにいるのは、ベルキウスとオーリオのみであった。


 ベルキウス以外の四人は皆、武芸の技倆うで将軍レガートに登り詰めた男たちである。赤竜軍レギオには出自に関係なく成り上がる者がいる。その最たる例がこのオーリオで、どこかの村の、どこかの屋敷で小間使いに使われる少年だったのだという。それが、今では最も年若い将軍レガートである。


 その一方で、技倆うでがない者はことごとくふるい落とされる。軍の要職に就くためには、何を置いてもまず力が必要なのだ。力の象徴たる赤い竜を神にいただく国では、当然のことだった。ベルキウスなど稀有けうな例で、剣を振るえば並の兵士にも打ち負かされてしまうし、馬に乗るのも苦手である。


 その代わりになるようなことは、これまでだって何でもしてきた。軍学は極めるところまで学んだという自負があるし、まつりごとについて意見を求められることもしばしばある。


 他の者にできないことをすべてやってきたからこそ、今がある。そういう僅かな誇りはあった。


「まもなくだ。まもなく。負ければ、私を殺せばいい」


「そのときには、俺もあんたも死んでる」


 オーリオは投げやりに手を挙げると、居室から立ち去った。


 夜のとばりが下りていく。城の外で森がざわめいている。風が木の葉を揺らす音に、人が密やかに駆ける音が合わさっている。ベルキウスは蝋燭ろうそくひとつの小さな灯の下で、地図を見つめ続けた。


 今夜、生死をかけた戦いの帰趨きすうが決まる。自分の策で決まるのだ。しかし策が失敗すれば、このマルバルクなどという、よく知りもしない敵国の城で、全員が死ぬ。逆に成功すれば、この攻囲を打ち破り、敵国の都まで辿り着けると思っていた。


 北への突破しか、考えていない。すべての犠牲は、そのために払ってきた。


 十万の大軍が、今夜、ここに大挙し、押し寄せてくる。そのはずだった。勝ちを確信し、この城に殺到してくるはずだ。そうなるように仕向けた。


 勝つために、何でもしてきたつもりだ。


 周辺の都市のほとんどをまず支配下に置き、籠城のための素地を作った。実際に籠城などしても意味がないというのは、自身が一番、よく分かっている。それでも徹底した。ここで居座るのだと、あらゆる敵に思い込ませるためだ。すべての街で民を殺すだけ殺し、糧食を奪うだけ奪った。備蓄したもの量は、五万の兵を二月ふたつきは食わせられるほどになっている。


 仲間であるはずの兵士は、ほとんど全員騙している。南のハイデル軍を騙すためには、兵士たちにも本気の特攻をさせなければならない。策と分かっていて、誰が命を賭けるか。執拗しつようなほどに夜襲をかけさせたオーリオとフォスの部隊では、皆が決死で戦っていたというし、実際に犠牲も出ている。


 アレスとともに北の軍に投降した兵たちも、皆、死ぬ覚悟で向かったはずだ。七万の敵軍に投降し、生きて戻れると思っている兵士はいないだろう。真実を知っているのは、将軍レガートだけである。アレスは誇り高い猛将で、偽の投降をさせるのにも、かなりの労を要した。最後には、五万の兵の命と、麾下きかである一千の兵の命を天秤にかけさせ、彼自身に決断させている。この戦が終われば、どうあっても斬られるかもしれない。


 裏切り者のリューゲン・ヴァイプも使った。


 ベイル・グロースを殺したがっている。暗殺に失敗して以来、妙な執着を見せている。おそらくは、あの黒い化物どもにそそのかされたか、脅されたか、というところだろう。必死なら、理由は何でもよかった。放っておけば、どんなことでもするだろう。そういう意味では、信用すらしていると言っていい。何一つ好きになれない男だったが、姑息な知恵を生み出すという点では、あれ以上の男はいない。少しそそのかすだけで、ハイデル軍にあっさりと姦計かんけいを仕掛けていった。


 敵の指揮官コマンダントは、信用することで利用した。


 ベイル・グロース。ヨハン・ベルリヒンゲン。ベイルはともかくヨハンは耄碌もうろくした老将だと言われている。そんなはずがない、とベルキウスは考えていた。質はどうあれ七万の指揮を任されているのである。二人とも、並の指揮官ではないというほうに賭けた。思慮深く、冴えもある。勝機は逃さない。だからこそ、策に乗ってくるはずだ。いずれの指揮官が愚鈍であっても、ベルキウスの作戦は失敗する。


 細い糸をより合わせ、今にもほどけてしまいそうなところを、かろうじて指先でつまんでいる。そんな気分だった。どの糸が外れても、赤竜軍に勝ちはない。


 何日も、敵と地図を見つめ続けてきた。妙に食欲が沸き、食っては吐いた。二日前からは、血の尿が出ている。兵士たちの恨みは、すべて自分に向いている。死んだ方が、楽になれるのではないか。一日に幾度となくそう考えた。踏みとどまれたのは、神都ブラウブルクを燃やす夢を何度も見たからだ。その夢を見た翌日は、からだの底から限りなく力が湧くのだ。


 居室の戸が叩かれる。兵の報告だった。戸を閉めたまま、ベルキウスは報告を続けさせる。


 北の、七万が動き出した。軍を小隊に分け、ゆっくりと進軍してきているらしい。明らかに、こちらの策を疑っていた。しかし、動いた。ベルキウスの両手が震え出した。固く握りしめる。


「旗を伏せよ。グラウとフォスの部隊に伝達」


 打ち合わせは、将軍レガートたちとの間で、すでに幾度となくやっている。動きは、必ず揃う。


 旗を伏せる。武装を解く。ほんとうに、そうさせる。しかし小隊と小隊の間に、さらに半分に割った部隊を潜ませていた。この部隊だけが、大量の武器を持っている。小隊の前方には木を伐採して組み合わせ、草を被せ、楯を内側に組んだ仕掛けを置いている。鳥が上空からでも見ない限り、ただのくさむらに見えるよう造らせた。よほど接近されない限りは、武装を解いた将軍と兵士が並んでいるように見せられるだろう。


 将軍レガートアレスの部隊には、小さな笛を持たせていた。鎧の下に身につけた着物の、さらに内側に忍ばせてある。一千の兵が一斉に吹く、その笛の音が合図である。埋伏した兵が、武器を取り敵に向かう。


 そして、ハイデルのベイルが率いる、二万。


 ベイル・グロースなら、こちらが北への突破を狙っていることすら、見抜いてくる。その上で、背後を突く機は絶対に逃さないはずだ。だから、あえて目につくようにして、昼間にアレスの部隊を北へ動かしたのだ。


 夜の森の中で、三つの部隊がぶつかり合うことになる。そこから先は、混乱を巻き起こすだけだ。最後に立っているのが青い旗か、赤い鎧か。夜が明けたとき、それが決まっている。青い竜と赤い竜の加護を、より強く受けた方が生き残る。


 兵が駆け込んできた。南から、馬蹄ばていの音。地平の向こうに、うごめく影。ハイデル軍が動き出している。兵の声は、上擦っていた。


 報告を受けても、ベルキウスは暫く返答しなかった。


 頭の中で、何度も同じ思考が巡る。


 七万の敵。投降。ヨハンは信じたか。兵士の命。ベイルの精兵。迫ってくる。夜襲。力を測った。グラウ。どこまで暴れる。夜の森。埋伏。武器は足りているか。笛は鳴るのか。リューゲン。増援。混乱。誰が生き残り、誰が死ぬ。


 もう、そこまで来ている。


 地が揺れている。地鳴りがする。


 全身を、その揺れが突き抜けていくのが分かる。震えている。地が、城が、自分が。


「合図とともに、かがりを消せ」


 自分のものではないような声が、喉から出てきた。


 兵が駆けていく。刹那、その背を呼び止めたいような気持ちに、ベルキウスはなった。ベイルの旗はどれほどの速さで迫っている。ヨハンの大軍はどこまで近づいている。問いたかった。しかし問うても、もはやどうにもならないところまで、仕掛けは動いてしまっている。


 ベルキウスは地図の前に戻り、震える拳をもう一方の掌で抑えた。


 長い息を吐く。


 蝋燭ろうそくの火を、指で揉み消す。熱さも感じない。


「森を染めるのだ。赤く、赤く」


 誰にともなく、ベルキウスは呟いた。呟きは、闇に消えた。


 地鳴りは止まない。

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