老将、その憂い

 城の北は湿地と沼地が広がっていて、布陣に苦労した。


 結局、東西に長く伸びた陣と、その後方に野営地を築くしかなかった。こうなると、一万の部隊ごとにつけた大隊長との連携が重要になる。しかしヨハンはこの大隊長連中の素質そのものに、疑いを持っていた。


 近年の青竜軍アルメの弱体化は甚だしい。とくに北部や都に常駐する部隊は、将校、兵士ともに、なぜこんな者が軍人になったのかと思うような人間が占めている。


 かつてはそうではなかった。ヨハンが十万の大軍を率いて北伐を行ったころは、軍人も精鋭ぞろいだったように思う。ヨハンのように、名家の出身ではない者も次々と要職に取り立てられ、その才覚を申し分なく発揮していた。


 それがいまや、軍の主要なところを占めるのは、戦の経験どころか、剣もまともに振るえない名家の子弟ばかりになっている。この部隊もそうだ。認められる将校などほんの二、三名で、あとはこの戦が初陣という隊長ばかりだ。指揮は“青の巨城ブラウ・シュロス”の練兵場でしかったことがないのではないか。


 曇天、野営地の天幕、その内である。幕から覗く空の色は重い。この辺りは湿気しっけた空気になりやすく、天気も優れないことが多々あった。鬱蒼うっそうとした森をつくったのが、その気候でもある。


 ヨハンの心中も晴れなかった。ここまで十日以上をかけて行軍してきたが、その間も晴れることはなかった。行進の様子、歩き方ひとつをとっても、文句を言いたくなる。実際に口に出しても言うが、言われた兵士は気の抜けた返事しかしない。一応は、ヨハンも指揮官コマンダントという地位にあり、いまの青竜軍アルメでは元帥マルシアルに次ぐ経験がある。現場の指揮官としては最長の軍歴を有している自覚もある。兵士たちが歯向かうことなど決してないが、まだ自分に向かってくるような兵士がいた方がましだ、と思えた。


 自分が細かいことにばかり気になるような、矮小な人間になってしまったのだろうか。そういう自己嫌悪にすら陥りそうなところを、ヨハンは首を振って常に否定し続けてきた。変わったのは、軍であり、兵士だ。よわいは五十七になるが、自分は、昔の心を失っていない。


 昔のことを思い出す。北伐。二十年近く前のことだ。北の異民族を排すれば、この青の国にかつてない平和をもたらせると信じて戦った。当時の赤の国は、そのさらに数十年前の国境戦で敗北し、ほとんど力がなかったからだ。異民族どもの抵抗は激烈だったが、それだけに自分の命を賭けている、という感覚を持てた。


 燃えていた。自分だけではない。将兵のすべてが、である。角笛ホルンに雄叫びで返し、身を奮い立たせた。たのしかったと言ってもいい。無論、勇敢な男たちを多く失いもしたが、戦とはそういうものだ。真に勇敢な男が、国のため命を散らす。そこに向かって戦うのが軍人でもある。


 あの頃を生き残った軍人たちは、ほとんどが軍を去った。いま辣腕らつわんを振るっている東のヴォルフラム・スタークや、南のベイル・グロースも、当時は新米の将校だった。ヨハンの副官だったレーヴェン・ムートも、いまはどうしているのか知れない。いい男だった。若き剣豪で、人格にも優れていた。つまらぬ理由で軍を除籍されたが、いまも残っていれば、自分などとうに引退してその席を譲っていたはずだ。


 ある時を境に、歴戦の軍人たちが軍から姿を消していった。ここ十年間で急速に、という感じがある。レーヴェンもそうだし、他にも、地方に飛ばされたり、何かの理由を付けられ退役を勧められた者を見てきた。


 ヨハンはそこに、何か意図を感じざるを得なかった。元帥マルシアルエーリッヒの意図である。南部国境戦も、北伐も経験していないのに、軍の最高位にまで登り詰めた男。建国の頃からの名家の出で、教皇ら青竜教会の主立った人間にも顔が利く。家柄に興味はなかったが、それで軍を仕切られてはたまったものではない。


 自分の周囲から、叩き上げの軍人を消している。名家出身の者や、近しい派閥の将校で重役を占めさせている。そういう邪推はするべきではないが、否定もできなかった。


 大隊長らから、伝令は走ってくる。取るに足らない情報ばかりで、鬱陶しくもあった。必要な情報と、そうでないものを選ぶこともできないと見える。自分が、そこは整理するしかなかった。皆、家柄を笠に着た素人だ、と思った。


 卓に広げた地図。書き込まれた情報は、ほとんどが地理に関するものである。南のベイル・グロース率いるハイデル軍の情報は、皆無である。南との連絡線は、そのほとんどを断たれていた。街道は言うに及ばず、森の西部まで塞がれている。


 その打開を試みるのは、諦めた。こちらは七万。あちらは、得た情報だけだと五万ほどである。南部軍二万と併せて九万の大軍で、押し包む。単純だが効果的に思えた。情報を断ってくるのは連携を取らせないためであろうが、所詮は悪足掻わるあがきである。籠城の体力もないのだ。


 それは、間諜を送り込むことで分かったことだ。赤竜軍が城と同時に占領したエベネなど周辺の街に百人ほどの間諜を入れた。現在、敵はそれらの街から兵糧を接収、実際には略奪している。兵の行き来も多いのだ。


 城にも間諜を送り込みはしたが、さすがにそこは、敵も警備が厳重である。三十名送り込んだ間諜は、布陣してから四日、一人も戻らなかった。


 しかし二日前、送り込んだ間諜が二人、生還した。しかも、敵の使者を伴って、である。密かに出ている使者のようで、文官が三名だった。


 こちらの偵察に気付いた敵は、間者の一掃を行っているらしい。生還した二名以外の全員は捕らえられ、殺されたという。ただし一人の将軍が、二名だけを残し、そこに自軍の使者を伴ってかえさせたようだ。敵将の名はベルキウス・ガルバという。


 使者が持参した文書には、敵の兵力の総数や兵糧が記載されていた。それを信じるならば、赤竜軍はもう数日の籠城が限界というところだろう。信じるならば、である。


 そんなものを送ってくる理由は、ひとつしかなかった。講和を結びたい。書簡にはそうあった。その証左として、次は有力な兵士を密かにこちらに寄越すという。


 生きて帰った間諜には、敵軍内の動きをつぶさいた。敵には不和が起こっているという。すぐに城から撃って出ようという者、籠城を主張する者、撤退を仄めかす者が指揮官の内に混在していて、とくに強硬なのは野戦を主張するグラウ・ティグリスという将軍らしい。その将軍に付き従う数名の指揮官が、撤退派の意見に耳を貸さずにハイデル軍と夜の野戦を繰り返し、またそれが軍内の混乱を生んでいるようだ。


 ベルキウス・ガルバはどうやら撤退派で、グラウに反抗し言い争う様子もあったらしい。


 様子を見る、ということで、こちらの意思は固まっている。どのみち、持久戦なら補給線を確保したこちらが負けるはずがない。勝手に混乱し、勝手に瓦解してくれればなおのこと、楽になる。経験少ない兵士たちを無暗むやみに失うこともない。


 そう考え、こんなつまらない戦のために来たのかと、ヨハンは嫌気が差した。敵は、聞いていたような猛烈な強さを、欠片も見せない。


 今回の総指揮を任ぜられたとき、僅かに高揚する自分もいたのだ。敵の進撃の凄まじさを、南から来た軍人が語っていた。それを聞いて、自分ならばどうするかと考え続けていた。いくら齢を重ねても、やはり戦場いくさばに立ちたい。その念願叶ったというところだったのだ。なんならこの戦を最後に、戦い抜いて死んでもよかった。


 思考が煮詰まり、一度ヨハンは意識を戦から遠ざける。


「もう、わが国から英傑は生まれぬかな、ゴリアト。戦もつまらなくなったものよ」


 傍らの副官に向けて言った。大きな彫像のような男である。


「時代でしょうな」


 返答は短い。戦後から、副官に取り立てた軍人だ。レーヴェンが早くから指揮官に昇進したため、それ以来はこのゴリアト・ルーエに任せていた。彼もまた叩き上げである。独り言と、そうでないときをよく分かっている。独り言のときは、黙って聞いている。呼びかけられたときは、短い沈黙の後、端的に返事をする。寡黙な男だった。年の頃は、四十を超えている。


「長い平和。それがすべてだ。軍人が、軍人としての仕事をできなくなった。戦功を挙げて名を売ろうという若者も少なくなった。名家の身の程知らずどものせいで、その意味もなくなった。金持ちの倉庫を守ることが、国のためといえるか?」


「これはという若者は、まだ見つかりませんか」


「おらぬよ。かつてのおまえやレーヴェンのような者は、いまの神都ブラウブルクにはおらぬ」


 南ならば、話は別だ。ファルク・メルケル。二十年待った指揮官コマンダントの俊英。いまも国境で戦い続けている。その下にいる部下たちも、皆優れている。年甲斐もなく、羨ましく思うことがあった。


「とにかく、人を見る眼。人の心を掴む言葉。そういうものだ。ファルクにはそれがある。レーヴェンにもあった。軍略や剣の腕は何とでもなるが、こればかりは。生まれ育った場所がすべてだな」


 もう、独り言だった。ゴリアトはただ立っている。誰かが聞いている、というのが分かるだけでよかった。


 地図に落とした視線が、自分でも気づかぬうちに、自国の都に向いていた。


神都ブラウブルクでは、もう英傑は生まれまい。人ばかり、富ばかりがある。あの高い壁のせいで、わが国の危機すらも肌で感じられぬ。まともな地方軍の軍人も、あの中に入れば、皆腐る」


 こうして壁から出て、久しぶりに感じる戦場いくさばの空気が、それを実感させた。足元の草や石ですら、張り詰めた気配を纏っているように感じる。戦場とはそういうものだ。それを感じ取れる者が、この野営地に何人いるか。近衛軍ガルドと呼ばれる、教会を守るためだけにいまも都にいる部隊、その頂点にいる元帥はそれを感じ取れるか。


 知らず、大きな溜息が出ていた。眉間みけんに指を当てる。もう一度、地図に集中した。


 東西に広がるこの部隊は、両翼に比較的強力な部隊を置いている。ヨハンのいるこの軍営も、“青の道ブラウ・シュトラーセ”にほど近いところにあった。


 自分の率いる一万だけは、精強だ。麾下きかとして、元帥に何を言われようとも守り続け、鍛え続けてきた。騎兵五千、歩兵五千。右翼に位置するここに、その部隊があり、指揮はヨハンとゴリアトが執っている。左翼は大隊長オフィツィアクリークスに指揮させている。優秀な隊長だ。数少ない、北伐の生き残りでもある。


 中央が弱いが、そこは敵も攻めにくい湿地である。こちらからマルバルク城に進軍する際の経路は伝えてあるし、攻められたとしても、防衛は容易と思われた。


 幕に、伝令が駆け込んできた。再び、敵軍からの使者が来たとのことだった。一千の兵を伴ってきたという。ヨハンはすばやく鎧を身に付け、幕を出た。ゴリアトが静かについてくる。馬がきだされ、三十騎がヨハンの周囲についた。


 野営地は、俄かに騒然となっていた。野次馬か何かのように固まっている集団。顔に覚えのない兵たち。自分の麾下ではない。彼らはヨハンの姿に慌てて敬礼を見せる。笑みが浮かんでいたのを、ヨハンは見逃さなかった。敵国の使者が来たというときに、何をしていたのだ、と思う。


 陣の中央に向かった。大隊長オフィツィアらが、すでに何人か、集まっている。それらと兵士に取り囲まれるようにして、赤い鎧の兵が、地にひざまずいていた。


 ヨハンらが近付くと、人だかりが割れる。騎乗したまま、敵兵の前に出る。


「わが国の言葉が解るか」


 ゴリアトの問いに、敵兵の先頭にいる男が頷いた。禿頭とくとうで、鎧からむき出しになった太い腕が目を引く、筋骨隆々の男である。


「赤の国、赤竜軍レギオ将軍レガート、アレス・インサーニアと申す」


 兵士たちが、どよめいた。ヨハンも内心で少なからず驚く。


将軍レガートだと。まことか」


 赤の国の高位武官に与えられる称号だったはずだ。その上には、大将軍インペラートルしかいない。たとえるなら、青竜軍アルメ指揮官コマンダントである。


 将軍レガートアレスは頷くと、一枚の紙を差し出した。


「同朋ベルキウス・ガルバより。我らは、貴殿らに投降いたす」


 再び、将校も含めた兵士たちが騒ぎ出す。ゴリアトら数人が、厳しい口調でそれを鎮めていた。


 ヨハンは書簡に目を通した。


 投降の意思を示しているのは、将軍三名の他、三万の兵。総兵力五万のうち、二万はもはや指示に離反し、勝ち目のない野戦を繰り返している。青竜軍アルメにこの投降が受け入れられるのであれば、今夜すぐにでも城を明け渡す準備がある。城に掲げた赤い旗を伏せるのを合図としたい。投降する兵士は皆、武器を持たせず、城の外の森に小隊で待機させる。


 内容は、明快なものだった。


将軍レガートベルキウスの申しておった証左というのが、貴殿であるな」


「いかにも。もはや我ら万策尽き、せめて兵士の命だけはと、こうして願いに参った」


「兵士の命を奪うなと?」


「我ら将軍レガートの首で、その代わりとしていただきたい。今夜、あと二名の将軍レガートも貴殿らにまみえよう」


 ほんとうに、終わりなのか。疑念はあった。間諜が偽の情報を掴まされている可能性。ほんとうに無いのか。しかし南で実際に野戦は行われており、敵軍に犠牲も出ている。


 なにより、敵の将軍が投降したのは事実である。ここで首を打たれる可能性すらあるのに、指揮官ひとりを差し出すのには、それなりの覚悟がいるはずだ。すべて虚偽であるはずがない。


「我らへの要求はあるか、将軍レガートアレス」


「三万の兵の命。それだけである」


 敵将の眼は、ヨハンを捉えて離さなかった。


「この者たちを縛り、武器を回収して部隊後方へ。監視をつけよ」


 ヨハンはアレスの眼を見据えたまま言った。


「今夜、闇に紛れて進軍。隠密を徹底し、慎重に進む。敵の計である可能性も捨てきれぬ。旗と、残りの将軍二名の姿を確認するまで、決して武装を解くな。少しでもおかしな動きがあれば、即座にその者どもも、敵兵も斬ってよし」


 アレスの表情が歪む。


「これでも信用せぬか。男ひとり、いや一千名の男が、命を賭けて訴えているのだぞ、ヨハン・ベルリヒンゲン。貴殿は歴戦の指揮官コマンダントだと聞き及んでいたが」


「だからこそだ、若造。口には気をつけよ」


 剣を抜き放ち、ヨハンは敵将の首に切先を押し付けた。


「まだ、斬らずにおいてやる。しかし此度の講和、すべて偽りとあれば、貴殿には、部下が切り刻まれるのを見てから死んでもらおうか」


 集まっていた部下の隊長たちが、ゴリアトの命を受けて散っていく。今夜の準備をしに向かったはずだ。


 いずれ決着はついていた戦だ。ベイル・グロースなら、今頃は敵を蹴散らしているだろう。自分たちも、これだけの兵力を有しているのだ。これが姦計であったとしても、こちらが押し合いで負けることなどない。決着が、僅かに早まっただけのことである。


 アレスら敵兵が縄にかれていった。敵将の眼は怨嗟をたたえ、ヨハンから離れなかった。


「今夜だ、ゴリアト」


 馬に跨って言うと、副官がしっかりと頷いた。


「どちらにしても、血の湧くような戦にはならぬな」


 僅かな疲れを感じながら、ヨハンは馬腹を蹴った。

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